山田邦和(@fzk06736)さんの人気ツイート(古い順)

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⇨コレ、航空写真でみるとどうみても前方後円墳。しかし実は、後円部のところに巨大な方墳が隠れており、前方部にみえるところにはほとんど盛土はない。明治時代に方墳の周りに前方後円墳形に柵をめぐらして陵墓にした。そのあと木が生い茂って今のような姿になりました。ケッタイな話です。
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測量図だとこうです⇩。ね、方墳でしょ?
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#鎌倉殿の13人 「藤原秀衡は義経を擁して鎌倉との正面対決を計画したらしく、奇襲の天才である義経のこの動きは頼朝の背筋を凍らせるに充分であった。・・仮にこれが実行に移されて頼朝を屠ることに成功したとしても、奥州藤原氏と義経では鎌倉に替わる全国的な軍事体制を構築することは不可能⇨
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よく誤解されるのですが、「淡々と歴史を解説(=客観的な歴史叙述)」というのは成立しない。歴史を語るには、必ず何らかの「思想=歴史観」が前提となる(史実を無視する歴史観はダメですが)。「淡々と」に近いものといえば年表でしょうが、実はその年表ですら歴史観から自由ではありません。 twitter.com/lequios_blue/s…
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⇨つまり、過去の事実は無数にあります。それをすべて語ることは不可能です。歴史を語るとは、過去の無数の事実から、自分が重要だと思うものを選択し、組み合わせ、因果関係を解明し、画期がどこかを考え、体系的な流れとして再構成する。それは、「歴史観」がなくてはできないのです。
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⇨ただ、「歴史観」もまた、それぞれの時代なりの価値観に基礎を置くとともに、その時代に制約されます。21世紀前半に生きている我々は、ある程度は共通した価値観を持っているはずです(たとえば「人権尊重」など)。しかし、それは千年前の人々の価値観とはかなり異なっているでしょう。
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⇨ただまあ、現在の歴史叙述は、歴史観があまりにも前面に出すぎてしまうと眉をひそめる人が多くなる、ということはありますよね。歴史観はあくまで建物の土台であって、建物そのものではない、と考えておくのがいいかと思います。
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なんか残念な記事。銀行を辞めて大学教員になったそうだが、やはり学問というものがぜんぜんわかっていなかったのだな、としかいえない。論文で「注と参考文献が極めて重要」であることを「『こんなに頑張っているのです』とアピール・・(笑)」としか捉えていないのは一例。 news.yahoo.co.jp/articles/005fa…
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⇨「バブル期に銀行が無謀な不動産融資」の理由について、自分の銀行員としての体験を述べると「『証拠が無い』で片付けられてしまいます。・・まさに『大学の常識は、世間の非常識』・・(笑)」などと言っている。これも、学問ないし論文を甘く見ていますね。⇨ news.yahoo.co.jp/articles/005fa…
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⇨例示されたことでも、バブル期の銀行の融資状況を調査し、当時の銀行員多数に聞き取りを行い、社会の経済感覚を調べ、さらに先行研究を博捜したなら、ちゃんとした論文を書くことは可能。それを「自分の体験ではこうだったのにそれを認めない大学は非常識」と断ずるからおかしなことになる。
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⇨「大学は存在目的が不明確」も不見識。大学は「学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与する」(教育基本法)という存在目的を持っています。 news.yahoo.co.jp/articles/005fa…
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⇨「経済学等を学ぶために大学に来ている学生よりも大学卒の資格を得るために来ている学生が圧倒的でしょうし、保護者もそうでしょう」。 この発言は大学教授として失格。確かにそういう学生はいるでしょうが、それを基準にして大学教育を語るのは、真摯な学生への侮辱です。 news.yahoo.co.jp/articles/005fa…
