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幕末には黒船来航情報も伝達。
明治に入り、電信技術が入っても暫くは使われていた。最新技術である電話電信は高く、回線が詰まって遅かったからだ。
ちなみに旗振り通信の弱点は天候。
その時は米飛脚を使っていたという。
いつの世も情報は鮮度が命。
#にいがたさくらの小話 その184改
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イルティッシュ号はその後島根県江津市沖に沈みましたが、それを引き揚げようとした男の話はコチラ
twitter.com/monkey_across/…
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写真及び参考文献は以下からお借りしました。
なお、最後の写真は私の撮影になります。
江津市史 下巻
dl.ndl.go.jp/ja/pid/9575063…
歴史地理教育 740号
dl.ndl.go.jp/ja/pid/1119846…
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イケる。
彼は確信したが、俵は全国で作られるもの。
必要性を理解してくれなければ動いてはくれない。
そこで、全国の商工会議所や内国博覧会等で自ら改良した俵を発表。また、出来の悪い俵を博覧会で産地を明記した上で晒した。
また、粗雑な俵の梱包は買い取らないよう商業団体への根回しも行う
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場所の選定も困難だった。
石炭の発電所を建てると話が出るだけで反対される。
そこで彼らは、旧産炭地に目をつける。
彼らは石炭のリアルを知ってる。更に炭鉱が次々と閉山し活気を失っていた時期。
彼ら自身も何かを誘致したいという気持ちがあった。
その最中に石油危機がおこる。
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画像は「協和:満鉄社員会機関誌」昭和14年10月1日号よりお借りしました。
参考文献は「満鉄会報」昭和39年10月10日号です。
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日本の国民性理解のために動員されたのは、ルース・ベネディクトという文化人類学者。
通常現場でのフィールドワークが必要な文化人類学だが、戦争中の敵国になど行けない。
そこで彼女は、日系人や英訳の書籍や映画、戦争で鹵獲した物を手掛かりに、日本人とは何かを解き明かし、米国中枢へ説明した。
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東京都民は、方言など使わないと思いがちだが、それは違う。
新方言とか首都圏方言とか言う言葉を使っている。
例えば、『カタす』(片付ける)、『マカシタ』(任せた)や、『〇〇しちゃった』(てしまった)など。
由来は様々だが、標準語には砕けた表現が少ないため、こういう言葉が生まれるのだろう。
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江戸時代は平和な時代だったので、珍品コレクターが沢山いた。
『南総里見八犬伝』を書いた売れっ子作家の曲亭馬琴もその一人だった。
彼らは絵や書だけには飽き足らず、様々な物を収集し、仲間同士で古い物を愛で合う会『耽奇会』という会合を開いていた。
縄文の美や神秘に惹かれたのだろう。
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ぷちバズなので宣伝。こんな感じで歴史地理観光などに関連する雑学系小話をやってますので、よかったら見ていってね
twitter.com/monkey_across/…
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現在様々な國やメーカーで折る刃式カッターが作られているが、刃の世界規格は当時開発者が試行錯誤をして導いた寸法がベース。
製造業が海外に移転する時代を経た今でもOLFAはずっと日本製に拘る。
試行錯誤して切り拓いたカッターという製品の品質を守るために。
#にいがたさくらの小話 その364
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石炭は世界中に広く分布しているという利点がある。検討には値する。
そこで彼らは主要産炭国であるオーストラリアと交渉開始。だが、相手の担当者から一蹴された。
「外国から石炭を輸入して発電するなんて聞いたことがない」
彼らは喰い下がり「具体的な計画があるなら話を聞く」と、回答を得る。
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悔しい。
その思いを俵の改良に向け、政府へ建白書も送った。
商工会にも送った。
政府は重要性を理解してくれたが、実際に俵を作るのは生産者だ。
そこで、知り合いの生産者に自ら改良した俵を持ち込み、依頼。
実際に売ってみると、俵づくりのコストは上がるが、それ以上の高値で取引された。
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牛痘の普及は長崎の隣、佐賀藩から始まる。当時の技術では、新鮮で有効な牛痘苗を伝えるには、人に接種して膿汁を作り出しそこから取り出し、リレー方式で次の人に伝えるという方法しかなかった。
そのため、佐賀から北陸·東北まで牛痘を伝播させるために雪の峠道を接種者と越えることもあったそうだ。