にいがたさくら@小話する人(@monkey_across)さんの人気ツイート(リツイート順)

職人の街、新潟県燕三条。 多くの金属加工工場があり、大勢の職人がいる。 昭和30年代、毎日忙しなく製品の受注がありひっきりなしに働いていた時代。 出前を頼む職人が殺到。しかし広い市内を配り回るにはどうしても時間がかかり、麺がぬるくなり伸びてしまう そこで生まれたのが燕三条系ラーメンだ
遷都には莫大なインフラが必要。政権を取ったばかりの維新政府にはそれを作るカネもノウハウもなかった。 しかし、新政府は外国に対して政権の証である首都をアピールしたい。 様々な意見が出る中、決め手となったのは後に郵便の父と称される前島密が匿名で送った意見書だとされる。(諸説あり)
ピョートル大帝は希望を抱いた。 こいつ、オランダが言ってたあの国の人間じゃね? 当時の極東探検には膨大なコストがかかっていた。川船による輸送はあれど、本国から遠く、物資輸送だけでも費用は嵩む。 よく知らないけど、そんなに近くに文明国があるのであれば、物資輸送しなくてもいいじゃん。
茶道は淑女の嗜み。 現代でも、お茶を習う女性は多いと思う。 しかし、よくよく考えてみると、お茶は戦国時代にブームになり江戸時代に定着した武士の文化。 千利休も男だし、利休七哲もみんな男。 淑女の嗜みとして現代に受け継がれたのには理由がある。 キッカケは、明治維新による近代化だ。
コンクリートよりもしなるパネルのほうが風や地震の影響を受けにくいし、塗装もいらないので、メンテナンスコストも安い。 パネル自体も最近は様々な材料が使われており、直射日光の影響も緩和するものもあるようだ。 カッコよくしたいわけではなかったのだ。 #にいがたさくらの小話 その197
当時最新鋭だった顕微鏡や海外のマッシュルーム栽培などの研究を参考にし、遂に安定した人工栽培方法を確立。 菌糸が蔓延している榾木を粉にして原木に振りかけるという方法だ。 だが椎茸の産地は山間部。手間も技術も必要なこの方法はすぐには広まらなかった。 だが彼の研究は後の研究の下敷きになる
第一次世界大戦は別名欧州大戦とも呼ばれ、文字通り欧州の主要な地点が全て戦禍に。 当然イギリスもその影響を受けた。 銀食器が輸入できない! 当時イギリスはドイツから輸入していた。日本だって洋食器が珍しい時代。作ってくれと言われても困る。 そんな無理難題に応えた街が、新潟県燕市だ。
当時の熊本城のお堀には蓮根が植えられていた。植えたのは細川家が来る前の熊本城主·加藤清正。 南の薩摩を抑えるため、熊本城は籠城戦が出来るよう、あらゆるものが食える仕様になっており、蓮根もその一つ。 この蓮根に麦味噌と和辛子を混ぜたものを入れると、細川家の家紋、九曜紋にも見える。
明治時代の日本の花形産業は製糸業だった。 現在の京都府綾部市も、江戸期から京都の織物用の生糸を作っていた地域の一つ。 明治18年に行われた品評会へも満を持して出品。 だが結果は酷評だった。 このままではこの地域は滅ぶ。 その危機感で設立されたのが、郡是製糸株式会社。 現在のグンゼだ。
世界有数の豪雪地帯·新潟県上越市。ここに130年続くワイナリーがある。 江戸時代から葡萄の産地だった山梨県とは違い、葡萄栽培からのスタート。 しかし元々適地ではないため、葡萄が実らない。 そこで、後に日本のワイン葡萄の父と呼ばれる川上善兵衛は全財産を費やし、この地でも実る葡萄を開発する
一方、当時のロシア女帝アンナは日本との交易に期待した。 シベリアを経由して本国から物資を輸送するよりも安く済む上、物品も魅力的。 ゴンザとソウザは科学アカデミーへ送られ、ロシア語の読み書きを教えた。特に若く才能のあるゴンザは、すぐ上達したという。 そして彼は日本語講師となる。
島根県石見地方。 ここには民俗芸能の石見神楽がある。 元々は一般的な神事として舞われていたのだが、時代や地区によって様々に変化し、全体として芸術性が高いものへと進化している。 なぜ石見で進化したのか? これには石見の地域性が関わってくる。 要するに、田舎が連なっているからだ。
