山田邦和(@fzk06736)さんの人気ツイート(古い順)

251
⇨コレを避けるためには、やはり日本史の事項は日本の元号を主体にするしかない。つまり、「道長は万寿4年(1028)12月4日に亡くなった」と書く。カッコ内の西暦は、あくまで「日本の万寿4年は西暦ではだいたい1028年に相当します。ただし百%の合致ではないが、まあ参考にしてください」の意味。
252
⇨あと、西暦には、伝統的な「ユリウス暦」と、1582年10月に策定された「グレゴリオ暦」があります。両者は十数日前後の違いがある。道長の死んだ万寿4年12月4日はユリウス暦で1028年1月3日、グレゴリオ暦換算では同年1月9日です。このあたりもややこしいので、そのハナシはまた後ほど。
253
⇨道長の死んだ万寿4年(1027)の翌年を「長元元年」と書きました。それは、万寿5年7月25日に「長元」に改元されたからです。明治以前の日本の元号は、改元が布告された年の元旦に遡って新年号が適用されます(「立年改元」)ですので、「万寿5年」はすべて「長元元年」と表記されることになります。
254
⇨グレゴリオ暦制定は1582年。これは日本の天正10年(本能寺の変の年)。信長の後継者争いの中で、天正10年12月17日に羽柴秀吉が大垣城に入って美濃国平定の足がかりとする。この日はグレゴリオ暦では1583年1月10日。しかし欧州でもユリウス暦を使っていたところも多く、この暦だと1582年12月31日。
255
⇨そうなると、秀吉の大垣城入城を示す場合、西暦で書いてしまうと「1582年」も「1583年」もどちらも正解だというややこしいことになる。さらに、「1582年12月17日」ではまったくの誤りになる。これを避けるためには「天正10年(1582)12月17日」と書くしかない。これが唯一の解決策なのです。
256
歴史学上の概念を使う場合の注意。たとえば「都市」というコトバ。「都市」は時代を問わず存在する通時的な概念。だから、 「都市は政治権力の拠点である」 「え?政治権力に関係しない経済都市もあるでしょ?」 「俺の言う都市は古代都城に限定している。他の時代は知らん」 というのは困るのです。
257
すごいなぁと思うし期待もしているのですが、「古墳~江戸時代までの約1000年間のくずし字が対象となる」というところで、「古墳時代に書かれたくずし字って残っていたっけ?」とひっかかってしまって先に進めなくなってしまいました。 nikkei.com/article/DGXZQO…
258
秋に京都に観光に来る人にはゼッタイ知ってほしい知識ですね。とにかく、京都駅から観光地までバス一本で行こうとするとひどい目に遭う可能性があることを知ってほしいです。あと、多少の距離なら、歩いてください。 twitter.com/kasobus/status…
259
よい絵だと思います。なお、三位と四位の間にある壁はずっとずっとず〜っと分厚いですし、そこにある段差は普通の人では跨げないくらいに高いです。 twitter.com/Catarina_zuka/…
260
わが国でもトップランクの大学、しかも国立大学が、電気代が払えなくなって図書館の開館時間を減らす・・・。もうすべておしまいかもしれない🥶😭😭😭😭🥶。 j-cast.com/2022/11/224509…
261
博物館では、展示室に陳列中の資料を(ガラスケース越しに)見るというだけならばともかく、それ以上の対応を希望する場合には「特別閲覧」の規則が定められており、所定の手続きが必要となります。突然では対応はできないでしょう。 twitter.com/osogami/status…
262
この准教授の先生に本当にどれほどの過失があったのか、また下された処分が適正だったかは私にはわかりません。しかし一般論でいうと、次の段階として、先生方が萎縮して、自分の目の届かないところでの学生の自由な活動を制限してしまう、ということ。これは大変まずい。 news.yahoo.co.jp/articles/c1a2c…
263
