山田邦和(@fzk06736)さんの人気ツイート(リツイート順)

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何人かの方から指摘を受けましたが、私の言葉足らずでした。あくまで京都の事例をお話しいたしました。他のところでどう言われているかは、私にはわかりません。私が全体を否定したと思われた方にはお詫び申し上げ、修正いたします。 twitter.com/fzk06736/statu…
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何度もいいます。「七条」は古代には「しちじょう」だが、その後「ひちじょう(ひっちょう)」に変化して、現在にいたるまでそれが続いている。だから、伝統的な地元の発音は「ひちじょう」のみ。「ななじょう」は京都市交通局の変更だが、交通局に地名を決める権限はない。 kyoto-np.co.jp/articles/-/100…
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あんなぁ、京都は「観光地」とちゃうねん。京都に来はって、お寺や神社で、市民がお参りするのに混じってお参りするのはかまへん、大いに歓迎します。そやけど、観光客やからといって何か特権がある、観光に来たったんやから俺たちだけは綺麗な写真を撮る権利があるなんて、錯覚してもろたら困るねん
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いろいろスレをいただきましたが、一番笑ったのはコレ⇩です。なるほど、「富雄丸山古墳はサイコー! コーフンします!」なら、それは確かにその通りですね。ありがとうございました。 twitter.com/yamanenokurash…
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@agata 驚きました。これは、教育委員会が遺跡の発掘調査を行い、出土した遺物を収納するコンテナー・バットだと思います。おそらくこれを保管していたのが陸前高田市博物館だったのでしょうが、同博物館は津波で全壊しましたので、その時に流出したものではないでしょうか。
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#鎌倉殿の13人 「藤原秀衡は義経を擁して鎌倉との正面対決を計画したらしく、奇襲の天才である義経のこの動きは頼朝の背筋を凍らせるに充分であった。・・仮にこれが実行に移されて頼朝を屠ることに成功したとしても、奥州藤原氏と義経では鎌倉に替わる全国的な軍事体制を構築することは不可能⇨
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まあ、若干解説します。京都市の市内総生産高は6兆6千億円。そのうち、観光産業の中核をなす宿泊・飲食サービス業は2千2百億円で、その他のものをいれても1割程度と推定されています。京都の最大の産業は実は製造業(工業)で、これが1兆4千億円を占めます。 www2.city.kyoto.lg.jp/sogo/toukei/Ec…
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これ、京都の大学の学生さんはみんな知っておいてほしいですね。この四月から京都の大学に入学する学生さん、必見ですよ! twitter.com/kyoutojin_bot/…
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⇨それから、「邪馬臺国」の「臺」の字は皇帝の宮殿という意味もあり、卑字ではないとする説があります。こういうことも知っておかねばなりません。
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⇨確かに、「研究者としてみたときに『論文』という基準に達していない」卒論は多い。しかし、文献引用の仕方も知らなかった学生が卒論を通じて、できるようになる。現地に出かけて汗を流してひとつのことを調査する。図書館でじっくり本を読むことを体験する。それが無意味だなんて、私には言えない。
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#鎌倉殿の13人 「寿永二年十月宣旨」が登場。源頼朝軍閥が反乱軍としての枠を解かれ、国家公権の中での位置を公認された重要な転機。なお、ドラマでは省略されたが、頼朝が要求したのは、東海道・東山道・北陸道の軍権。しかし朝廷は、北陸道を含めると義仲が怒るだろう、として北陸を除外した。
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#鎌倉殿の13人 ⇨守護・地頭の設置の勅許が鎌倉幕府にとって大きかったことはまちがいないし、学界でもこれをもって鎌倉幕府の成立とする説が有力なのも確かです。しかし、「幕府が全国を支配した」「朝廷は無力化し幕府の優位が確立した」「幕府が全国政権になった」と信じ込まれるのが困るのです。
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「博物館などの文化施設が赤字を垂れ流すのはけしからん。稼いで黒字を出すべきだ」と攻撃されるが、文化施設は単独の収支で評価してはダメ、地域に与える経済効果全体で評価すべきだ、という研究がこれ。梅棹忠夫監修、総合研究開発機構編『文化経済学事始め』(学陽書房、1983年)
