早坂隆(@dig_nonfiction)さんの人気ツイート(新しい順)

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4月7日は戦艦大和の命日。当時、世界一の性能を誇った大和は、沖縄防衛のため「水上特攻」を試み、坊ノ岬沖にて撃沈。乗員3332人の内、生存者はわずか276人であった。臼淵磐哨戒長の言葉。「敗れて目覚める(略)俺たちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか」。
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以前に書いた記事ですが、今こそ読んでいただきたい内容です。 「ギャーという悲鳴、ブスブスッと銃弾が体に食い込む音が…」日本人1000人をソ連戦車部隊が殺害“葛根廟事件”に巻き込まれた少年の証言 終戦前日の「葛根廟事件」#1 #葛根廟事件 #早坂隆 #文春オンライン bunshun.jp/articles/-/452…
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上皇上皇后両陛下(当時は天皇皇后両陛下)のパラオご訪問を私は同行取材した。陛下はその際「先の戦争で亡くなった全ての人々を追悼」と語られた。陛下は常に国の違いを超えて哀悼の意を捧げられる。それが陛下の深いお気持ちなのであろう。その思いは現在進行中の戦争にも向けられているに違いない。
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特攻隊員の宮川三郎は出撃前日、飛び交うホタルを眺めながら食堂の女主人・鳥濱トメに言った。「俺、死んだらホタルになって帰ってくるよ」。翌日の夜、一匹のホタルが食堂内まで入ってきた。トメの娘が叫んだ。「お母さん、宮川さんが帰ってきたわよ!」。トメや居合わせた戦友らは皆でむせび泣いた。
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知覧の特攻基地の近くで食堂を営んでいた鳥濱トメさんは、多くの特攻隊員から「お母さん」「おばちゃん」と親しまれた存在だった。遺族には出撃前の様子を綴った手紙を送り、戦後も隊員たちの供養を続けた。トメさんは平成4年に89歳で逝去。トメさんと特攻隊員たちの笑顔が心を揺さぶる。
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日本という国は、政府が自国民に経済制裁している国なのかもしれない。
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ロシアによるウクライナ侵攻後、私が最も驚かされたことの一つが、日本国内で「降伏」をすぐに口にしたコメンテーターがいたことである。歴史への無知が浅はかな主張を導き出してしまう実例を見た気がした。日本はやはり戦史や軍事学の基礎をしっかり学ぶようにしなければならない。今のままでは危険。
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日ソ中立条約を破棄したソ連は南樺太にも侵攻。真岡郵便局で働く女子職員には疎開指示が出たが、彼女達は「職務を全うしたい」と通信業務を続行。彼女達は最後、本土に向けて「皆さんこれが最後です。さよなら、さよなら」との言葉を残し、服毒による自決を図った。結果、9名の若き命が散った。合掌。
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ソ連によるシベリア抑留では、実はウクライナも抑留先の一つ。現在、激戦地となっているハリコフにも収容所があり、今、破壊されている建物や道路の一部も日本人抑留者が建設したものです。ウクライナの民衆は抑留者に同情的で食糧の差し入れもあったとか。死亡率が最も低かったという記録もあります。
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取材でお世話になった多くの元日本軍兵士の方々が、ここ数年で亡くなられた。皆さん「平和の大切さ」を語ってくれたが、同時に「戦後の歴史教育の偏り」を嘆く声もとても多かった。ある方は「日本軍だけが悪者にされて悔しい」と下を向いた。ある方は「亡くなった戦友に申し訳ない」と号泣された。
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ソ連の最高指導者であるスターリンは、50万人もの日本人将兵を捕虜とする命令(第9898号決定)を極秘に発令。結果、57万人以上もの日本人がシベリアなどの地に強制連行され、多くの方々が無念の思いを抱えたまま絶命されました。この明確な国際法違反は、今に到るまで全く裁かれていない。
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終戦直前、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告。満洲国への侵攻を開始した。当時、150万人以上いた在留邦人は日本に引き揚げることになったが、その途中、ソ連軍兵士や中国人の暴民らから数え切れないほどの殺戮や略奪、強姦などを受けた。「満洲大虐殺」と私は名付けたい。
