にいがたさくら@小話する人(@monkey_across)さんの人気ツイート(リツイート順)

外国人たちの言葉は、別のアジアの言語とごっちゃになっていたり、意味を取り違えたりそのまま定着したものもある。 ポンコツは元々マレー語のpungut(手にする)という言葉だったものが欧米人に殴るという意味に理解され、開港地で日本人に使われた結果今の意味になったそうだ。 ペケなども同様だ。
結局無尽蔵に砂を採取できる山形県の地層に埋まっている砂にした。それをひたすらふるいにかけた。 砂の選定以外にも問題があった。 それは大きすぎるので、砂時計の上と下で温度が変わるため、物理法則に従い砂時計中の空気圧力が変わるというもの。 容器内の圧力を精密制御する機器を導入し解決。
明治初期、維新後の東京奠都による人口減により、京都の産業は打撃を受けた。 京都は盆地。水源の確保と舟運に難があり、近代化の世の中で没落する危機感があった。 そこで京都府は琵琶湖から山をぶち抜き水路を通す計画を発案。 主任技師はお雇い外国人ではなく、大学卒業直後の日本人を抜擢した。
英語圏の人々や非英語圏の知識人層への影響は計り知れない。 冷戦期のアメリカは自国の文化を売り込むのに躍起になっていたが、このときに意図せず齎した大量の安価な本が売り込まれた国のアメリカ文化の受容に一役買ってるのかもしれない。 安価な本と侮るなかれ。 #にいがたさくらの小話 その295
洪水によって肥沃な土が流れ込み、連作障害を起こす藍を連作できるのも強みだった。 徳島藩は藍を特産品として品質向上に努め、加工技術を発達させたことにより全国市場でも人気を博す。 一説によると、全国から来た藍商人により、各地の踊りが伝えられ、阿波踊りにも影響を与えたらしい。
ガラス張りのような壁をカーテンウォールという。 建物の重さは柱や梁で支えるため、間仕切りのための壁だ。 ただの間仕切りなので、風や地震に耐えれればよく軽くできる。軽くなれば建物自体の重さも減るのでより高くできる。 また、施工も工場で作られたパネルを貼るだけなので楽になる。
Armed services editionと銘打たれたペーパーバックは、大戦中需要が減っていた雑誌用の輪転機を転用し、効率的に生産された。 内容は全て既に作られた作品だが、様々な趣味を持つ米軍の兵士のために様々なジャンルの作品を採用。タイトルだけでも千を超える。 支給された兵士は仲間内で読み回した。
鹿児島県伊佐市菱刈地区は、江戸時代にも金の採掘が行われていた土地。 当時は出ないだろうと思われていた地層から鉱脈が発見された奇跡の鉱山。 特徴はなんといっても金鉱石の品位。 通常の鉱山は1トンの鉱石の中に数グラムしか金が含まれないのに対し、菱刈鉱山では平均約20グラムと超高品位だ。
内容に対するアンケートも取られ、兵士の需要に応えつづけた。 大戦後も駐留する米軍兵士への提供は続けられ、米軍が帰還するときには地元の人間に売られたり、捨てられたりすることとなるが、逆側から見れば、本来アメリカ国内で消費されていた文学作品などを大量に手にする機会ともなっていた。
そもそも当時の石炭は価格が高かった。 そしてなにより環境に悪い。 特に酸性雨の影響が叫ばれた時代。NOxやSOxの対応には石油火力より遥かに大規模な設備が必要となる。 だが石油一本でいいのか? 戦前の日本が石油輸入禁止で破滅の道へと加速したことも、当時の人間には鮮明な記憶だった。
長野県と新潟県に跨がる秘境、秋山郷。 冬は雪に閉ざされるため、酷道と呼ばれる国道405号以外でのアクセスは不可となる非常に交通の便が悪い場所だ。 平家の落人の里としても知られており、戦前測量で訪れた他所の者に対して「源氏はまだ栄えているか?」と聞いたという伝説があるほどだ。
情報にタダ乗りする輩が現れると、暗号通信の手段も発展した。 また、早すぎる伝達の規制や米飛脚の保護のために幕府から禁止されたこともあるが、禁止されていない地域を使ってやり取りが行われたという。 旗振り通信による情報を求める人は年々増え、後には定額通信制に移行したらしい。
