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「占守島の戦い」は終戦後の昭和20年8月17日から始まった戦闘。千島列島の占守島に不法侵攻してきたソ連軍を日本軍が食い止めた戦いです。ソ連軍はそのまま南下して北海道の北半分を占領する計画でした。占守島で戦った方々のおかげで、日本は「分断国家」にならずに済んだのです。
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満洲国・興安街の住民達は、ソ連軍の不法侵攻後、退避を開始。しかし、避難中の昭和20年8月14日、ソ連の戦車部隊に包囲され、多くの人々が虐殺された。戦車は遺体も重傷者も踏み付けながら走った。千数百人いた避難民の内、生きて帰国できたのはわずか百余名であった。これが「葛根廟事件」である。
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日本の夏はお盆(盂蘭盆会)に死者を供養する古くからの風習と終戦の日が相まって、世界的にも珍しい独特の雰囲気に包まれます。少しでも御霊の慰めとなるよう、静かに鎮魂の気持ちを送りたいものです。そして御霊が微笑まれるような「安らかな国づくり」を目指さねばと思います。
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通州事件以外にも日本人が虐殺された事件は実は多数あります。例えば小山克事件。昭和20年8月13日、満洲国の小山克で、武装勢力が列車を襲撃。標的とされた日本の民間人が多数殺害されました。強姦も起きたため、100人以上もの女性が崖から身を投げて自決しています。合掌。
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昭和12年7月29日、北平の東方に位置する通州という町で、冀東保安隊と呼ばれる中国人部隊らが日本人居留民への襲撃を開始。「通州事件」の勃発である。暴徒らは女性(妊婦を含む)や子供、老人まで無差別に虐殺した。結局、通州に約300人いた日本人の内、実に200人以上が犠牲になったとされる。合掌。
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終戦直前の昭和20年7月、沖縄の石垣島から台湾に疎開する島民を乗せた2隻の小型船が、米軍機の攻撃を受けて遭難。漂流者たちは尖閣列島の魚釣島に上陸しましたが、その後、餓死者も出る惨劇となりました。犠牲者のご遺骨は、未だ島内に残されています。一刻も早く遺骨収集を行い、慰霊祭をすべきです。
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昭和19年8月22日、沖縄から本土に向かう学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦の魚雷攻撃によって撃沈されました。犠牲者数は子供を中心に1500人近くにも及びます。沈没現場の海は荒れており、子供達の泣き叫ぶ声は少しずつ消えていったと伝わります。何年経っても鎮魂の思いを寄せたいものです。合掌。
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先の大戦に関する取材でお世話になった多くの方々が、ここ数年で亡くなられた。皆さん「平和の大切さ」を語ってくれたが、同時に「戦後の歴史教育の偏り」を嘆く声も多かった。ある方は「亡くなった戦友達に申し訳ない」と号泣された。史実に沿った奥行きのある歴史観を丁寧に育む世の中にしたい。
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