早坂隆(@dig_nonfiction)さんの人気ツイート(新しい順)

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荒木幸雄伍長(17歳)の属する第72振武隊は、自らを「ほがらか隊」と呼んだ。昭和20年5月27日、「ほがらか隊」は特攻作戦に参加するため、鹿児島県の万世飛行場から出撃。荒木の搭乗機は沖縄本島中部に広がる金武湾の東方において、駆逐艦「ブレイン」に突入した。合掌。
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17歳の特攻兵である荒木幸雄伍長は、基地の周囲をチョロチョロと歩き回っていた子犬を可愛がっていた。小さな子犬に彼が付けた名前は「チロ」。荒木伍長は「チロ、大きくなれよ」と声をかけ、自身は特攻作戦を遂行するため出撃した。合掌。
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「占守島の戦い」は終戦後の昭和20年8月17日から始まった戦闘。千島列島の占守島に不法侵攻してきたソ連軍を日本軍が食い止めた戦いです。ソ連軍はそのまま南下して北海道の北半分を占領する計画でした。占守島で戦った方々のおかげで、日本は「分断国家」にならずに済んだのです。
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終戦直後、ソ連軍の不法侵攻に対し、占守島で実際に戦われた元少年戦車兵の小田英孝さん(94歳)。「占守島ではよくあれだけ戦ったと思いますよ。あそこで日本軍の強さを知ったから、ソ連はそれ以上、手を出せなくなったわけでしょう。戦った意義はあったと思っています」。
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月刊「文藝春秋」(9月号)に「証言・ソ連を北海道から撃退せり」という記事を寄稿しました。実際に占守島で戦った元兵士の方の貴重な証言を元に、日本が分断国家になることを防いだ「占守島の戦い」の実像について書きました。是非ご一読ください。
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満洲国・興安街の住民達は、ソ連軍の不法侵攻後、退避を開始。しかし、避難中の昭和20年8月14日、ソ連の戦車部隊に包囲され、多くの人々が虐殺された。戦車は遺体も重傷者も踏み付けながら走った。千数百人いた避難民の内、生きて帰国できたのはわずか百余名であった。これが「葛根廟事件」である。
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「産経新聞」(8月9日付)のコラム「一筆多論」にて、拙著『大東亜戦争の事件簿』(育鵬社)が紹介されました。「葛根廟事件」に関しての引用です。是非ご一読下さい。
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「子犬を抱いた特攻兵」として有名な荒木幸雄伍長。荒木の属する第72振武隊は自らを「ほがらか隊」と呼んだ。彼らは昭和20年5月27日、鹿児島県の万世飛行場から出撃。荒木の搭乗機は、沖縄本島中部に広がる金武湾の東方において、敵駆逐艦に突入した。享年若く17。合掌。
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鹿児島県の知覧飛行場の近くで食堂を営んでいた鳥濱トメさんは、多くの特攻隊員から「お母さん」「おばちゃん」と親しまれた存在だった。隊員の遺族には出撃前の様子を綴った手紙を送り、戦後も御霊の供養を続けた。トメさんは平成4年に89歳で逝去。合掌。
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俺が死んだら何人泣くべ 特攻隊員(第23振武隊)前田敬の遺書。享年23。 合掌。
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特攻隊である第五十三振武隊の隊員たちが、出撃前に撮った一枚の写真。自分はこんなに笑ったことがあっただろうか。この笑顔の意味をずっと考えています。
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昭和20年5月18日、第五十三振武隊は鹿児島県の知覧飛行場から特攻作戦に参加するため出撃。沖縄周辺の海上で敵艦船に突入した。写真は出撃20分前の「最後の食事」を写した一枚。母の手料理を思い出しながらの食事だったかもしれない。
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潜水服を着て海中から棒機雷で敵船艇の船底を突き上げる人間特攻「伏龍隊」。元隊員の片山惣次郎さんはこう語った。今の人たちには笑われてしまうかもしれませんが、あの潜水服を着て実際に海に潜った人たちは皆『利他行』でやっていたんですよ」。利他行の反対語は自利行。利他行を私は笑わない。
