にいがたさくら@小話する人(@monkey_across)さんの人気ツイート(リツイート順)

スプレもんに限らず、ロボコンには若き技術者のアイデアが詰まっている。 特にルールのQ&Aは必見だ。 そんなことまで考えるの?というのは、ロボコニストにとっては褒め言葉。 回答する方も大変だろうな。 わたしも昔やってましたけど。 #にいがたさくらの小話 その99改
鳥取県はかつて、島根県に併合されていたことがあった。 明治9年のことである。 どうでもいいのだが、本人たちにとっては一大事。 鳥取人たちは一致団結。 裏に表に様々なレジスタンス活動を行って、明治14年、鳥取県は独立を果たす。 ちなみに、独立記念日9月12日は鳥取県民の日となっている。
明治時代、あらゆる西洋文明が受け入れられる中、ワインは受け入れられなかった。 当時の日本人には酸っぱすぎたのだ。 そこに気付いた実業家・神谷傳兵衛は、漢方薬や蜂蜜を入れマイルドにしたワイン『蜂印香竄葡萄酒』を売り大ヒットさせる。 そこで弾みを付けた彼は国産ワイン製造を志した。
石川県羽咋市神子原地区。 里山の中にひっそりと棚田が広がる場所で、そこで取れるコメは旨いのだが、認知度が低かった。 「誰か有名人に食べてもらってブランド化しよう!」 様々な場所に依頼をかけるが、難しかった。 だが一箇所だけOKの返事が来る。 こうして神子原米は、ローマ法王に献上された
炎上商法と焼畑農業、名前は似ているが全く違うものだ。 双方とも環境の悪化を無視して畑を燃やし、一度きりの収穫を狙うようなイメージを持つ人も多い。 だが伝統的な焼畑農業は、地域の自然特性をうまく利用して肥料や農機を使わず労働生産性を高められる循環的な農業。 遅れた農法というのは偏見だ
福神漬は明治初期の東京で生まれた。 7種類の野菜を使い、これさえあれば他のおかずは要らないから経済的という意味を込めて福神漬と名付けられ、あらゆるシーンで活躍した。 ところが明治30年代、福神漬は、太平洋上の豪華客船で運命の出会いを果たす。 相手はもちろんカレーライスである。
大正時代、淡路島の小作農民達は過酷だった。 他の地域では小作料として米を払えば済むのに、淡路島だけは二毛作の麦まで現物納品していたからだ。 「稼げる物を植えんとアカン」 そこで試されたのが、玉ねぎ。 これが淡路島の気候や農家にマッチし、現在まで100年以上続く玉ねぎの名産地となった。
第二次世界大戦中の米軍は広く遠い戦線に兵隊を送り込んだが、兵士は不満だった。 移動時間が暇すぎる。 戦地に着く前に不満が爆発してしまうことを懸念した軍は、累計1億冊以上の本を支給するプランを策定。 内容も戦意高揚のようなカタい話ではなく、娯楽小説がメイン。 ポケットサイズの暇潰しだ。
どうやらこの話は創作だったようです。 伝説級の人なのでなんの不思議もなく書いておりましたが、お詫びします。 twitter.com/schoolwars1/st…
打ちこわし 江戸時代の都市で、飢饉などによる物価高の際に値を吊り上げて私腹を肥やす商人や役人の店や家を襲撃する行為のことだ。 だが打ちこわしにはルールがある。 盗みや人に危害を加える等は禁止。 見物していた武士が『誠に丁寧に狼藉仕り候』と感想を述べるほど、秩序のある集団行動なのだ
江戸時代、戦乱がなくなり太平の世となり経済が発展したが、寺社は困窮した。 補修のためには、カネがいくらあっても足らない。しかし寺は仏様しかいない。 そこで人々に寄付を募るため、江戸や京都へ出向き、寺社が持っている秘宝·秘仏を公開する出開帳を始める。 江戸時代の大規模イベントだ。
天然痘が流行した江戸後期。予防接種である「牛痘」がオランダ領から長崎に到着。 オランダの医学書を読んでいた医師達は日本各地へとそれを持ち帰り、会場を設け接種していく。だが庶民は訝しみ、接種が進まない地域も。 各地ではポスター作ったり、藩主の息子に接種させたりと普及に努めた。
伝説が起きたのは、第4回。しかも地方予選だ。 この年のルールは、ロボットで箱を積み上げるというもの。 ただし、一番上の色のチームがその特典を総取りするというルール。 スプレもんは箱を乗せるという常識から解き放たれ、塗料をかけた。 スプレもんという名前だが、チョロチョロと流した。
