江戸時代は世界的に識字率が高いと言われるが、読めない人も居た 彼らは農作業で必要な暦すら読めず困る そこで南部盛岡藩領内では、絵だけで理解できる『南部めくら暦』を作って暦を伝えた 例えば、画像上中央(右から読む)では『目+石+゛+重箱2個+サイコロの6+蛇の絵』で、『明治26年巳年』とわかる
ネット広告とかで地政学って言葉がひとり歩きしているように感じる 地政学は、地理学と歴史学、政治·経済学を複合した学問なんだから、地理と歴史を一通りやらずに地政学やっても陰謀論以外身につきません ドラクエで例えると、戦士武道家をやらずにバトルマスターになろうとするくらい横着な行為です
彼の業績は、戦前日本では立身出世の人、戦後日本では日米友好の父として讃えられた 米国でも彼を讃える施設ができた程だが、近年は彼の業績を知る者も減っている ちなみに真偽不明だがポテトヘッドは彼がモチーフらしい 彼は形を変えて現代でも愛されているのだろう #にいがたさくらの小話 その398
戦前のアメリカ·カリフォルニアには、『ポテトキング·馬鈴薯王』と呼ばれた日本人がいた 彼の名は牛島謹爾 20代前半で単身渡米 白人が嫌っていたデルタ地帯を開拓して頭角を現し、広大な耕地を管理し、当時の米国全体の約1割のじゃがいもを生産するに至った傑物だ
方言は心の底から出てくる言葉だ ぴったりハマる標準語訳がない場合も多く、単純に標準語に置き換えれば済むという話ではない 国語の研究でも人命救助に携わることはできるのだ ちなみに『東北方言オノマトペ用例集』は以下からDL可能です www2.ninjal.ac.jp/past-publicati… #にいがたさくらの小話 その396
震災前からこの問題は言われていたが、震災で表面化した 通常と異なり、現場に来ているのは全国各地からの医者 地元の方言は理解できても、東北方言はわからない 現場のニーズに即応するように2011年9月には試作1版、2011年11月には試作2版が完成 現場の声を反映しつつ2012年3月に完成版ができた
オノマトペ(擬音語、擬態語)は状態や気持ちを表すことが多い 医療で必要な語彙である気持ちや状態を表すものは、名詞と違って標準語への置き換えが難しい 例えば「胸がどやっとする」と言われて、「どやっとするとは標準語ではどういいますか?」と聞いても、患者は答えに窮するだけだろう
東日本大震災 大災害を前に医療関係者たちは、全国から被災地へ向かった だが、医療現場で彼らは困った 患者の言葉がわからないのだ 地元の看護師に翻訳してもらわないと、診察すらできない 間違って方言を解釈してしまえば命にも関わる そこで作られたのが『東北方言オノマトペ用例集』だ
北海道伊達市 仙台藩亘理領の侍が集団移住して開拓した町だ 殿様自らが集団を率いて結束したため、旧藩士による北海道開拓の中でも指折りの成功を収めた 農家として成功しても彼らは武士 武士だった時代を知らない若い世代にも武士の誇りを見せてあげたい そして始めたのが、今も続く武者行列だ
東北·北海道地方の方言で、丁寧に喋ろうとするとなぜか過去形になるというのがある 理由は諸説あるんだが、有力な説として、『敬語はそもそも相手との距離を保つもの、これらの地方では時間軸で適切な距離にするために過去形にする』ってのがあるらしい
霊場·恐山 元々はローカルな信仰の場であり、他の有名霊場と比べれば歴史は深くなく、発展するのは江戸時代から それ故、霊場としての固定観念が薄く、様々な文化や民間信仰を柔軟に受け入れ発展した 例えば、有名なイタコは恐山の寺(曹洞宗)の教えと一切関係ないが、追い出したりせずに共存していた
現在の十和田市は郊外に広がる美しい田園風景、中心街は碁盤の目状の美しい街並み、そして現代アートの美術館がある青森県第4の街だ 幕末の開拓初期から美しいものを根付かせたからこそ、現代美術館が受け入れられたのだろう #にいがたさくらの小話 その146改
三本木原開発計画は途中で息子に引き継ぎ、水量アップのための二次計画が開始したところで明治を迎えた 明治時代になると、北海道開拓計画のプロトタイプとして注目され、その技術や考え方は北海道の都市計画にも影響を与えることとなる その後二次計画は会社や国営事業を経て、昭和41年に完遂する