#鎌倉殿の13人 承久の乱。大江広元の息子の親広は伊賀光季との共同京都守護として京都に駐在、光季は後鳥羽上皇軍によって誅殺されたが、親広は上皇軍に加わる。さらに親広の妻は北条義時の娘。つまり、大江広元と義時は上皇に立ち向かうと決めた時に、息子と娘をも見捨てる覚悟を固めた。辛い話だ。
264
後鳥羽上皇の院宣の使者「押松」は上皇の側近の藤原秀康の所従で院御厩の舎人なのですが、それを、かの「鼓判官」平知康のなれの果てだとする強引なチカラワザの脚本にビックリでした。平知康は後白河院の側近で、源(木曽)義仲の法住寺殿合戦で、院の軍の大将をつとめたほどの人物なんですよ。 twitter.com/tomobiki10/sta…
265
#鎌倉殿の13人 北条政子は建保6年(1218)4月に従三位、10月には従二位になって「二位尼」と呼ばれますが、コレ、前代未聞。彼女は建久10年(1199)の頼朝薨後に尼になっている。出家は「俗世間から離れる」ことだから、位階が授けられることはないのが原則(僧侶としての階級である「僧階」は別物)。
266
#鎌倉殿の13人 承久の乱の際、後鳥羽上皇の出した「北条義時追討院宣」ばかりがクローズアップされますが、同時に仲恭天皇の「北条義時追討宣旨」が出されていることを忘れてはなりません。院宣はそれが届けられた特定の個人に対する命令書ですが、宣旨は(形式上では)全国に対する命令書だからです
267
ムチャすぎてどこからツッこんでいいのかわからないのだが、誰もが木簡を読む自由を持ち、その権利を行使できる国こそが発展するのだ、ということだけは言っておこう。さらに「男は命を削って働き、女は体をボロボロにしながら子供を産」まねばならない国のことを「豊かな国」とは呼ばないということも twitter.com/kasumi_girl/st…
268
⇨だいたい、こういう人の「みんながみんな◎◎をやり出したら国がなりたたない」という極端な想定を信用してはいけないんですよね。1億2千万人全てが他のことを何もせずにただただ木簡だけ読んで日々を過ごす、なんてことが現実にありうるかどうか。 twitter.com/kasumi_girl/st…
269
⇨要するに、二者択一ではないわけです。一生懸命働きながら、また子供を育てながら、同時に木簡を読んだらいい(ここでの「木簡」は、「すぐにカネにつながらない学問」全般のこと)のです。 twitter.com/kasumi_girl/st…
270
⇨コレ、昔からある「詩を作るより田を作れ(詩のように実益にならないものをやるより、カネになることをせよ)」という話の焼き直しにすぎないんですよね。反論としては「詩を作るより田を作れという諺があるが、健全な人間は詩も作りたし田も作りたいんだ」(長与善郎) twitter.com/kasumi_girl/st…
271
⇨実は「詩を作るより田を作れ」は、社会の生産力が低く、ほとんどの人が生活にカツカツだった時代の言説。高文明社会になればなるほど、詩や木簡(=すぐにカネにならない学問や教養)が重要になる。同じバックでも、大量生産品より、デザインの良いブランド物が高く売れる。 twitter.com/kasumi_girl/st…
272
【水中考古学】冬ですので背筋が寒くなるハナシを。小江慶雄先生(京都教育大学長)の『琵琶湖水底の謎』(1975)、日本において「水中考古学」の重要性を社会に広く知らしめたパイオニア的な本なのですが、その中にゾッとするようなことが書いてある。⇨
273
⇨なんでも、琵琶湖の深底には水死した人々の屍が真っ白なプランクトンの層に下半身をつけて、生前の姿のままでユラユラ揺れている。時々その屍が浮かんできて漁師を恐慌状態に陥れる、とのこと。小江先生、どこまで本気で書かれたのかわからないが、これを読んだ子供の私はビビってしまいました🥶。⇨
274
ごめんなさい。
275
「博士号を採っても食べていけない」問題の例外は考古学かもしれません。大学院修士修了くらいで教育委員会や埋蔵文化財センターの文化財保護・発掘の仕事に就く人が多い。そして、仕事のかたわらで論文を書き続けて、それを集大成して博士論文にして「論文博士」を取得、博論を学術書にして刊行。⇨