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コンクリートよりもしなるパネルのほうが風や地震の影響を受けにくいし、塗装もいらないので、メンテナンスコストも安い。
パネル自体も最近は様々な材料が使われており、直射日光の影響も緩和するものもあるようだ。
カッコよくしたいわけではなかったのだ。
#にいがたさくらの小話 その197
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当時最新鋭だった顕微鏡や海外のマッシュルーム栽培などの研究を参考にし、遂に安定した人工栽培方法を確立。
菌糸が蔓延している榾木を粉にして原木に振りかけるという方法だ。
だが椎茸の産地は山間部。手間も技術も必要なこの方法はすぐには広まらなかった。
だが彼の研究は後の研究の下敷きになる
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一方、当時のロシア女帝アンナは日本との交易に期待した。
シベリアを経由して本国から物資を輸送するよりも安く済む上、物品も魅力的。
ゴンザとソウザは科学アカデミーへ送られ、ロシア語の読み書きを教えた。特に若く才能のあるゴンザは、すぐ上達したという。
そして彼は日本語講師となる。
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さらに、砂時計の容器が国内で作れないという問題にも直面。
ドイツの職人の力を借りることになるのだが、ドイツ人には巨大砂時計を本気で作るのか訝しむ。
ふるさと創生事業という日本の制度を不思議がりながらもなんとか説得。
ちなみに砂が流れる場所(オリフィス)は日本の職人の技で解決した。
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みるみるうちに石油の価格は上がり、国の方針も変わる。
そして、石炭を見る目も変わった。融資も貰えた。
こうして建設された日本初の海外炭火力は、十分なNOxSOx対策を施しても、発電単価が重油火力よりも安くなった。
これを契機に日本国内で次々と海外炭を使った火力発電所が建設されることに。
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幕府や藩の役人などを捌きつつ、庶民を飽きさせない為のでみせや屋台の手配、輸送される秘仏·秘宝の輸送状況の管理、そして資金調達など、ありとあらゆる手配を整えて御開帳されたという。
現代の博物館の特別展と祭りを合わせたようなイベントだったという。
イベント記念の浮世絵などもあったそうだ
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会社を設立して乾電池を売り出すが、当初は全く売れなかったのだという。
時代が早すぎたのだ。
転機になるのは、1904年の日露戦争。
軍事通信機用の電池の需要が急増。
質電池との競争となったが、乾電池に軍配が上がった。満州の厳しい冬の寒さの前に、湿電池が凍結し、使い物にならなかったのだ。
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