にいがたさくら@小話する人(@monkey_across)さんの人気ツイート(リツイート順)

日本中が危機感を持つ前から危機感を持っていた彼らは、長崎に近い立地を活かし、西洋の軍事技術にのめり込んだ。 同時に藩士の知力の底上げ、教育改革も行う。 西洋の軍事技術が気に入った藩主は、黒船来航前に長崎に来航していたオランダの軍艦に乗船。 搭載されていた大量の大砲をその目で見た。
台湾、香港、フィリピンの中間にある東沙諸島。 明治末期、ここは『西澤島』と呼ばれていた。 西澤吉治という男が、当時無人島だった島に大規模 なインフラ投資を行い、労働者を送り込んでいたのだ。 その絶妙すぎる位置は、当時台湾を領有する日本と清の間で領土問題となり、結局清へ返還された。
和歌で知られる吉野山の桜は明治初期、危機に瀕していた。 廃仏毀釈で多くの寺院が廃寺になり、観光客が激減した吉野では、桜を薪として売る計画が進められていたからだ だがそれを買い戻したのが林業王・土倉庄三郎だ。 「いずれ日本には外国人観光客が来る。その時のために吉野山の桜は残したい」
漁師たちは、賭けに勝った。 豊かなホタテと安定した養殖手法を手に入れた彼らは盤石となった。 ただし、漁師になれるのは限られた人だけ。貝柱の加工工場は最低賃金のままで人手不足だそうだ。 この富を次は何に活かすのか。 それがこれからの課題だろう。 #にいがたさくらの小話 その326
黒船来航より前から蒸気船の存在は知られており、聡明な藩主は各自で蒸気船製造の研究をしていた。薩摩、水戸、佐賀等の名だたる大藩の中に、何故か小藩の伊予宇和島藩もいた。 蒸気船を作りたい。そのために作れそうな人材を藩内中から探し回り、一人の男に依頼した。 「わし提灯張替職人だが?」
この望遠鏡は幕府の天文方だけでなく、様々な人たちへも広まる。裕福な町人も望遠鏡を買えたらしい。 伊能忠敬も測量のため、この望遠鏡を持ち運んでいたという。 なお、この後技術革新があり、江戸後期には更に高性能な望遠鏡が鉄砲鍛冶により作られることになる。 #にいがたさくらの小話 その209
1984年にからし蓮根の真空パックによる集団食中毒事件が起きてからは一旦下火となってしまうが、組合を結成し、店の衛生管理等を徹底。 現在も熊本名物として君臨。 からし蓮根はツマミとして食べることもあるので、この話はいい酒の肴になると思う。 #にいがたさくらの小話 その164改
明治維新は、無茶振りの連続だった。 理想が高い新政府は、廃藩置県、地租改正、郵便制度、ありとあらゆる布告を出しまくる。 だが村々まで浸透させるには大変な労力が必要だ。 識字率も高くない村もある中で、上からの指示を捌き、下からの要望を取りまとめていったのが、戸長という役職の人たちだ。
江戸中期、天明7年の打ちこわしは大坂や江戸を始め各地で起こった。 原因は米不足。 勿論、京都でも米不足だったが、京都では打ちこわしが起きなかった。 代わりに京都御所の塀周辺を巡り、賽銭を投げ入れた。 最盛期には約5万人が御所周辺に集まる規模に。 人々は当時権力のない天皇に救いを求めた
初期の住民は欧米人、ハワイ人だったという。英語、デンマーク語、イタリア語、ポルトガル語やハワイ系言語を母語とする人々は、英語を基にそれぞれの言語が混ざった言語を生み出す。 日本領になると、主に八丈島から移民が入り、英語ベースの言葉を話す人と八丈弁を話す人が意思疎通の必要に迫られる
淡路島の農民車の動画をおすすめしておきます youtu.be/dZkjRbSEb7s youtu.be/6h7kKhcQeas
1927年に65歳で亡くなり、その後会社は1950年に潰れる。 だが、彼が日本の電機業界に残した業績は大きい。乾電池という言葉も彼が名付け親とされる。 彼の情熱の詰まった乾電池。液漏れしないように管理したいものだ。 #にいがたさくらの小話 その320
こうしてリリースされた折る刃式カッターナイフは口コミで広がっていった。 なにせ実際に使う人が作ったのだから、使い勝手は抜群。 その後、独立してブランド名をOLFAとした。 海外展開を考慮してHの発音がない言語でも読めるようにFにした。 思惑の通り、その後OLFAは海外に展開していく。
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つよつよな神社ですね
アサガオは庶民から大名に至るまで様々な人々に楽しまれる園芸植物。供給は江戸周辺の下級武士で副業として育成していたそうだ。 狭い土地でも育てられる上、突然変異しやすいのがアサガオの特徴。 突然変異した変化朝顔は、『奇品』として重宝がられた。 特に富裕な人はハマる人が多かったそうだ。
戦乱の戦国時代が終わっても、北東北の南部藩には殺伐とした気風が残っていた。 せっかく盛岡城と城下町を作ったのに、家臣は一狩りしようとする輩ばかり。 藩主は文化的な生活を根付かせるため、茶の湯に着目。 そして京から鋳物師を呼び、茶道具を作らせた。 盛岡の南部鉄器はこうして始まった。
工事はトンネルを含む用水路の建設がポイントだった 清流・奥入瀬川から水を引くには高い技術力が必要 藩内には鉱山開発技術の流れをくむ土木工事集団『南部土方衆』がいた 普段は農民だが、隣の仙台藩などに集団出稼ぎを行って技術を蓄積してきた人々だ 彼らの技術力によって計画が具体化していく
ローマ法王庁には貢物を受取る文化があった。 日本からも古くは織田信長が献上している記録が残っている。これまでの日本からの貢物の中に米はなかった。 このことが当時、国内外の様々なメディアが取り上げた。 あまりにもキャッチーだったからだ。 そして神子原米は飛ぶように売れたのだという。
だが伝統的焼畑農耕は環境破壊の悪者にされた。 プランテーションを作るために森を焼く行為を焼畑だと勘違いされたり、当時研究が進んでいなかったりしたためだ。1980年には国連の機関が熱帯林の減少を焼畑農耕によるものと書いたことも影響し、今では否定されているにも関わらず悪者イメージが残る。
戊辰戦争では新政府軍に参加。 彼らが作ったアームストロング砲による城の破壊は、古い時代を新しい時代が壊す象徴ともなった。 新時代を迎えるには、相当の準備とトップのリーダーシップ、そして狂おしいまでの情熱が必要なのだ。 #にいがたさくらの小話 その76改
現在の十和田市は郊外に広がる美しい田園風景、中心街は碁盤の目状の美しい街並み、そして現代アートの美術館がある青森県第4の街だ 幕末の開拓初期から美しいものを根付かせたからこそ、現代美術館が受け入れられたのだろう #にいがたさくらの小話 その146改
一般に焼畑農業は熱帯地域に多いが、現在の日本でも行われている。 焼く理由は複合的だが、土壌改良や地力の回復、強害雑草の効率的な除去など多様であり、地域によって期待する効果が異なる。 英語ではhifting cultivationなので焼くことは本質ではなく休閑が本質。なので、焼かない焼畑もある。
火力発電についても興味持ってね! twitter.com/monkey_across/…
欧米人は日本にだけ来た訳では無いし、日本には欧米人だけが来たわけではない。 日本に根を張った欧米人もいたが、大多数はすぐに帰ってしまうため、わざわざ文法も語彙も全く異なる日本語など習得しない。 そこで、速習できるようなハウツー本も誕生した。 カタコトが喋れるようになる教科書だ。