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#鎌倉殿の13人
北条政子は建保6年(1218)4月に従三位、10月には従二位になって「二位尼」と呼ばれますが、コレ、前代未聞。彼女は建久10年(1199)の頼朝薨後に尼になっている。出家は「俗世間から離れる」ことだから、位階が授けられることはないのが原則(僧侶としての階級である「僧階」は別物)。
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後鳥羽上皇の院宣の使者「押松」は上皇の側近の藤原秀康の所従で院御厩の舎人なのですが、それを、かの「鼓判官」平知康のなれの果てだとする強引なチカラワザの脚本にビックリでした。平知康は後白河院の側近で、源(木曽)義仲の法住寺殿合戦で、院の軍の大将をつとめたほどの人物なんですよ。 twitter.com/tomobiki10/sta…
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#鎌倉殿の13人
承久の乱。大江広元の息子の親広は伊賀光季との共同京都守護として京都に駐在、光季は後鳥羽上皇軍によって誅殺されたが、親広は上皇軍に加わる。さらに親広の妻は北条義時の娘。つまり、大江広元と義時は上皇に立ち向かうと決めた時に、息子と娘をも見捨てる覚悟を固めた。辛い話だ。
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この准教授の先生に本当にどれほどの過失があったのか、また下された処分が適正だったかは私にはわかりません。しかし一般論でいうと、次の段階として、先生方が萎縮して、自分の目の届かないところでの学生の自由な活動を制限してしまう、ということ。これは大変まずい。
news.yahoo.co.jp/articles/c1a2c…
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博物館では、展示室に陳列中の資料を(ガラスケース越しに)見るというだけならばともかく、それ以上の対応を希望する場合には「特別閲覧」の規則が定められており、所定の手続きが必要となります。突然では対応はできないでしょう。 twitter.com/osogami/status…
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わが国でもトップランクの大学、しかも国立大学が、電気代が払えなくなって図書館の開館時間を減らす・・・。もうすべておしまいかもしれない🥶😭😭😭😭🥶。
j-cast.com/2022/11/224509…
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よい絵だと思います。なお、三位と四位の間にある壁はずっとずっとず〜っと分厚いですし、そこにある段差は普通の人では跨げないくらいに高いです。 twitter.com/Catarina_zuka/…
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秋に京都に観光に来る人にはゼッタイ知ってほしい知識ですね。とにかく、京都駅から観光地までバス一本で行こうとするとひどい目に遭う可能性があることを知ってほしいです。あと、多少の距離なら、歩いてください。 twitter.com/kasobus/status…
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すごいなぁと思うし期待もしているのですが、「古墳~江戸時代までの約1000年間のくずし字が対象となる」というところで、「古墳時代に書かれたくずし字って残っていたっけ?」とひっかかってしまって先に進めなくなってしまいました。
nikkei.com/article/DGXZQO…
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歴史学上の概念を使う場合の注意。たとえば「都市」というコトバ。「都市」は時代を問わず存在する通時的な概念。だから、
「都市は政治権力の拠点である」
「え?政治権力に関係しない経済都市もあるでしょ?」
「俺の言う都市は古代都城に限定している。他の時代は知らん」
というのは困るのです。
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⇨そうなると、秀吉の大垣城入城を示す場合、西暦で書いてしまうと「1582年」も「1583年」もどちらも正解だというややこしいことになる。さらに、「1582年12月17日」ではまったくの誤りになる。これを避けるためには「天正10年(1582)12月17日」と書くしかない。これが唯一の解決策なのです。
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⇨グレゴリオ暦制定は1582年。これは日本の天正10年(本能寺の変の年)。信長の後継者争いの中で、天正10年12月17日に羽柴秀吉が大垣城に入って美濃国平定の足がかりとする。この日はグレゴリオ暦では1583年1月10日。しかし欧州でもユリウス暦を使っていたところも多く、この暦だと1582年12月31日。
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⇨道長の死んだ万寿4年(1027)の翌年を「長元元年」と書きました。それは、万寿5年7月25日に「長元」に改元されたからです。明治以前の日本の元号は、改元が布告された年の元旦に遡って新年号が適用されます(「立年改元」)ですので、「万寿5年」はすべて「長元元年」と表記されることになります。
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⇨あと、西暦には、伝統的な「ユリウス暦」と、1582年10月に策定された「グレゴリオ暦」があります。両者は十数日前後の違いがある。道長の死んだ万寿4年12月4日はユリウス暦で1028年1月3日、グレゴリオ暦換算では同年1月9日です。このあたりもややこしいので、そのハナシはまた後ほど。
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⇨コレを避けるためには、やはり日本史の事項は日本の元号を主体にするしかない。つまり、「道長は万寿4年(1028)12月4日に亡くなった」と書く。カッコ内の西暦は、あくまで「日本の万寿4年は西暦ではだいたい1028年に相当します。ただし百%の合致ではないが、まあ参考にしてください」の意味。
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⇨じゃあ「道長は1028年死去」と書いたらいいかというと、それでは「ええと、それは日本の元号ではいつかなぁ? 年表を引くと1028年は長元元年だ。なるほど、道長は長元元年に死んだんだな」というありもしないハナシになってしまうのです⇨
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日本史の教科書では西暦表記されますが、あれはマズイのですよね。たとえば、藤原道長は万寿4年に亡くなっていますが、年表では「万寿4年=西暦1027年」なので「道長は1027年死去」という文章になる。しかし道長が死んだのは同年12月4日で、これは西暦(ユリウス暦)では1028年の1月3日になる。⇨
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#知らない人ならだまされるかもしれない
近畿地方の地図
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大学の教職員で、自分の大学のことを「我が社」という人がいますが、その言い方が許されるのはウチの大学と、ウチのお隣の大学(ウチの姉妹校)のみだと思っているのです。この両校に就職すると「入社式」もあります。
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⇨確かに、「研究者としてみたときに『論文』という基準に達していない」卒論は多い。しかし、文献引用の仕方も知らなかった学生が卒論を通じて、できるようになる。現地に出かけて汗を流してひとつのことを調査する。図書館でじっくり本を読むことを体験する。それが無意味だなんて、私には言えない。
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わからないでもないんですが、学部の卒論で、研究者水準の論文が少ないから卒論の制度そのものをやめろ、というのは極論ではないかと思うのです。学部の卒論は、学生が「自分でテーマを設定し、自主的に調査し、考え、ささやかでもよいので自分なりの結論を出す」という過程こそが大事だと思っています twitter.com/hata_kpu/statu…
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#鎌倉殿の13人
⇨念のため申しますと、日本人の名前の読み方はさまざまで、厳密に「これが正しい」といえないことも多いです。ふたつの読み方があってどちらを採るかという時も、「まあ、いろいろ勘案するとコッチのほうがちょっとはそれらしいな」くらいにお考えいただいたほうがいいと思います。
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#鎌倉殿の13人
⇨ただ、実は舘氏の「再発見」以前にも公暁=コウギョウにしていた人がいる。読んでいてビックリしたのですが、「皇国史観の親玉」と呼ばれた東京帝国大学教授平泉澄の戦後の本。もしかして、戦前からすでに平泉は「こうぎょう」と発音していたのかもしれない。平泉の面目躍如です。
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#鎌倉殿の13人
善哉が出家して「公暁」と改名。この読み方、従来は「クギョウ」だったのですが、実は「コウギョウ」だという説が舘隆志氏によって提起され、大河ドラマ時代考証の坂井孝一さん(創価大学教授)もそれに賛同されてドラマでの採用にいたったのでしょうね。確かに「コウ」の方が自然です。