にいがたさくら@小話する人(@monkey_across)さんの人気ツイート(リツイート順)

青森県新郷村。十和田湖にほど近い酪農が盛んなのどかな村だ。 そんな村の歴史が一変したのは、昭和10年。 新興宗教の教祖により、「キリストの墓」が発見されたのだ。 村人は困惑。ここはゴルゴダの丘じゃない。 100%怪しいが……。 悩んだ末、村は全力でキリストの墓で村おこしをすることにした。
この報告書No.25が太平洋戦争や戦後政策に直接齎したものは不明だが、影響は多分にあるだろう。 また、文化には優劣はなく、タイプが異なるだけだという見方が一般に広まる契機にもなった。 文化とは相対的なものなのだ。という例として菊と刀を見てほしい。 #にいがたさくらの小話 その290
みんなはどの将棋が好きかな?
彼の名は新渡戸傳 旧五千円札の新渡戸稲造の祖父だ 彼の計画は、単なる新田開発ではなかった 文字通り『街』を創る だが、藩の財政は火の車 わずかな工事資金しか出せない そこで彼はカネを出し合い、出資額に応じて新田開発地を分配することにした また、全国各地からも出資を募り資金調達を行った
熊本県山都町、通潤橋。 江戸時代の技術の最高傑作と名高い、高さ約20.2mを誇る現役の水道橋だ。 水源に乏しいこの地の庄屋の夢からはじまったこの計画。 谷を挟んだ反対側の山から空を渡って水を通す。 この妄想を現実にしたのは石工の技術力と庄屋の決死の覚悟、そして住民の協力の成果だ。
海なし県の長野県には海のつく地名がある。 特にJR小海線沿いに多い。 別に海がないから悔しくて名付けたわけではなくて、古代の日本語が『湖』と『海』を区別しなかったことによる。 滋賀県の近江(おうみ)が琵琶湖のことを指しているのと同じ。 ちなみ、JR小海線·海瀬駅が日本で最も海から遠い駅だ
シアトル市には日本人移民も多く移住した。直接だけでなく、ハワイから再移住するものも多く、日本人街も成立した。 中華系の移民も多く、現在でもアジア系の割合は高い。 排日移民法や1929年の世界恐慌からはシアトルでも祖国に帰る人も増え、太平洋戦争後の強制収容で日本人街が消え現在に至る。
後編から見た人、前編も見てね! twitter.com/monkey_across/…
幕末より50年以上前、佐賀藩はやらかしをしていた。 フェートン号事件だ。 長崎に近い佐賀は長崎警固の役目がある。 そこに、突如英国船が現れたのだ。 警固要員もケチって僅かしか配置していなかったため、為す術もなく英国船の要求に応えた彼らは異国の脅威を知る。 力こそパワーの時代が来る。
鉄製大砲を作るための反射炉をはじめ、佐賀藩は自前での武器製造に躍起になった。 折しも黒船が来航し、世間が攘夷だー尊王だーと騒ぐ中、ガン無視して武器製造のための研究開発に没頭。 資金源の確保も抜かりなく、佐賀藩の名産·有田焼をヨーロッパに輸出する計画も進められていた。
英国海軍のカレーの流れを汲む当時のカレーには、南アジア料理では定番のチャツネが添えられていた。 だがある時、チャツネを切らしてしまう。 困ったシェフは代わりに福神漬を添えたのが始まりだという。 ちなみに福神漬を添えたのは一等客のみで、二等以下の客には沢庵が添えられていたらしい。
もぐり対策としては、幕府による公認。免許制が取られ、江戸のお玉ヶ池種痘所などが公認されている。 江戸後期の予防接種はこうして普及していった。 ちなみに迷信では接種すると牛の角が生えるとか言われてたそうだ。 現代でも似たような事を言ってる人もいるなぁ。 #にいがたさくらの小話 その216
金鉱石は国内で純金に加工され出荷される。 金は工業用途としても重要だ。 近年発達したスマホなどの電子機器には金が必ず入っている。 主に工業用途では、紛争地帯の武装勢力の資金源にならないよう、産地や加工地などを証明する必要がある。 菱刈鉱山の金は安心安全の日本産。 証明書類も完璧だ。