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17歳の特攻兵である荒木幸雄伍長は、基地の周囲をチョロチョロと歩き回っていた子犬を可愛がっていた。小さな子犬に彼が付けた名前は「チロ」。荒木伍長は「チロ、大きくなれよ」と声をかけ、自身は特攻作戦を遂行するため出撃した。合掌。
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若き特攻隊員たち。彼らの存在がより近しく感じられるような気がして、胸を衝かれました。今までの想像以上に凛々しくもあり、幼くも感じられました。彼らの話し声が聞こえてくるようです。改めまして御霊への哀悼の誠を捧げたいと思います。 twitter.com/alpina2727/sta…
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日本降伏後の連合国軍(実質的にはアメリカ)による占領政策は比較的緩やかだったとよく言われるが、一概には言い切らない方がよい。実際には多数の強姦事件等があったのも事実。一説にはその被害者数は数千人にも及ぶとされるが、これらの事件は厳しいメディア規制によって報道されなかった。
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特攻隊員の千田孝正伍長は「ほがらか隊」の一員だった。第72振武隊は自らを「ほがらか隊」と称した。子犬を抱いているのは荒木幸雄伍長、17歳。その写真右にいるのが千田伍長である。彼らは昭和20年5月27日、鹿児島県の万世飛行場から出撃。沖縄本島中部に広がる金武湾の東方において特攻、散華した。
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18歳の遺詠です。
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戦時中、多くの特攻隊員が、美しくも潔く散ってゆく桜の儚さに自身の命を重ね合わせました。そんな方々の存在があって、今年の春もあります。
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パラオ・ペリリュー戦からの帰還兵である永井敬司さんから聞いた言葉。「日本を守るためですよ。内地で暮らす家族や女性、子供を守るため。私たちは太平洋の防波堤となるつもりでした。そのために自分の命を投げ出そうと。そんな思いで懸命に戦ったのです」。永井さんは2019年11月4日に御逝去。合掌。
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「占守島の戦い」は終戦後の昭和20年8月17日から始まった戦闘。千島列島の占守島に不法侵攻してきたソ連軍を日本軍が食い止めた戦いです。ソ連軍はそのまま南下して北海道の北半分を占領する計画でした。占守島で戦った方々のおかげで、日本は「分断国家」にならずに済んだのです。
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「岐阜新聞」に樋口季一郎中将に関する記事が出ました。占守島の戦いの教訓からウクライナ侵攻を読み解こうとする内容です。良い記事だと思います。 「終戦直後」ソ連侵攻に立ち向かう 占守島の自衛戦決断した旧陸軍軍人|岐阜新聞Web gifu-np.co.jp/articles/-/530…
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真珠湾攻撃と言えば大規模な航空部隊による戦闘が想起されるでしょうが、暗い海中を進んで魚雷を発射する特殊潜航艇で戦った方々もいました。戦死した9名は「軍神」とされましたが、敗戦後は「戦争協力者」等と評価が一変。まさかの「悪者扱い」に遺族たちは涙を流しました。合掌。
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大東亜戦争時におけるソ連軍の満洲国への侵攻と虐殺は国際法違反だが、そのような事態を招いた背景の一つには関東軍の縮小があった。太平洋戦線で苦戦の続いた日本は、満洲守備の関東軍の多くを南方へと転戦させていた。それによって生じた軍事力の不均衡が、ソ連軍による満洲での蛮行に繋がった。
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終戦後、ソ連軍は南樺太にも侵攻。追いつめられた日本人看護婦23名は、強姦よりも自決の道を選び、それぞれ手首にメスを入れた。生存者の一人である鳴海寿美さんは私の取材に対し「自決前に皆で歌を唄いました。皆、本当にいい人たちでした」と言ってうつむいた。彼女の手首には深い傷跡が残っていた。
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文春オンラインにて、拙著『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』の一部を抜粋した特別記事が公開されました。 “他人事”ではないロシア軍によるウクライナ侵攻…いまこそ知るべき、終戦後の日本軍を襲ったソ連軍の「傍若無人」な侵攻とは? #文春オンライン bunshun.jp/articles/-/525…