にいがたさくら@小話する人(@monkey_across)さんの人気ツイート(リツイート順)

全ての国道を過去にする。 衝撃の国道0号
和気あいあいなムードが一変、ガチ勢の作戦により会場は阿鼻叫喚に包まれた。 会場は東京なのに、焦点は3点のうち唯一日本国内である極寒の襟裳岬! 結局対抗イベントは奇策を用いた緑チームが勝利。 それからIngressをやる面々の中には、ゲームをやるためだけに海外へ行く頭のおかしい人達が出始める
元々羽咋市は8世紀頃の古文書にUFOっぽいのが現れたという記述があり、それに全乗っかりでUFOの町をアピールしている。 当初はそのシンボルとして建てられだのがこの宇宙博物館、コスモアイル羽咋だ。 しかし建物の建設に予算を使ってしまい、展示物にかける費用がない。 焦った担当者はNASAへ向かう。
肥後細川家の殿様は病弱だった。 殿を心配する家臣達は、地元で取れる上に滋養強壮効果のある蓮根に着目した。 「これならいける」 だが殿は嫌った。 「泥まみれで、穴の空いた物など食えるか!」 なんとかして食わせたい。 そこめ城の料理人が必死で考え出したものが、熊本名物『からし蓮根』だ。
水産商品輸送用のトラック輸送の需要は戦後拡大するが、海からの塩分を多く含む風や道路に撒いてある凍結防止剤の影響でよく錆びた。 そのため、寒冷地の八戸や石巻などではステンレス板で補強していた。 だが当時のトラックの運ちゃんは荒くれ者。補強ついでにデコる。 こうしてできたのがデコトラだ
アメリカ人気質なNASA職員はこれを気に入り、実際に貸し出された。ついでに使用済ロケットも格安で売ってくれた。 これに味をしめ、今度はロシアに向かい、これまた格安で買付る。一旦物品の真贋を確かめるためNASAに輸送すると、一桁多くふっかけられるというトラブルが発生。 しかも相手は軍人。
明治時代、椎茸は松茸の10倍の値段する高級品。 当時の椎茸採取方法は榾木に鉈で傷付け、シイタケ菌が着くのを待つガチャ方式で、菌が付着せずに爆死する者もいた。 安定して生産したいが、西洋には椎茸がないので資料はない。 しかも江戸時代までの日本人は、きのことは何かすら理解していなかった。
しかし、臆することなくその金額ならいらんからロシアに持って帰れ、と指摘。輸送費も馬鹿にならない。こうしてロシアからも購入に成功。 こうしてガチな展示物が並ぶ博物館になったのだ。 ちなみに当初目的だったUFOの話は申し訳程度に展示してある。 #にいがたさくらの小話 その58
日本人が初めて世界一周したのは江戸中期。 しかもただの庶民だった。 1793年に石巻から船で江戸へ向かう途中で漂流し、アリューシャン諸島へ。 その後ロシア人に助けられイルクーツクへ。 10年程滞在した後、ペテルブルグで皇帝に謁見し、なんやかんやあって1804年に長崎まで輸送され故郷へ辿り着く
17世紀末、極東を探検中のロシア人は奇妙な男を発見。 男は上品な漆器、陶磁器を持っている。只者ではない。 だが言葉が通じず、事情聴取不可。 そこで男をモスクワまで輸送し皇帝に謁見。 聞き取れた言葉を基に『インド帝国のウザカ人·デンベイ』と報告した。 これが日本とロシアの初接触だった。
しかもここ、民間企業。 建てられたのはバブル期なので、今年で開園39年。 一時期はあまりにニッチ過ぎて来場者が伸び悩んでいたが、近年は映えとメシによって土日はかなりの人がいる。 一周2.5kmというクソ広い場所を世界各地の料理を食べ歩きながら回るのが、オススメだ。移動は腹ごなしになるし。
現在ベトナムの二輪車のシェアは7割がホンダだ。 だが2000年、シェアは9%まで落ち込む。 中国系の超低価格二輪車の登場によりシェアを奪われたからだ。 このことに衝撃を受けたホンダは、超低価格路線に本腰を入れ、ベトナム向けの低価格二輪車WAVE αを導入。 シェアを取り返す以上の活躍をした。
このマニ車もガチもんの関係者によって作られているので、法力も半端ない。 民族学に興味ある人はぜひ行ってほしい。 興味がない人はメシを食うだけでも楽しめるので、行ってほしい。 ちなみに屋内の常設展は開館以来ほぼ変わってないので、ちょっと怖い。 #にいがたさくらの小話 その338