淡路の農民車は1970年代、隣の徳島県を皮切りに瀬戸内の島々などの山がある地域に売り出した。 だが、普及はしなかった。 その頃には悪路を走れる軽トラが手に入りやすくなっていたし、山の上まで道が良くなったから農民車が必要なくなったからだ。 こうして淡路島だけガラパゴス的に農民車が残った
江戸中期、天明の大飢饉では特に東北地方の米が壊滅した。 現在の岩手県奥州市江刺区も餓死者が続出し経済が崩壊。 米以外の産業を興せないか? この地には、平泉文化が残した木工技術と、初代藩主·伊達政宗が残した派手好みな気質があった。 この2つを組合せて商品化したのが、岩谷堂箪笥だ。
彼が乾電池作りに情熱を注ぐキッカケにはあるエピソードがある。 現在の東工大の前身を受験する際に、町中の時計が狂っていて5分遅刻したため、受験できなかった。というもの。 当時の時計は手巻きのネジ巻式で、時間がズレることがあった。 これを改善したい。彼はそう決意したという。
岡山県笠岡市北木島。 瀬戸内海の小さな島だが、ここには日本とは思えない風景がある。 ここは石を切り出す石切場。品質の高い石を求めて下に掘り進んだ結果、高低差のある絶景ができた。 北木島の石は現存する日銀本店や三越本店などにも使われている歴史のある石。 まさに明治大正を支えた礎だ。
現代の唐揚げは戦前からあるが、一般家庭には普及するのは昭和30年代。ブロイラーの飼育が広がり、鶏モモ肉の価格が安くなったから。 日本初の唐揚げ専門店も同時期の大分県宇佐市で始まるが元々は居酒屋だった。 だが、お客さんがツケ払いをしまくった結果、現金がなくなり唐揚げ専門店になったそうだ
鉱山の中はトロッコではなくダンプが行き交い、効率的な採掘がなされている。 なおこの鉱山、金鉱石と同時に温泉が出まくるため、ポンプを使って麓の温泉地に送られる。 金と同時に出てきた温泉に浸かって黄金の国ジパングに思いを馳せてみてはどうだろう。 #にいがたさくらの小話 その57改
ブラジル原産の植物ガラナ。 それが彼らの結論だった。 そこからの動きは早かった。なにせコカ・コーラ上陸は待ってくれない。 ブラジル大使館との直接交渉や日系人などのツテを頼り統一ブランド『コアップガラナ』を開発。 1960年だった。 1961年コカ・コーラ輸入自由化にギリギリ間に合わせた。
モンゴル帝国の絶頂期、南の戦闘民族は海が苦手な元軍を海岸で迎え撃っていたが、樺太では、逆にアイヌの先祖達が元の属領を攻めた。 正確にはニヴフ(ギリヤーク)民族との紛争だが、バックにはモンゴル帝国がいたのだ。 帝国から差し向けられた正規兵を相手に、彼らは半世紀近くも交戦したという。
現在もわずかに農民車が作られているが、最近は部品が不足している。 電子制御が進んだエンジンは転用不可だし、中古車自体海外に輸出されているからだ。 だが、淡路島の農民車は文化。 最近は若者が独創的な農民車を作っているらしい。 時代は変わる。良くも悪くも #にいがたさくらの小話 その386
まだ現代のように交通が発達していない時代、庶民が旅行するのは高嶺の花。江戸から近い成田山だって二泊三日の旅程だ。 だが、各地で有名な秘宝·秘仏が公開されているのなら行ける!ってことで、人々が参加することに。 大規模イベントとなるため、イベント会社を雇い、段取りをやらせていたそうだ。
日露戦争の勝利は漁業にも大きく影響を与えた。カムチャッカ沿岸に大量の日本漁船が押し寄せたからだ。彼の地は鮭·鱒·蟹の好漁場。漁師は小説·蟹工船並に働き、獲りまくる。 ロシアがソ連になっても北洋漁業は繁栄を謳歌。海上の失地回復をしたいソ連は日本側にこう提案した。 「労働基準法を守れ」
日本海海戦で破れたロシア艦·イルティッシュ号は現在の島根県江津市沖に沈没した。 住民が乗組員を助けた逸話は語り継がれるが、この船にはもう一つの物語がある。 それは金。 航海日誌によると、バルト海からの航行中に大量の金を積み込んだというのだ。 この金塊探しに命を懸けた男がいる。
シヤチハタの創業者は元々、薬問屋で働いていた。 日々薬袋にハンコを押す仕事だが、当時のスタンプ台はすぐに乾き、都度補充が必要だった。 そこで塗料を改良した『万年スタンプ台』を作り1925年発売、一躍人気商品に。 だが、今我々が知る『シヤチハタ』はこの自社商品を否定することから始まった