早坂隆(@dig_nonfiction)さんの人気ツイート(古い順)

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靖國神社に参拝する議員をニュースにするのではなく、参拝しない議員をニュースにせよ。
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4月22日は「特攻の母」と呼ばれた鳥濱トメさんの命日。知覧町の特攻基地の近くで食堂を営んでいたトメさんは、多くの特攻隊員から慕われた。勝又勝雄少尉は「俺の余した30年分の寿命はおばちゃんにあげるから」と言い残して出撃した。トメさんは戦後、慰霊や鎮魂に努めながら89歳まで生きた。合掌。
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下の写真は、第五十六振武隊の特攻隊員だった上原良司少尉が持っていた本の1ページ。○で囲まれた文字を並べると「きょうこちゃん さようなら わたしはきみを あいしてる」となる。「きょうこちゃん」は幼なじみの女性とされる。合掌。
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特攻隊員の遺書。内容はもちろん、その達筆さにも心打たれる。皆、20歳前後の若者たち。戦後教育とは何か。
1005
ロシアによるウクライナ侵攻とその後の日露関係の悪化に伴い、シベリア抑留に関する資料がロシア側から提供されなくなっているとのこと。抑留被害者の中には未だ身元不明者も少なくなく、特定のためにはロシア側の資料が必要なのが現状。事態の改善を切に訴えたい。
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月刊「Hanada」(@HANADA_asuka )6月号の安倍晋三元総理と加藤康子氏の対談記事で、安倍氏が樋口季一郎中将について触れていた。今から15年ほど前、ほとんど知名度ゼロだった樋口中将の取材を一から始めた身としては感慨深いものがある。今後も樋口の功績を知る方々が少しでも増えたら嬉しい。
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「多くのユダヤ難民を救出」し、「ソ連による北海道分断を阻止」した樋口季一郎陸軍中将の功績がこれまで充分に語り継がれてこなかったのは、外交官だった杉原千畝とは異なり、樋口が軍人だったことに起因すると思います。しかし、軍人の生涯も史実に沿って是々非々で評価すべきではないでしょうか。
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予定を変更して、山形県の米沢市まで足を延ばしました。この言葉と出会えただけでも来た甲斐がありました。
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「ならぬことはならぬものです」で有名な会津藩の「什の掟(じゅうのおきて)」だが、「卑怯な振舞をしてはなりませぬ」と「弱い者をいぢめてはなりませぬ」も素晴らしい先人の教え。これだけでも徹底して公教育で教えれば、日本社会はもっと良くなるのではないか。
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元兵士の方々の中にも、改憲派と護憲派がいます。問題は結論ありきの偏った取材が横行していること。ある方はこう話していました。「新聞記者が『平和は大事ですよね』と言うので『はい』と答えたら、記事では私が『平和憲法を守れ』と話したように書かれていて驚きました。私は改憲派なのに」。
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子どもの日を「拉致問題」について考える良い機会としたい。横田めぐみさんは拉致された当時、13歳の中学1年生。所属していたバドミントン部の練習を終えて下校している際に北朝鮮に拉致されました。それから今年で45年。日本という国が、真の意味で子どもを大切にする国家であってほしいと思います。
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これ混ぜると美味しい。「巨人対ヤクルト」と呼んでいる。
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もはや「ジャーナリスト」という言葉は、侮蔑の意味を込めて使用されているようだ。「ジャーナリストみたいなこと言うなよ」とは「いい加減なこと言うなよ」の意味とのこと。私はこの事態に忸怩たる思いも持つが、自省を込めて現状に鑑みれば、これは結局、自業自得だとしか言いようがない。
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「歴史人」6月号では「占守島の戦い」についての記事も監修・執筆しました。日本軍がソ連軍の侵攻を跳ね返し、戦後の日本が分断国家になる道を阻止した重要な戦いです。教科書でしっかり教えるべき史実だと思います。
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5月11日は多くの特攻隊員が散華された日。その一人、倉元利雄少尉には身重の妻がいた。彼はこう綴った。「愛児よ もしおもとが男子であったなら御父様に負けない立派な日本人になれ。もしおもとが女子であったなら気立てのやさしい女性になってくれ」。生まれた子は女児。優しい女性になったであろう。
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日本が防衛費を世界標準程度にまで整備しようとすることに対し、火が付いたように反対する人たちがいるが、彼らは中国の異常な軍拡には声を上げない。そういう人たちは以前よりも減ったが、まだ確かに存在する。日本の「国際標準化」を「右傾化」と評する人たちが、日本の抑止力を削いで戦争を招く。
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「軍事力を減らせば(無くせば)平和になる」といった「単純平和主義」は、意味がないどころか有害でさえある。平和をもたらすのは、軍事力の均衡による「抑止力の最適化」である。安直な平和主義者が、平和を乱す。
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「戦時中の日本は沖縄を『捨て石』にした」という表現。しかし、日本軍は沖縄防衛のために多大な戦力を投入。戦艦「大和」の海上特攻も沖縄に向けてのもの。零戦や水上兵器「震洋」の特攻も沖縄戦で最も多く実行された。彼らの献身と犠牲を無視した表現は不適切。遺族からも「やめてほしい」の声。
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自称「平和主義者」のいかに攻撃的なことか。
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戦時中、我が祖母の家には自決用の青酸カリが置かれていたという。もしそれが使用されていれば、私は今ここにいない。自分の存在のきわどさに驚かされる。そしてそれは私以外の日本人も総じて同様だろう。あの日あの町に行っていたら。少し銃弾がずれていたら。日本人の生。それは奇蹟そのものである。
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5月というのは、戦争末期に多くの特攻作戦が実施された月。8月が終戦の日に向けて「戦争を考える季節」となっているように、5月も特攻という史実を通じて国防や慰霊、鎮魂などについて考える期間にすべきではと思います。「特攻慰霊週間(月間)」のようなものを設けたら良いのではないでしょうか。
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昭和20年5月25日、第八次航空総攻撃により、特攻基地である知覧飛行場から71機もの機体が出撃。見送りに来た南部吉雄少尉の母親は、空に向かって白いパラソルを大きく振った。それが息子と約束した最期の別れの合図だった。編隊の中の一機が、それを見届けるようにしてから飛び去っていった。合掌。
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本日は特攻隊「ほがらか隊」の方々の命日。昭和20年5月27日、ほがらか隊を自称する第72振武隊は、沖縄防衛のため鹿児島県の基地から出撃。沖縄周辺にて散華した。子犬を抱いているのは荒木幸雄伍長。実に17歳である。荒木伍長は「チロ」と名付けた子犬に「大きくなれよ」と声をかけてから出撃した。
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特攻隊「ほがらか隊」の一員だった千田孝正伍長(戦死後、少尉)の遺詠。享年18です。
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いつも日本軍への批判を執拗に繰り返している評論家やメディア等が、日本赤軍についてはいささか甘い姿勢を滲ませてしまっているのは、日本の戦後社会の正体を浮かび上がらせているようで実に興味深い。