早坂隆(@dig_nonfiction)さんの人気ツイート(新しい順)

126
今夏は下記2冊を刊行。戦争を改めて考える一助になれば幸いです。 『戦時下のノーサイド 大学ラグビー部員たちの生と死』(さくら舎)amazon.co.jp/dp/4865813497/… @AmazonJPより 『祖父が見た日中戦争 東大卒の文学青年は兵士になった』(扶桑社)amazon.co.jp/dp/4594091105/… @AmazonJPより
127
昭和19年9月15日、米軍はパラオ・ペリリュー島への上陸戦を開始。中川州男大佐率いる守備隊は、米軍の進撃を止めるため決死の反攻。74日間に及ぶ激戦の末、日本側に1万人以上の犠牲者が出た。但し日本側が疎開指示を徹底したため、島民への被害の拡大は免れた。島には今も2200柱以上のご遺骨が眠る。
128
7月11日から海上自衛隊の護衛艦「きりさめ」が、パラオのマラカル湾に錨泊しています。13日には「きりさめ」の乗員がコロール市内の旧海軍墓地を訪れ、戦没者の慰霊碑に献花を行いました。パラオ戦では、日本側に1万人以上もの犠牲者が出ました。島には今も約2200柱ものご遺骨が眠っています。合掌。
129
戦前の早大ラグビー部で監督を務めた大西栄造は陸軍に応召。戦友にこう語った。「俺の死体が不明の時はラグビー靴を履いた死体を探してくれ」。大西の派兵先はフィリピン。昭和20年7月7日、大西はラグビーシューズを履き、更には早大のジャージを腰に巻いて敵戦車に爆雷もろとも突撃して散った。合掌。
130
樋口季一郎中将の功績を伝えるニュースが、NHK北海道で放送されました。関心を持つ方が増えて嬉しく思います。 旧ソビエト軍の千島列島侵攻時 防衛指揮した司令官の孫が講演|NHK 北海道のニュース www3.nhk.or.jp/sapporo-news/2…
131
アメリカ第16代大統領であるエイブラハム・リンカーンの言葉。 「投票(ballot)は弾丸(bullet)よりも強し」 皆で投票に行こう。
132
本日は沖縄戦の犠牲者を追悼する「慰霊の日」。沖縄戦では激しい戦闘の結果、約20万人もの人々が亡くなったと言われています。そんな戦闘から77年。鎮魂と哀悼。そして平和への思いを静かに噛み締める日としたい。
133
女の子たちが「天童って餃子が名物なのかなあ」と話しているのが聞こえてきたけど、違うよ。
134
特攻隊員・渋谷健一には、幼い子供と身重の妻がいた。彼は遺書にこう書き記した。「父恋しと思わば空を視よ。大空に浮ぶ白雲に乗りて父は常に微笑みて迎う」。昭和20年6月11日、渋谷は特攻死。奇しくも同日、妻・光は男児を出産。周囲の者たちは「生まれ変わり」と驚嘆して号泣した。合掌。
135
6月6日付「産経新聞」。「正論」7月号に寄稿した拙稿が紹介されました。感謝申し上げます。
136
6月6日は特攻隊員・宮川三郎の命日。宮川は出撃前日、ホタルを眺めながら食堂の女主人・鳥濱トメに言った。「俺、死んだらホタルになって帰ってくるよ」。翌日の夜、一匹のホタルが食堂内まで入ってきた。トメの娘が叫んだ。「お母さん、宮川さんが帰ってきたわよ!」。トメらは皆でむせび泣いた。
137
特攻隊員となる少年飛行兵の教官役だった藤井一陸軍中尉は「お前たちだけを死なせない。自分も後から必ず行く」が口癖だった。しかし、妻子のある藤井に特攻命令はなかなか出ない。その事実を知った妻・福子は、夫の願いを叶えるために入水自殺。藤井の特攻はこうして叶った。合掌。
138