こうしてオカルトマニアが集う村になった新郷村だが、思わぬ効果もあった。 エルサレム市から友好の石碑が送られたのだ。記念式典には駐日イスラエル大使も参加した一大イベントに。 ちなみにその時のイスラエル大使は、 「ここがキリストの墓かどうかはわからないが何か関係があったかも」と発言。
瀬戸内海に浮かぶ塩飽諸島などには、一人の遺体に対して2つの墓を設ける風習が残っている。 両墓制と言って、遺体を埋葬する埋め墓と霊魂を祀るための詣り墓の2種類だ。 (写真は本島の埋め墓) 両墓制は島嶼部だけの独特の風習ではなく、かつては関西を中心として広く分布していた埋葬スタイルだった
現代と比べて娯楽の少なかった江戸時代、出開帳は一躍ブームになったそうだ。 ちなみに道中の名古屋などでも出開帳を行われた形跡があるという。 江戸時代の庶民も我々とあんまり変わらないのかもしれない。 #にいがたさくらの小話 その187
日本国内において、ジビエではなく養豚が生業になるのは明治以降。 だが、鹿児島と沖縄だけは江戸以前から養豚しており、戦国時代に来た外国人宣教師も薩摩の漁村での養豚を記している。 14世紀に大陸から齎された豚だが、琉球で広まったのには理由がある。 大陸の使者、豚肉を大量に食うのだ
彼は俵で大損害を出していた。 蒸気船で函館から品川へ品物を送った俵が破損したからだ。 江戸時代までの習慣では、重さを基準としたやり取りだったが、明治の蒸気船では個数単位に変わる。 荷を気にしながら運ぶのは効率が悪いからだ。 案の定俵は破損。汽船会社は法令に基づき責任なしとされた。
日本は江戸時代前期、ガチガチの鎖国状態。 そんなことはつゆ知らず、デンベイにロシア語をロシア人に日本語を学ぶよう指示。 だが、まだまだ航海技術が未発達な時代。 ロシア極東もまだまだ未知な場所が多かった。 ロシア人が日本にくるのはだいぶ先となる。 #にいがたさくらの小話 その33改
学校では英語、家では島独特の混ざった日本語と使い分けた結果、また見るよ(see you again)のような英語の影響が残る言葉使いだったそうだ。 現在ではほぼ消滅したが、独自の文法を持つ日本語方言の一つとして辞典に残る。 世界自然遺産・小笠原諸島は、文化も遺産だ #にいがたさくらの小話 その6改
散水の方式も時代によって進化していく。 最初はツノ型だったが、施工コストがかかってしまうため、ボックス型に変化。 また、ボックス型のノズルは錆による目詰まりが多発したため、ステンレスに。 更に散水方向も調整できるキャップ型へ。 だが、地下水を使いすぎたため、地盤沈下が起こってしまう
細かいところを見ると、昭和初期には無くなっていた文化などを紹介しているが、大枠は見事に捉えており、欧米人にとって、理解不能だった日本人の考え方を恥の文化という言葉を使って理解可能な物に変化させたところが特徴だ。 後に菊と刀という題で一般にも出版され、直後に日本研究の古典となる。
まだ家に風呂があるのが珍しい時代。当時のメインターゲットは、銭湯。 扇風機もないので血行が良くなりすぎるのも考え物だった。 そこで、爽やかな香りと湯上がりの爽快感を高めた夏用入浴剤を開発し、1930年に発売開始。 入浴剤は、冬用の浴剤中将湯と夏用のバスクリンという2本立てになる。
元和9年(1623年)、領地の調査をしていた津軽藩のサムライは困惑した。 この亀ヶ岡という場所では、土の中から様々な形をした瓶の焼き物が出てくる。また、三内村では人形の焼き物が出るらしい。だが何故土の中に埋まっているのかはわからない。 後の世界遺産·亀ヶ岡遺跡と三内丸山遺跡である。
マラッカ海峡の海賊は減少傾向だが、まだ治安に不安がある。マラッカ海峡が通れなければロンボク海峡を通るが1600km以上も遠回りだ。 タイの一番細いところに運河を作る話もあるが、出ては消えの状態で実現には程遠い。 マラッカ海峡の重要性は千年以上変わらないのだ #にいがたさくらの小話 その287