石油危機が起こる前、誰もが中東の石油の安さを信じていた。 一方国内の石炭は斜陽産業として衰退し、保護されながら、ゆっくりと死を迎えると思われていた。 ましてや、石炭の輸入など想像すら……。 石炭は汚い。オワコン。 日本初の大規模海外炭火力発電所は、そんな逆風の中、検討されていた。
昔のビルは壁がコンクリートだったが、最近施工されたビルはガラス張りのようになっていて、都会らしさが際立つ。 とはいえ、オサレなデザインだからガラス張りのビルが乱立している訳ではない。 ガラス張りのほうがコストが安く、そして高いビルを作りやすいためである。 理由は材料が軽いからだ。
江戸後期~明治期に活躍した琴の名手、葛原勾当。 琴での業績もさることながら、彼は目が見えなかったにも関わらず、毎日日記を書いていたことでも知られる。 木製の活字と升目を考案し、自ら使って40数年間にも渡って膨大な量の日記を記した。 この器具は「東洋のタイプライター」とも呼ばれた。
戦前、世界第三位だった日本商船隊は第二次世界大戦で徴用され、殆どは喪失した。 戦後の政府は、船のレンタル料や補償金などの権利に100%の税金をかけた。つまり、踏み倒したのだ。 金も船もない船会社。残ったのは人だけ。 だが、人が持つノウハウを元手に日本の商船隊は奇跡の復興を成し遂げる。
戦後、紙を切る道具は主にカミソリが使われていた。 カミソリの刃先で切っていたのだが、使っていくうちに次第に切れなくなっていく。 大部分は大丈夫なのに切先だけ悪くなると取り替える必要があり、勿体なかった。 大阪の印刷会社に勤めていた男が、その常識を覆した。 それが折る刃式カッターだ
こうして導入されたコーヒーは1855年の宗谷警備で飲まれた。 極寒の地で淹れられたため、浅煎りで粉も混じった一杯だったと想像される。 その条件では、ビタミンCが吸収される割合が飛躍的に高まるらしい。 偶然に偶然が重なり、コーヒーによって命は救われたのだ。 #にいがたさくらの小話 その389
新潟県長岡市山古志村 雪深いこの地には、全長922m日本最長の手掘りトンネルがある。 中山隧道ができるまでは、冬、雪に閉ざされていた。 集落の人々は病人が出ても医者に診せることもできない。 「峠さえなければ」 だが、資金はない。 そこで彼らは自らの手でツルハシを持ち掘り進めることにした
こんなフランスアルザス地方みたいな風景が、愛知県犬山市で見れるとあって、かなり映えスポットとしても魅力的。 民族衣装の貸出も行われているので、インスタとも相性がいい。 平日は人がほぼいないので、写真を取りたい方は平日がオススメだ。 持込のコスプレはイベント以外では禁止なので注意。
北海道猿払村。 今でこそ国内有数の裕福な村だが、かつては、『貧乏見たけりゃ猿払へ行け』と言われた程貧しい村だった。 昭和29年以降にニシンの群れが途絶え、その後炭坑が閉山。乱獲によりホタテなども壊滅。 役場職員の給料も払えない程の困窮。 そんな状況の中、彼らはホタテ養殖に全てを賭けた
完成したのは「女の子だからおしとやかにしなさい」という当時まだ蔓延っていた概念の真逆を行く物語。 その姿に当時の幼女は熱狂。玩具も大盛況。2年目も大ヒット。 だがプリキュアは少女たちの成長を描く物語。次作を作れば物語が複雑になってしまう。 そこでキャラを変える戦隊モノ方式を導入。
戦後、醤油は経済成長の波に乗れなかった。 醤油は生活必需品。豊かになったところで消費量が爆発的に増える訳ではないからだ。 そこで海外展開。進駐軍の米兵には好評だったが、和食普及前の世界。醤油の使い所がわからん人多数。 そこでまず、肉料理に醤油を使う手法をアピールした。 TERIYAKIだ
忘年会シーズンの出し物としての需要があったのだ。男女兼用って言っといて良かった。 その後、定番となってしまったため、ホタテ水着を作る日々が続く。 ネットでコアな評価を受けていたところに、市から声が掛かる。 「ふるさと納税の返礼品にしたいんです」 彼は問う。 「市役所、正気か?」