終戦直前、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告。満洲国への侵攻を開始した。当時、150万人以上いた在留邦人は日本に引き揚げることになったが、その途中、ソ連軍兵士や中国人の暴民らから数え切れないほどの殺戮や略奪、強姦などを受けた。「満洲大虐殺」と私は名付けたい。
139
満洲国・興安街の住民はソ連軍の侵攻を受けて退避。だが、避難中の昭和20年8月14日、ソ連の戦車部隊に包囲され、多くの人々が虐殺された。ソ連軍は投降の意志を示した者たちをも一斉に殺戮。千数百名いた避難民の内、生きて日本に帰国できたのはわずか百余名であった。これを「葛根廟事件」という。
140
「正論」7月号に『語り継ぐべき「満洲大虐殺」』というルポを寄稿。葛根廟事件や数多の婦女暴行事件など、ソ連軍による数々の蛮行について書きました。今まであまり語られてこなかった「真の大虐殺事件」について、多くの方々に知ってほしいと思います。慰霊と鎮魂、そして歴史の教訓を得るために。
141
「戦争の記憶」と同じく、しっかりと語り継ぐべきは「共産主義の歴史」。私が住んでいたルーマニアはもちろん、他の東欧諸国、ソ連、中国、カンボジア等々、多くの国々において、戦争よりも共産主義によって人々の命が奪われてきた。これは義務教育で丁寧に教えるべき案件。過ちを繰り返さないために。
142
いつも日本軍への批判を執拗に繰り返している評論家やメディア等が、日本赤軍についてはいささか甘い姿勢を滲ませてしまっているのは、日本の戦後社会の正体を浮かび上がらせているようで実に興味深い。
143
特攻隊「ほがらか隊」の一員だった千田孝正伍長(戦死後、少尉)の遺詠。享年18です。
144
本日は特攻隊「ほがらか隊」の方々の命日。昭和20年5月27日、ほがらか隊を自称する第72振武隊は、沖縄防衛のため鹿児島県の基地から出撃。沖縄周辺にて散華した。子犬を抱いているのは荒木幸雄伍長。実に17歳である。荒木伍長は「チロ」と名付けた子犬に「大きくなれよ」と声をかけてから出撃した。
145
昭和20年5月25日、第八次航空総攻撃により、特攻基地である知覧飛行場から71機もの機体が出撃。見送りに来た南部吉雄少尉の母親は、空に向かって白いパラソルを大きく振った。それが息子と約束した最期の別れの合図だった。編隊の中の一機が、それを見届けるようにしてから飛び去っていった。合掌。
146
5月というのは、戦争末期に多くの特攻作戦が実施された月。8月が終戦の日に向けて「戦争を考える季節」となっているように、5月も特攻という史実を通じて国防や慰霊、鎮魂などについて考える期間にすべきではと思います。「特攻慰霊週間(月間)」のようなものを設けたら良いのではないでしょうか。
147
戦時中、我が祖母の家には自決用の青酸カリが置かれていたという。もしそれが使用されていれば、私は今ここにいない。自分の存在のきわどさに驚かされる。そしてそれは私以外の日本人も総じて同様だろう。あの日あの町に行っていたら。少し銃弾がずれていたら。日本人の生。それは奇蹟そのものである。
148
自称「平和主義者」のいかに攻撃的なことか。
149
「戦時中の日本は沖縄を『捨て石』にした」という表現。しかし、日本軍は沖縄防衛のために多大な戦力を投入。戦艦「大和」の海上特攻も沖縄に向けてのもの。零戦や水上兵器「震洋」の特攻も沖縄戦で最も多く実行された。彼らの献身と犠牲を無視した表現は不適切。遺族からも「やめてほしい」の声。
150
「軍事力を減らせば(無くせば)平和になる」といった「単純平和主義」は、意味がないどころか有害でさえある。平和をもたらすのは、軍事力の均衡による「抑止力の最適化」である。安直な平和主義者が、平和を乱す。