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⇨ですので、#鎌倉殿の13人 で「頼朝が大将軍を望み、朝廷はいくつかの候補を検討した結果『征夷大将軍』に任命した」と解説されていたのと、「頼朝が征夷大将軍任官を小躍りして喜んだ」という描写は、正しいです。このあたりは時代考証の3先生が十分に指導されておられるのだと拝察いたします。
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⇨なかでも恐るべきなのは、平安時代末期の少納言入道信西(藤原通憲)。保元の乱の立役者で平治の乱で死に追いやられた人物ですが、左大臣藤原頼長と並ぶ当代最高の大学者でした。彼の膨大な蔵書の目録の一部は『通憲入道蔵書目録』の名称でいまに遺されています。
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⇨大学教員が、自分の担当する授業で、そのうちの何回かをゲスト・スピーカーを招聘してしゃべってもらう、ということはあります。それはその教員が持っている「講義全体のコーディネイト」という権限にもとづくもので、それはかまいません。しかし、そのゲスト・スピーカーは非常勤講師ではない。
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公営の事業が赤字。 ↓ 「税金の無駄遣いだ!お役所仕事だからダメなんだ!民間活力導入だ!」 ↓ 事業を民間企業に委託、または売却 ↓ やっぱり儲からない。 ↓ 「民間企業なんだから儲からない事業はやめるのが当然だ!」 ↓ 事業廃止。住民サービス低下。 🥶😭😡 twitter.com/MMM140806/stat…
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今日の博物館学芸員課程の授業でも紹介したのですが、旧・平安博物館には平安宮内裏清涼殿の実物大復元模型が造られていた。今の博物館なら実物大は珍しくないが、昭和43年(1968)という時代にこれをやったのは博物館史に残る偉業! 館長・角田文衞先生の先見性には脱帽するしかない。
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⇨そして、平安末期には将軍の最高職は平泉の藤原秀衡も任じられた「鎮守府将軍」であり、源義仲の短期の「征東大将軍」を除くと「大将軍」はいなかった。頼朝の征夷大将軍任官は久々の「大将軍」復活だったのです。鎌倉殿頼朝にとって、この権威は大きい。
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⇨頼朝は建久元年(1190)に上洛して権大納言兼右近衛大将に任じられます。近衛大将は「京都にいる必要がある武官の最高職」。そこで頼朝は鎌倉に帰る時にこれを辞職。そして、同3年に征夷大将軍になることによって、「京都にいなくてもいい武官の最高職」となった。
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歴史上の女性名、角田文衞先生は「訓読み」を主張し続けたのだが、それでもなお音読みにこだわる人が多い。道長妻倫子をリンシ、一条天皇皇后定子をテイシ、同中宮彰子をショウシとか。しかしそれなら、北条政子はセイシ、日野富子はフシ、徳川和子はワシと読まなくては自己矛盾となる。
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⇨その後、古田先生の「邪馬壹国」には反論がたくさんでてきた。しかし、ちゃんとした研究者がきちんと反論したのは、『史学雑誌』という学界の土俵に乗ったことで、みんな、自分たちと対等に勝負をする存在として認識したということになります。学術論争とはそういうものなのです。
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→こういう指摘をしますと「『橿原陵』とは橿原にある天皇陵という意味で言ったんだ。細かいことを言うな!」とキレられそうなのですが、橿原市には神武天皇はじめ、綏靖、安寧、懿徳、孝元、宣化の各天皇陵があります。「橿原にある御陵」という漠然としたことでは区別がつかないのです。
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⇨角田文衞先生の「紫式部の本名」(1963)はその後に複数の本に再録。ただ、それらには異同があります。『角田文衞の古代学1「後宮と女性」』(京都、古代学協会〔発売:吉川弘文館〕、2018年)に再録したものでは、その異同をも収録し、先生の思考の変遷がわかるようにしましたので、ご参照ください
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関連して。かつて古田武彦先生が「邪馬台国(邪馬臺国)ではなく邪馬壹国(邪馬壱国、邪馬一国)が正しい」と論じた。古田先生は大学で日本中世思想史を専攻し、親鸞の研究では知られていましたが、古代史では無名で、職業は高校教諭だった。しかし「邪馬壹国」は査読を経て『史学雑誌』に掲載された。