江戸時代、酒といえば灘の酒。 大量消費地である江戸へも関西方面から酒専用船で運ばれていた。 当時日本酒を製造する時期は限られており、江戸っ子たちは新酒を待ち焦がれていた。 一番酒には高値が付く。業者達は競った。 この競争は暫くするとルール化され、レースとなった。 それが新酒番船だ。
『満州での勝利は乾電池によるもの』 この報道で彼は名声とお得意様を得る。陸軍はこぞって彼の乾電池を求めた。民需もそれに従い伸びていく。 需要に応えるべく量産体制を整え、売上は急増。 海外製品との競争にも勝ち、乾電池界の覇権を握る。 こうして彼は、『乾電池王』の名を恣にした。
さらに、砂時計の容器が国内で作れないという問題にも直面。 ドイツの職人の力を借りることになるのだが、ドイツ人には巨大砂時計を本気で作るのか訝しむ。 ふるさと創生事業という日本の制度を不思議がりながらもなんとか説得。 ちなみに砂が流れる場所(オリフィス)は日本の職人の技で解決した。
みるみるうちに石油の価格は上がり、国の方針も変わる。 そして、石炭を見る目も変わった。融資も貰えた。 こうして建設された日本初の海外炭火力は、十分なNOxSOx対策を施しても、発電単価が重油火力よりも安くなった。 これを契機に日本国内で次々と海外炭を使った火力発電所が建設されることに。
有明海は遠浅で干満差が大きい。 明治時代には沿岸の福岡県大牟田市では炭鉱で栄えるが、大型船が入れず積出が追いつかない状況に。 そこで当時の三井財閥は大型船が停泊できるよう、パナマ運河みたいに閘門を開閉して水位を調整できる港、三池港を建設した。 ちなみに百年以上経った現在でも現役だ。
『キリストの墓』の概要はこうだ。 ゴルゴタの丘で処刑されたのは実はキリストではなく、弟のイスキリでキリストは密かに日本に逃れ、新郷村に住み着き天寿を全うした。というもの。 その伝説に従い、村の有力者の先祖代々の墓が『キリストの墓』になる。 なぜかついでにピラミッドも発見された。
島根県浜田市。日本海に面した島根県の田舎町だ。 江戸時代は浜田藩だったが、財政難に苦しんでいたが、武士たちにアイデアはなかった。 そこで、商人会津屋(今津屋)八右衛門が壮大な打開策を持ち掛けた。 浜田を拠点に朝鮮·清·東南アジアへと密貿易をするビッグビジネス。 勿論幕府には秘密だ。
宝石類の単位は歴史的な経緯があってSI単位のキログラムではなくカラットを使うことが多い。 だが、真珠の重さの単位は違って、もんめを使う。 これは、明治期の日本で世界初の真珠の量産養殖化を成功させ、天然真珠の既得権益者と戦い、養殖真珠は本物であると、世界に認めさせて事業化できたからだ。
明治時代、西洋からあらゆる機械が導入されるが、麺類は手打ちだった。 パスタと異なる日本の麺には、独自の製麺機が必要だ。 西洋にないなら日本で作ろう。 佐賀の発明王·真崎照郷は、そう決意し、日本初の製麺機を作る。 8年の歳月と先祖伝来の田畑、そして家業の造り酒屋を犠牲にして。
幕府や藩の役人などを捌きつつ、庶民を飽きさせない為のでみせや屋台の手配、輸送される秘仏·秘宝の輸送状況の管理、そして資金調達など、ありとあらゆる手配を整えて御開帳されたという。 現代の博物館の特別展と祭りを合わせたようなイベントだったという。 イベント記念の浮世絵などもあったそうだ
幕末の安政南海地震。 現在の和歌山県広川町に住む庄屋は、津波の引き波を見て、大津波が来ることに気付く。 彼は高台にある自分の田んぼで刈り取って天日干ししていた稲むらに火をつける。 火事か?と思い村人が高台に集まったところで津波が襲い、住民は助かった。 という話だが、微妙に事実と違う
会社を設立して乾電池を売り出すが、当初は全く売れなかったのだという。 時代が早すぎたのだ。 転機になるのは、1904年の日露戦争。 軍事通信機用の電池の需要が急増。 質電池との競争となったが、乾電池に軍配が上がった。満州の厳しい冬の寒さの前に、湿電池が凍結し、使い物にならなかったのだ。
ハワイ王国は、日本よりも50年も前に憲法を施行し、アメリカ合衆国よりも早く奴隷制を禁止した近代国家だった。 圧倒的カリスマと白人から入手した武器によりハワイ諸島を統一したカメハメハ1世の息子、カメハメハ3世の時代には近代国家体制を整え、議会も開き、西洋各国からも国家承認されていた。