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戦時中、多くの特攻隊員が、美しくも潔く散ってゆく桜の姿に自身の命を重ね合わせました。そんな方々の存在があって、今年も終戦の日がやってきます。
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日本の夏はお盆(盂蘭盆会)に死者を供養する古くからの風習と終戦の日が相まって、世界的にも珍しい独特の雰囲気に包まれます。少しでも御霊の慰めとなるよう、静かに鎮魂の気持ちを送りたいものです。そして御霊が微笑まれるような「安らかな国づくり」を目指さねばと思います。
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通州事件以外にも日本人が虐殺された事件は実は多数あります。例えば小山克事件。昭和20年8月13日、満洲国の小山克で、武装勢力が列車を襲撃。標的とされた日本の民間人が多数殺害されました。強姦も起きたため、100人以上もの女性が崖から身を投げて自決しています。合掌。
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昭和12年7月29日、北平の東方に位置する通州という町で、冀東保安隊と呼ばれる中国人部隊らが日本人居留民への襲撃を開始。「通州事件」の勃発である。暴徒らは女性(妊婦を含む)や子供、老人まで無差別に虐殺した。結局、通州に約300人いた日本人の内、実に200人以上が犠牲になったとされる。合掌。
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最初の神風特別攻撃隊「敷島隊」は、フィリピンのマバラカット飛行場で編成された。現在、同地はフィリピンの人々の手によって維持されている。「どうして日本の政治家は、命を賭けて祖国を守った人々の慰霊に来ないのですか?」
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フィリピンで「カミカゼ・ミュージアム」を運営していたダニエル・ディソンさん(故人)。幼少時、多くの日本兵と親しくなり、餅や芋をもらったという。「ヤマカワという名の中尉が私のことを『自分の小さな弟によく似ている』と言って可愛がってくれました。よく手を繋いで一緒に散歩したんですよ」
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終戦直前の昭和20年7月、沖縄の石垣島から台湾に疎開する島民を乗せた2隻の小型船が、米軍機の攻撃を受けて遭難。漂流者たちは尖閣列島の魚釣島に上陸しましたが、その後、餓死者も出る惨劇となりました。犠牲者のご遺骨は、未だ島内に残されています。一刻も早く遺骨収集を行い、慰霊祭をすべきです。
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昭和19年8月22日、沖縄から本土に向かう学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦の魚雷攻撃によって撃沈されました。犠牲者数は子供を中心に1500人近くにも及びます。沈没現場の海は荒れており、子供達の泣き叫ぶ声は少しずつ消えていったと伝わります。何年経っても鎮魂の思いを寄せたいものです。合掌。
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台湾南部の農業の発展のため、烏山頭ダムを建設した八田與一。台湾では「最も尊敬すべき日本人」とも称され、その功績は教科書にも記載されている。そんな八田も1942年、乗っていた客船が米軍の攻撃に遭い死亡。敗戦後、八田の妻はかつて夫がつくったダムに身を投げて後を追った。合掌。
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先の大戦に関する取材でお世話になった多くの方々が、ここ数年で亡くなられた。皆さん「平和の大切さ」を語ってくれたが、同時に「戦後の歴史教育の偏り」を嘆く声も多かった。ある方は「亡くなった戦友達に申し訳ない」と号泣された。史実に沿った奥行きのある歴史観を丁寧に育む世の中にしたい。
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パラオ・ペリリュー戦の帰還兵である永井敬司さんはこう語ってくれた。「日本を守るためですよ。内地で暮らす家族や女性、子供を守るため。私たちは太平洋の防波堤となるつもりでした。そのために自分の命を投げ出そうと。そんな思いで懸命に戦ったのです」。永井さんは2019年11月4日に御逝去。合掌。
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2020年10月14日に亡くなられたクニオ・ナカムラ元パラオ大統領。2015年に私がパラオを訪れた際、快く取材に応じてくれました。「戦前も戦後も、日本はパラオに本当に良くしてくれた。日本とパラオは友人であり兄弟です」と笑顔で語ってくれたのが印象に残っています。