早坂隆(@dig_nonfiction)さんの人気ツイート(古い順)

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「ユダヤ難民を救った」「北海道を分断から守った」陸軍中将・樋口季一郎に関する記念館が、北海道に開設される予定です。埋もれた存在だった樋口に焦点が当たるようになり、非常に嬉しく感じています。私も微力ながら協力できればと思っております。 - hokkaido-np.co.jp/article/327706 @googlenewsより
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樋口季一郎は杉原千畝より前に「ユダヤ人救出劇」を実現させた陸軍中将。占守島の戦いを指揮し、北海道をソ連の分断から守った人物でもある。かつては「知る人ぞ知る」という存在だったが、最近は関心を持つ人が着実に増えている。男前でダンスも上手だったとか。より多くの日本人に知ってほしい人物。
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パラオ・ペリリュー島の守備隊長だった中川州男大佐は、米軍の上陸作戦が始まる前に島民たちに疎開を指示。結果、島民への被害を防ぐことができた。今もペリリューの人々はその恩義を忘れていない。中川大佐はその後、「サクラ、サクラ、サクラ」という玉砕を告げる電報の末、自決。享年46。合掌。
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最初の神風特別攻撃隊「敷島隊」は、フィリピンのマバラカット飛行場で編成された。現在、同地はフィリピンの人々の手によって維持されている。「どうして日本の政治家は、命を賭けて祖国を守った人々の慰霊に来ないのですか?」
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特攻隊員の方々の遺書より。享年は左の前原軍治曹長が24、右の小野田務少尉が19。内容はもちろんだが、戦前の青年の達筆さには心打たれる。
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俺が死んだら何人泣くべ 特攻隊員(第23振武隊)前田敬の遺書。享年23。 合掌。
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戦後74年。日本は昭和天皇の写真を燃やす動画を芸術として公に展示しようとする国になりました。未来の日本人のために命を落とした御霊は、どう思われていることでしょう。御霊に対して申し訳ない思いに堪えませんが、これから終戦の日に向けて鎮魂の念を大事にしていきましょう。その思いこそ芸術。
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フィリピンで「カミカゼ・ミュージアム」を運営するダニエル・ディソンさん。幼少時、多くの日本兵と親しくなり、餅や芋をもらったという。「ヤマカワという名の中尉が私のことを『自分の小さな弟によく似ている』と言って可愛がってくれました。よく手を繋いで一緒に散歩したんですよ」
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河野太郎外務大臣が、日本の外務大臣として初となるパラオ訪問。レメンゲサウ大統領と会談し、先の大戦時の日本人の遺骨収集について、今後も緊密に連携していく事で一致しました。パラオには未だ2200柱ものご遺骨が残されたままになっていますが、この会談を機に収集活動が活発化する事を望みます。 twitter.com/konotarogomame…
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あいちトリエンナーレでは、特攻隊を侮辱するような展示もあったとの事。以下、特攻隊員たちの遺詠などを紹介します。 生きるのは 良いものと気が付く 三日前 犬に芸 教えおおせて 友は征き 咲くもよし 散るはなほよし わかざくら 即菩提 即煩悩の きさら月 芸術とは何でしょうか。合掌。
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【ジョーク】  日本人と韓国人が殴り合いの喧嘩をしていた。駆け付けた警察官に対し、韓国人がこう叫んだ。 「とにかく、ひどい話なんですよ!」  警察官が聞いた。 「いったい何が喧嘩の原因なんだ?」  韓国人が答えた。 「この日本人が私に殴り返してきたのが喧嘩の原因です」
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8月12日、BS日テレ「深層NEWS」に出演します。テーマは「ペリリューの戦い」です。22:00〜の予定です。宜しくお願いします。 twitter.com/maru2018yomi/s…
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台湾南部の農業の発展のため、八田與一が作った烏山頭ダム。台湾では「最も尊敬すべき日本人」とも称され、その功績は教科書にも記載されている。そんな八田も1942年、乗っていた客船が米軍の攻撃に遭い死亡。その後、八田の妻は、かつて夫がつくったダムに身を投げて後を追った。合掌。