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#鎌倉殿の13人 「近年の学説では、頼朝は『征夷大将軍』を望んだわけではない」という説明は誤りではないが誤解を与えかねません。頼朝は以前より「大将軍」になることを熱望していた。そこで朝廷は複数の「大将軍またはそれに相当する職」を検討して「征夷大将軍」に決し、頼朝は喜んでそれを受けた。
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⇨「大将軍」については『律令』の「軍防令」に規定がある。「将軍」は一軍の長であるが、「大将軍」は三軍(この解釈は難しいので省略)の長。大将軍は部下を天皇の認可なしに処刑できるという圧倒的な権威を持つ。
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⇨そして、平安末期には将軍の最高職は平泉の藤原秀衡も任じられた「鎮守府将軍」であり、源義仲の短期の「征東大将軍」を除くと「大将軍」はいなかった。頼朝の征夷大将軍任官は久々の「大将軍」復活だったのです。鎌倉殿頼朝にとって、この権威は大きい。
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⇨頼朝は建久元年(1190)に上洛して権大納言兼右近衛大将に任じられます。近衛大将は「京都にいる必要がある武官の最高職」。そこで頼朝は鎌倉に帰る時にこれを辞職。そして、同3年に征夷大将軍になることによって、「京都にいなくてもいい武官の最高職」となった。
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⇨それから、注意しなくてはならないのは、中世の官職は、現職であることに意味がある場合と、たとえ辞職しても「それに任じられた実績」がモノをいう場合がある。頼朝は後者。だから頼朝のことを「前右大将家(前右近衛大将)」ということがあるが、これは十分なる権威となっていました。
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⇨ですので、#鎌倉殿の13人 で「頼朝が大将軍を望み、朝廷はいくつかの候補を検討した結果『征夷大将軍』に任命した」と解説されていたのと、「頼朝が征夷大将軍任官を小躍りして喜んだ」という描写は、正しいです。このあたりは時代考証の3先生が十分に指導されておられるのだと拝察いたします。
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#鎌倉殿の13人 よく考えてみたらいいのよ。奥州藤原氏を滅ぼした時点で、源頼朝に敵対できる軍事的勢力は皆無となった。頼朝がそのまま京都に進軍し、後白河法皇や後鳥羽天皇や貴族たちを皆殺しにして、自分が天皇に即位して新しい王朝を開くことも選択できた。しかし、やらなかったし、やれなかった
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⇨他の国なら絶対そうなっている。中国やローマ帝国をみたらわかる。しかし、日本ではそれはやれなかった。頼朝は逆に、上洛して法皇の前に頭を下げ、王権の守護者となることを誓った。これがその後の武家政権の原則を決定した。その後の700年近くにわたる武家政権はすべてこの原則から外れなかった。
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⇨武家が、自分に仇なす天皇を廃位に追い込むことは、ある。しかしその後には必ず、自分と協調してくれる新しい天皇を立てた。いかなる武家も、天皇という制度そのものを破壊しようとしたことは、まったくなかった。武家政権の宿命がここにある。
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総研大(総合研究大学院大学)、各種の国立研究所を基盤として研究者養成するユニークかつ高水準の大学。しかし知名度は低いかも。秋篠宮文仁親王殿下がここで博士(理学)を取得しているが、その時「秋篠宮が聞いたことない大学で学位をとった」とクサした週刊誌があり、記者のレベルの低さが露呈した twitter.com/Morimori_Phys/…
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この「方言札」のひどさに対して、「それは沖縄の子供たちが本土に出てきた時に困らないようにするための、沖縄の人々自身による要望だった」という擁護論が散見される。これは、少数民族の言語を冷遇して「中国語」を強要する中国共産党の理屈とまったく一緒。 twitter.com/fijabyron/stat…
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日本で、この二年半の新型コロナウイルス感染症でお亡くなりになった方は約3万1千人。そのうち6分1にあたる約5千百人は大阪でお亡くなりになっている。それでも「府知事はよくやっている!」という人がよく見られるのはなぜなんだろう。
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#ちむどんどん反省会 このドラマの制作陣の認識している日本とは、「すべてがある東京」と「何もない田舎」の両極端の2分法で、その中間がない。だから、田舎の無知な娘がコックになるというと那覇はスリ抜けていきなり東京になる。病気になると名護や那覇や鹿児島は眼中になく、いきなり東京になる。