通水した用水路は稲生川と命名され、300haもの水田が生まれる しかし、水田があるだけでは『街』にはならない 養蚕や馬鈴薯、味噌作り、地場産業の馬市や革細工など全国各地からありとあらゆる職人・商人を呼び寄せた 街には産業が必要だからだ 産業以外も街に必要な神社仏閣も遊郭も誘致した
工事はトンネルを含む用水路の建設がポイントだった 清流・奥入瀬川から水を引くには高い技術力が必要 藩内には鉱山開発技術の流れをくむ土木工事集団『南部土方衆』がいた 普段は農民だが、隣の仙台藩などに集団出稼ぎを行って技術を蓄積してきた人々だ 彼らの技術力によって計画が具体化していく
彼の名は新渡戸傳 旧五千円札の新渡戸稲造の祖父だ 彼の計画は、単なる新田開発ではなかった 文字通り『街』を創る だが、藩の財政は火の車 わずかな工事資金しか出せない そこで彼はカネを出し合い、出資額に応じて新田開発地を分配することにした また、全国各地からも出資を募り資金調達を行った
幕末、南部盛岡藩は度重なる蝦夷地警備の負担により財政が悪化していた 「10年間で功績上げなきゃクビな」 下級武士達はリストラの危機 困った彼らを救ったのは、当時60代のおじいちゃんと、木すら生えない不毛の原野だった 「ここに街を創ろう」 こうして開拓された街が、現在の青森県十和田市だ
幕末、薩摩藩は諸藩に先んじて近代化の重要性を感じた。 近代兵器を自作せねば。 様々な技術を海外から輸入し、近代的な機械工場も作った。 戦争に備え弾薬は大量に必要だが、薩摩には火薬の起爆剤を作るために必要な工業用アルコールが少なかった。 そこで量産されるようになったのが、芋焼酎だ。
大分県別府市 今でこそ日本有数の温泉地だが、江戸時代までの別府は湯治場と地獄があるだけの寂れた寒村だった 明治時代になると交通網が発達し、人の往来が増えたが、それだけでは従来の温泉地には勝てない 彼らは新技術を柔軟に取り入れ、アイディアを実践することで、現在の地位を築いたのだ
新潟県長岡市山古志村 雪深いこの地には、全長922m日本最長の手掘りトンネルがある。 中山隧道ができるまでは、冬、雪に閉ざされていた。 集落の人々は病人が出ても医者に診せることもできない。 「峠さえなければ」 だが、資金はない。 そこで彼らは自らの手でツルハシを持ち掘り進めることにした
その後、日本ガイシとして分離独立し、がいしだけでなくエンジン用スパークプラグ等セラミック分野へ裾野を広げる。 現在では様々な特殊材料を扱う企業として、業界をリードする存在となっている。 熱い思いがなければ、新しい技術を手に入れることは出来ないのだ。 #にいがたさくらの小話 その394
アメリカから持ち帰ってきた特別高圧用のがいしを基に解析し、形、釉薬の研究を行い、国産の高圧用がいしを完成させる。 だが売り込みには苦戦した。不良品率が高かったのだ。 職人の腕のみに頼っていては、安定した製品が作れない。 製法を見直し、品質の向上に努め、海外製がいしを追い抜いた。
持ちかけられた陶器メーカは困った。 「いやウチ、ディナーセット作る会社なんだけど?」 だが、がいしについての話を聞くうちにやる気になった。 「営利ではなく、国家のために」 こうして共同開発が始まった。 ちなみにこの2社は、世界最大級高級陶磁器メーカ・ノリタケと重電メーカの東芝である。
『がいし』 電線とそれを支える物の間を絶縁しながら繋ぐ器具だ。 日本では明治3年に電信用のがいしを国産化。陶磁器の歴史を持つ日本には比較的容易だった。 しかし、特別高圧のがいしはそうはいかない。 電気工学の知識が必要だからだ。 「国産化したい」 電機メーカは陶器メーカに持ちかけた
散水の方式も時代によって進化していく。 最初はツノ型だったが、施工コストがかかってしまうため、ボックス型に変化。 また、ボックス型のノズルは錆による目詰まりが多発したため、ステンレスに。 更に散水方向も調整できるキャップ型へ。 だが、地下水を使いすぎたため、地盤沈下が起こってしまう