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⇨大学では歴史をやれたらいいな、と漠然と思っている高校生のみなさん。古文・漢文・英語・数学は、ほんの基礎でもいいからやっておいたほうがいいですね。
◎日本史をやる⇨古文・漢文が必須。
◎考古学をやる⇨測量に三角関数がでてきます。
◎西洋史が面白そう⇨英語
◎やっぱり東洋史だね⇨漢文
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思い出すのが宮尾登美子原作の大河ドラマ『義経』(2005)。壇ノ浦で水に沈んだのは安徳天皇ではなく、その身代わりとなった守貞親王だった、という無茶な設定を持ち込んだのだが、その無理無体を回収できず、結局は放置のママでドラマが先に終わってしまった。あれなら史実通りやったほうがいい。
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#鎌倉殿の13人
⇨ただ、実は舘氏の「再発見」以前にも公暁=コウギョウにしていた人がいる。読んでいてビックリしたのですが、「皇国史観の親玉」と呼ばれた東京帝国大学教授平泉澄の戦後の本。もしかして、戦前からすでに平泉は「こうぎょう」と発音していたのかもしれない。平泉の面目躍如です。
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「戦国時代の国人」、これを「コクジン」とよむのはいいのです。しかしこの訓読みは「たみ」で「くにひと」ではありません。実は、古くは「くにひと」でよかったのですが、鎌倉時代の後嵯峨天皇の諱「邦仁くにひと」とバッティングするため避けねばならなくなりました。と、字典に書いてありました。
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馬場維新共同代表「(テレビカメラをつれて)菅さん、謝罪しなさい!」
菅「橋下氏は維新とどのような関係が?」
馬場「無関係です」
菅元首相「ではあなたから抗議を受ける必要はないし、あなたにお答えする必要はない。お帰りください!」
馬場「あのぅ・・・😖」
菅「お帰りください😡!!」 t.co/JXlhtGxfAC
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⇨ホントです。
というか、現在の日本考古学界では、「稲作農耕開始以降を弥生時代と呼ぶ。それ以前は縄文時代」という定義なのです。縄文時代にも稲作があってもいいんだ、という説も成立しえるのですが、その場合はこの定義の変更からおこなわなければなりません。
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これすっごくマズくない? 地下資源開発とか地震研究とか火山噴火予知とか、日本にとって重要な研究課題のいろいろをやるには高校の地学は必須なのに、実は高校で地学を教えない。高校の理科が物理・化学・生物だけでよくて、地学は不要だなんて、正気の沙汰とは思えないのですが。 twitter.com/spEarthScience…
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⇨この件自体については私は記事以上の情報を持たず、あくまで一般論しかいえないのですが、原直史先生によると↓だとのことです。
twitter.com/HARA_Naofumi/s…
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⇨「大将軍」については『律令』の「軍防令」に規定がある。「将軍」は一軍の長であるが、「大将軍」は三軍(この解釈は難しいので省略)の長。大将軍は部下を天皇の認可なしに処刑できるという圧倒的な権威を持つ。
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#芋たこなんきん はすばらしい名作です。ただ、考古学研究者の立場から言いますと、今日の話で昭一が家を建てようとした土地から遺跡が出てきたので市に土地を買い上げられた、というのはほぼありえません。文化財保護当局の力はそんなに強くありません。遺跡を邪魔者扱いする誤解が広まると困ります。
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⇨ですので、#鎌倉殿の13人 で「頼朝が大将軍を望み、朝廷はいくつかの候補を検討した結果『征夷大将軍』に任命した」と解説されていたのと、「頼朝が征夷大将軍任官を小躍りして喜んだ」という描写は、正しいです。このあたりは時代考証の3先生が十分に指導されておられるのだと拝察いたします。
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⇨その後、古田先生の「邪馬壹国」には反論がたくさんでてきた。しかし、ちゃんとした研究者がきちんと反論したのは、『史学雑誌』という学界の土俵に乗ったことで、みんな、自分たちと対等に勝負をする存在として認識したということになります。学術論争とはそういうものなのです。
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⇨紫式部=藤原香子、という角田文衞先生の説には確かに欠点があり、そこが批判されたために「広く承認されることなく現在に至っているが、成立の可能性も残されたままであって、本名問題に旋風を巻き起こした本編〔=角田論文〕の価値はなお減じていない」とする吉川真司京大教授の評価が穏当と思います
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かつて北杜夫氏がマグロ漁船に乗ったことを思い出します(『どくとるマンボウ航海記』)。出航間近になっても船医がみつからない。もう何科の医者でもいい、インターンでもかまわない、船医なしで出航もやむなしというところまで切羽詰まったところに北氏が応募してきたので船側は大喜びだったとか。 twitter.com/flyshipopo/sta…
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⇨なかでも恐るべきなのは、平安時代末期の少納言入道信西(藤原通憲)。保元の乱の立役者で平治の乱で死に追いやられた人物ですが、左大臣藤原頼長と並ぶ当代最高の大学者でした。彼の膨大な蔵書の目録の一部は『通憲入道蔵書目録』の名称でいまに遺されています。
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⇨頼朝は建久元年(1190)に上洛して権大納言兼右近衛大将に任じられます。近衛大将は「京都にいる必要がある武官の最高職」。そこで頼朝は鎌倉に帰る時にこれを辞職。そして、同3年に征夷大将軍になることによって、「京都にいなくてもいい武官の最高職」となった。
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⇨平安時代前期の9世紀末には、藤原佐世が当時の日本にあった外国書の総目録を編纂しています。『日本国見在書目録』がこれ。これには1597部(16,790巻)という膨大な書物が掲載されています。要するにこのほとんどが京都(一部は奈良の寺院も含むかも)にあったのです。圧倒的な文化力です。
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メーカーさんによると「強化ガラス製のものは、高温になるとガラス内部の異物や小さな傷が原因で粉々に割れる恐れがあります。セット前に必ず材質を確認し、強化ガラス製品は食洗機に入れないでください」、だそうです。知らなかった・・・・。😭😭
jpn.faq.panasonic.com/app/answers/de…
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⇨なぜなら、「英連邦王国(コモンウェルス・レルム)」にとって、エリザベス2世女王は英国王であるとともに自国の王でもある。エリザベス2世はカナダにとってはカナダ王であり、ニュージーランドにとってはニュージーランド王。英連邦王国にとってはこの葬儀は自分の国の国家元首の葬儀であるのです。
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⇨要するに、中世の地方豪族も、ひととおりの読み書きのための参考書(庭訓往来、字尽)や歴史の概説書(=年代記)は持っていたし、それで勉強しており、文書や記録を書いていた。ただ、その水準が京都の貴族に比肩できるかというと、とうていそこには及ばなかったはずです。
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⇨そして、平安末期には将軍の最高職は平泉の藤原秀衡も任じられた「鎮守府将軍」であり、源義仲の短期の「征東大将軍」を除くと「大将軍」はいなかった。頼朝の征夷大将軍任官は久々の「大将軍」復活だったのです。鎌倉殿頼朝にとって、この権威は大きい。
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⇨実は「詩を作るより田を作れ」は、社会の生産力が低く、ほとんどの人が生活にカツカツだった時代の言説。高文明社会になればなるほど、詩や木簡(=すぐにカネにならない学問や教養)が重要になる。同じバックでも、大量生産品より、デザインの良いブランド物が高く売れる。
twitter.com/kasumi_girl/st…