早坂隆(@dig_nonfiction)さんの人気ツイート(新しい順)

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特攻隊員の方々の遺書より。享年は左の前原軍治曹長が24、右の小野田務少尉が19。内容はもちろんだが、戦前の青年の達筆さには心打たれる。
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大牟田捕虜収容所第十七分所所長を務めた福原勲大尉は、戦後に捕虜虐待の容疑者とされ、C級戦犯として絞首刑の判決を受けた。刑場に向かう途中、彼は「大地を踏ませていただいて、ありがとうございます」と口にした。一方的な裁判によってBC級戦犯とされ、命を奪われた人の数は約千人に及ぶ。合掌。
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かつて「C級戦犯」としてフィリピンのモンテンルパ刑務所に収監された経験を持つ宮本正二さん。「11人の現地住民を殺害した」という全く身に覚えのない容疑だった。戦友の一人は「死にたくない」と絶叫し、刑場の露と消えたという。
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台湾南部の農業の発展のため、八田與一が作った烏山頭ダム。台湾では「最も尊敬すべき日本人」とも称され、その功績は教科書にも記載されている。そんな八田も1942年、乗っていた客船が米軍の攻撃に遭い死亡。その後、八田の妻は、かつて夫が作ったダムに身を投げて後を追った。合掌。
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本日は台湾の「二・二八事件」記念日。1947年、中国国民党の弾圧により2万人以上の台湾人が虐殺された。日本人の父と台湾人の母を持つ弁護士・坂井徳章は、そんな中で治安維持に奔走。多くの台湾人の命を救ったが、中国側に逮捕され、拷問の末、極刑に。銃殺直前「台湾人、万歳」と叫んだという。
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俺が死んだら何人泣くべ 特攻隊員(第23振武隊)前田敬の遺書。享年23。 合掌。
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月刊『Hanada』(飛鳥新社)4月号に「NHK『731部隊の真実』に重大疑問」と題した論考を寄稿しました。「731部隊」に関しては、より冷静で多角的な議論が必要だと思っています。ご一読いただければ幸いです。 twitter.com/hanada_asuka/s…
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フィリピンのマバラカット近くで「カミカゼ・ミュージアム」を運営するダニエル・ディソンさん。幼少時には、多くの日本兵に可愛がってもらったという。「ヤマカワという名の中尉が私のことを『自分の小さな弟によく似ている』と言って可愛がってくれました。よく手を繋いで一緒に散歩したんですよ」
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最初の神風特別攻撃隊である「敷島隊」は、フィリピンのマバラカット飛行場で編成された。現在、同地はフィリピンの人々の手によって維持、整備されている。「どうして日本の政治家は、命を賭けて祖国を守った人々の慰霊に来ないのですか?」
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「シベリア抑留」は広く知られるが、実は「モンゴル抑留」もあった。終戦後、1万人以上もの日本人が満洲からモンゴルに不法に連行され、過酷な生活環境の中で1500~3000人が絶命。現在、ウランバートル郊外には日本人抑留者慰霊施設が建立されている。
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終戦後、ソ連軍は南樺太に侵攻。追い詰められた大平炭坑病院の看護婦たち23名は、手首にメスを入れるなどして集団自決。生き残りの一人である鳴海寿美さんは、私の取材に対し「自決前に皆で歌を唄いました。皆、本当にいい人たちでした」と言ってうつむいた。彼女の手首には、深い傷跡が残っていた。
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「占守島の戦い」は終戦後の昭和20年8月17日から始まった戦闘。千島列島の占守島に不法侵攻してきたソ連軍を日本軍が食い止めた戦いです。ソ連軍はそのまま南下して北海道の北半分を占領する計画でした。占守島で戦った方々のおかげで、日本は「分断国家」にならずに済んだのです。
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満洲で多くのユダヤ人を救出した「オトポール事件」を指揮した陸軍軍人・樋口季一郎の直筆の書。「真に徳のある者は孤独ではない」という意味。樋口は占守島の戦闘も指揮し、ソ連による北海道の分割を防いだが、自らの功績を語ることなく逝った。