江戸時代は藩が境目で、人の往来も制限されていた。せっかく編み出した農法も、農書という書物にはできたが、教え広めることはできなかった。 老農たちが集まる農談会では、種籾の交換や農具の改良情報が積極的に行われ、地域を超えた人材交流も進む。 なおイギリス人に代えて雇ったドイツ人は活躍する
オランダに支配されていた頃のインドネシアでは、各地の勢力が独立のために連携を模索していた。 だが、彼らは多民族国家。どの言語を使うのかで困っていた。 まさかオランダ語を使うわけにもいかない。 そこで、どの主要民族の母語でもない言語を『国語』に定めた。 それが、インドネシア語だ。
アメリカ北西部ワシントン州シアトル。 タリーズコーヒーやマイクロソフト等で有名な港湾都市で、日本人にもイチローが在籍していたマリナーズなどで知られる。 1860年代まで寂れた西部の寒村だったこの街は、鉄道による物流で発達したが、もう一つ理由がある。 日本とアメリカの最短経路だったからだ
日本には五稜郭が2つある。 一つは戊辰戦争の激戦地、北海道函館市の五稜郭。 そしてもう一つは何故か長野県佐久市にある。しかも佐久市の中心からだいぶ離れたところに。 なんでこんな微妙なところに五稜郭が建てられたのかには諸説ある。 その中でも私は『カッコいいから』という説を推したい。
東京都小笠原村は本土とは違う歴史を歩んだ。 1830年代に欧米系や太平洋の住人が住み始め、明治に日本領になり八丈島人が移住、戦後には米軍統治下で英語教育がなされ、1968年に本土復帰。 様々な言葉が混合し、本土復帰直後の欧米系島民はこんな感じで喋っていた。 「おまいはmeらのteacherかい?」
市役所の熱意に押され、ふるさと納税の返礼品になると、さらにネットで火がつく。 ネタではなく、ガチな需要も発生。一時はSNSに投稿が相次いだという。 むつ市長も認めたホタテ水着。 陸奥湾のホタテは、美味しい。 食べる以外でも、2度美味しいのだ。 #にいがたさくらの小話 その327
ドイツ人が着目したのは農法ではなく土壌。 多くの地方では田んぼの水を抜かない方式だったため、深く耕せず土地が痩せたと指摘。 水を抜き深く耕す方法は実は既に日本にもあった。 江戸より前に朝鮮から伝えられ北部九州で継承されていた方式だ。 ドイツ人の根拠をもとに全国的に普及することに。
太平洋戦争勃発後の米国中枢は困っていた。 軍事作戦の成功には相手国の理解が必要だが、当時の米国中枢には東洋人への偏見に満ちていたからだ。 そこで学者を総動員し日本の国民性を研究させた。 その際の報告書がNo.25、『菊と刀』。 そこでは、欧米を罪の文化、日本を恥の文化という見方を示した。
その後も、登場プリキュアを増やしたり、敵を味方に引き入れたりと、常に新しい要素を入れ毎年違うプリキュアが誕生する。 スタッフが萎縮せず新しいことができるように、プリキュアの生みの親は勇退し、制作スタッフが変わるごとにイメージもガラリと変わるスタイルに。 戦隊モノのシリーズのように。
色を変えるというアイデアはあまりにも奇抜だったが、技術が追いつかなかった。 スプレもんは伝説だけ残して一回戦で敗退。 床にドバドバと垂れる塗料に大会運営は困りまくる。 ちなみに作った大分高専は17回大会まで、惜しいところで全国出場が果たせなかったが、スプレもんの呪いと呼ばれた。
第一次世界大戦で欧州の主要都市が戦果に見舞われ、英国は困った。 銀食器が手に入らない! 開戦前はドイツから輸入していた銀食器。 彼らにとって銀食器はステータスを示す道具でもあった。 大正時代。まだ日本には洋食器が普及してない状況。 だがそんな中、銀食器を作ったのが新潟県燕市だ
こうして明治農法と名付けられ、全国展開した農法により、水田の反収は飛躍的に進化を遂げた。 この後、日本の農学は確立し、品種改良や化学肥料等が普及していくわけだ。 ドイツの科学は世界一と日本の伝統を混ぜ合わせて僕らの祖先はコメを作っていたのだ。 #にいがたさくらの小話 その90