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ペリリュー守備隊長の中川州男大佐は、米軍の上陸戦が始まる前に、島民と在留邦人に対して他の島への疎開指示を徹底。その結果、同島では熾烈な戦闘となったにもかかわらず、民間人への被害は極力抑えられた。その事に関して、今も感謝の言葉を述べるペリリューの人々は少なくない。
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日本海軍には多くの隠語があり、「結婚する」を「マリる」、「鼻の下を伸ばす」を「ロング」、「梅毒」を「プラム」などと称した。70年以上前の軍人さんといえども、今の若者とさして変わらない表情も持っていた。そんな彼らが身命を賭して戦い、斃れていったのが先の大戦の素顔。合掌。
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昭和20年8月13日、満洲国の小山克にて、日本の民間人が乗った列車が小銃等を持った武装勢力に襲われた。女性は輪姦され、抵抗者は次々に殺害された。さらに、100人以上もの女性が崖から飛び降りて自決した。ほとんど知られていないが、これを「小山克事件」という。合掌。
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台湾にある「飛虎将軍廟」の祭神は、杉浦茂峰という日本兵。台南上空での航空戦の際、杉浦の乗った零戦は被弾。機体の降下先には集落があったが、彼は零戦を懸命に操作し、村への落下を回避した。結局、杉浦は米軍機の攻撃により絶命。この恩に報いようと集落の人々が建立したのが飛虎将軍廟。
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大牟田捕虜収容所第十七分所所長を務めた福原勲大尉は戦後、一方的に捕虜虐待の容疑者とされ、C級戦犯として絞首刑の判決を受けた。彼は最期「大地を踏ませていただいて、ありがとうございます」と口にした。杜撰な裁判によってBC級戦犯とされ、命を奪われた人の数は約千人に及ぶ。合掌。
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かつて「C級戦犯」としてフィリピンのモンテンルパ刑務所に収監された経験を持つ宮本正二さん。「11人の現地住民を殺害した」という全く身に覚えのない容疑だった。戦友の一人は「死にたくない」と絶叫し、刑場の露と消えたという。
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終戦後の「シベリア抑留」は広く知られる通りだが、実は「モンゴル抑留」もあった。終戦後、1万人以上もの日本人が満洲からモンゴルに不法に連行され、過酷な生活環境の中で1500~3000人が絶命。現在、ウランバートル郊外には日本人抑留者慰霊施設が建立されている。
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終戦後の8月17日深夜、ソ連軍は日本領千島列島の占守島に不法侵攻。ソ連は北海道の占領を目論んでいました。しかし、これを阻止したのが第91師団の指揮下にあった占守島の将兵たち。爆薬を抱えて敵戦車に飛び込むといった彼らの決死の戦いにより、日本は分断国家とならずに済んだのです。
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占守島の戦いを指揮し、ソ連による北海道分断計画を阻止した陸軍中将・樋口季一郎の直筆の書。「真に徳のある者は孤独ではない」という意味。樋口は満洲で多くのユダヤ人を救出した「オトポール事件」の指導者でもある。もっと多くの人に知ってほしい人物。
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ペリリュー島など、海外に放置されたままになっている戦没者のご遺骨の数は、実に112万柱にも及ぶ。遺骨収集を「国の責務」と定めた推進法が成立して3年。しかし、「ご遺骨の取り違え」が起きるなど、課題はなお山積している。遺骨収集は、国と戦没者との大切な約束。戦没者を二度死なせてはならない。
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私が以前に暮らしていたルーマニアは、チャウシェスク率いる共産党独裁政権を民衆が流血革命によって打倒した国。香港に関する報道を見ていると様々なことを考えさせられます。自由と民主主義への切実なる思い。共産主義が社会に何をもたらすのか。日本人が忘れかけていることかもしれません。
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沖縄から本土に向かう学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦の魚雷攻撃によって撃沈されてから今日で75年。犠牲者の数は、子供を中心に1500人近くにも及びます。沈没現場の海は荒れており、子供たちの泣き叫ぶ声は、少しずつ消えていったと伝わります。何年経っても鎮魂の思いを届けたいものです。