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イスラエル取材時にお会いすることができたクララ・シュバルツベルグさん。戦時中、大連に滞在していたクララさんは、樋口季一郎のビザによって救出された多くのユダヤ難民を目撃した。「日本人はあまりヒグチのことを知らない?日本人は学校で何を習っているのですか?」
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イスラエルのエルサレムにあるJNF(ユダヤ民族基金)が保管する「ゴールデンブック」。その第6巻に樋口季一郎を意味する「GENERAL HIGUCHI」の文字が。多くのユダヤ難民を救った樋口の功績は、今も色褪せない。杉原千畝だけでなく、樋口のことも合わせて知って欲しいと思います。
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神奈川県大磯町の妙大寺にある樋口季一郎の墓を参拝。杉原千畝より2年も前に満洲で多数のユダヤ人に「命のビザ」を出し、終戦直後の占守島の戦いではソ連軍の南下を食い止めて「北海道の分断」を防いだ樋口の功績は、もっと多くの方々に知ってほしい史実です。
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クロアチアの港町を訪れた際、多くの人たちから「船に乗り遅れたのか?」と謎の声。聞けば、私の訪問日の前日までピースボートが停泊していたという話。土産物屋の主人は言った。「あの船の入港が毎年楽しみだ。大好きだよ、マネーボート!」。紛争を生き抜いた人間のしたたかな笑みに思わず苦笑した。
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ルーマニアの小児エイズ専門病院にて。(若き日の私も写っています。苦笑)。ルーマニアでは共産党独裁時代に行われた「大人の血液を栄養として子どもに輸血する」という失政の結果、国全体にエイズが蔓延。20世紀の共産主義が何をしたのか。どれだけの人々を傷付けたのか。忘れてはいけません。
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平昌冬季五輪、競技環境や運営面での問題が多過ぎますね。世界のトップアスリートたちに対して最高の競技コンディションを整えるのは、主催者側の責務のはず。次に夏季五輪を控えている東京としては、しっかり原因を分析し、「他山の石」として学んでいくしかありません。素晴らしい東京五輪のために!
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セルビアのロマ族(ジプシー)の集落にて。「日本から初めて客が来た」と集落は大騒ぎに。彼らの伝統食である「ハリネズミ料理」で歓待してくれた。さらに、即興で「太陽の国」(日本のこと)という歌と踊りを作って披露してくれました。
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2月11日は「建国記念の日」。神武天皇の即位日である旧暦の1月1日(紀元前660年)を新暦に換算した日付です。戦前は「紀元節」と呼ばれていましたが、昭和23年、GHQにより廃止に。戦後70年以上が過ぎ、改元も控えた今、現行の呼称のままで良いのか、議論を深める時期のように思います。
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2013年に台湾を訪れた際、台北を走る地下鉄は、東日本大震災に関する日本への励ましの言葉が並んだラッピング車両となっていました。震災から2年の月日が経ち、日本の街並からはすでにそのような光景がめっきり減っていた頃の話です。今こそ恩返しの時ですね。 我擔心台灣的地震。加油!
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「JAPAN」の文字が入ったサラエボのバス。これは日本のODAによって供与されたもの。日本は病院や小学校の復旧にも尽力した。「一番苦しい時に助けてくれたのが日本だった」とは多くの市民の声。そして、東日本大震災の時、自国の経済力を上回る支援をしてくれた国の一つがボスニアでした。
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もうすぐ冬季五輪ですね。旧ユーゴのサラエボは、1984年に冬季五輪を開催した都市。しかし、1990年代の激しい紛争により、1万人以上が犠牲に。私が訪れた2001年、かつての五輪のメインスタジアムは一面の墓地と化していました。平和がいかに脆いものか。今後の朝鮮半島情勢を思うと憂慮に堪えません。
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旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナやコソボ自治州などを取材で巡った際、多民族地域ならではのこんな言葉を耳にした。「全人類を愛することは簡単だが、隣人を愛することは難しい」。時々、思い出す言葉です。