にいがたさくら@小話する人(@monkey_across)さんの人気ツイート(リツイート順)

この時期、どの藩も多かれ少なかれ似たような偽造工作はしていた。 だが、大聖寺藩の贋金は群を抜いていた。 「大聖寺の小梅」と渾名がつくほど人気の銀貨だった。 作った贋金を基で元手に琵琶湖に蒸気船を導入するなど、独自の近代化を推し進めていた大聖寺藩だが、他藩からのやっかみを受ける。
四国三郎と呼ばれた吉野川は洪水をもたらした。治水技術が未発達の時代には、台風シーズンによく決壊し、収穫前の米に打撃を与えた。一方藍なら台風前に収穫ができる。平和な時代には商品作物の需要は高い。 ちなみに「筑紫次郎」の筑後川流域でも藍栽培をしており、久留米絣という染物が発達した。
一般道国内2位の道路は新潟市にある新潟バイパスだ。 1970年より順次開通していったが、計画当時は否定的な声が多かった。 「新潟みたいなクソ田舎にこんな高規格な道路が必要あるのか?」 だが、北陸地方建設局は交通量増を確信し、当時の建設省を説き伏せて建設。 今や新潟市の大動脈となった。
つまり感情的な物言いをしている奴。お前は理系でも文系でもねーよ。文系を語るな
皆さん、長澤まさみの初主演映画をご存知でしょうか? 答えはもちろん、世界の中心で……はなく、映画ロボコンです。 高専ロボコンを題材にした映画で、長澤まさみだけでなく、小栗旬や塚本高史、伊藤淳史など、その後の芸能界でも活躍したメンバーたちが出演している。 興行収入?そんなもん知らん
同じ発想は大手メーカもしていた。今は世界的重機メーカとなっているコマツだ。 コマツは昭和35年、農作業と街乗り両方ができる車をコンセプトに世界的デザイナーを据えて生産した。 だが街乗りには普及せず、トラクターのほうが便利だったためなのか、わずか2年4300台を生産しただけで終わった。
『黒糖焼酎』を作れるのは、奄美諸島だけ。 これは、奄美諸島独特の文化として酒税法上の特例を認められているからであり、奄美以外で作るとラム酒と同じスピリッツに分類される。 奄美諸島で黒糖焼酎の文化が花開くのは、1945年~1953年の米軍統治時代。 黒糖が日本本土に出荷できなくなってからだ
日露戦争以前、長崎にはロシア軍の保養地があり、越冬しに来るロシア人で賑わっていた。 そんな場所で、必死にロシア語を身につけ、美貌と度胸を武器にホテル経営で財を成したのが、稲佐のお栄(道長栄) ロシア軍の士官からマーチ(ママ)と呼ばれて愛され、高級将校や皇太子の接待も任されたのだという
仁摩町の砂浜の砂は粒度が大きかった。 粒が大きいため、何十トンもの砂が必要となり非現実的だ。 そこで、日本で最も粒が細かい場所へ向かった。そこは旧日本軍が風船爆弾に搭載する用の砂時計の材料ともなった浜。実績は十分だった。 だが、そこはリゾート開発されており、砂がなかった。
粉を振りかけるから粉を埋め込む方式、菌糸自体の純粋培養など技術も進歩した。 昭和17年に発明された種駒によって栽培方式が完全に確立。 種駒の開発者もガチャ爆死した農夫を憂い開発を志したという。 美味しい椎茸の裏には悲しい爆死の歴史があったのだ。 #にいがたさくらの小話 その268椎茸·後編
今でこそ主力だが、オイルショック前の石炭火力発電所はバカにされていた。 石油が圧倒的に安く、環境影響が叫ばれた時代。価格が高くNOX,SOX対策が必要な石炭火力は価格勝負にすらならない程。ましてや石炭を輸入しての火力は想定外。 日本初の大規模海外炭火力はそんな逆風の中で検討されていた。
震災前からこの問題は言われていたが、震災で表面化した 通常と異なり、現場に来ているのは全国各地からの医者 地元の方言は理解できても、東北方言はわからない 現場のニーズに即応するように2011年9月には試作1版、2011年11月には試作2版が完成 現場の声を反映しつつ2012年3月に完成版ができた
北東北の冬は、雪に閉ざされる。 特に日本海側は晴れる日がないため、他の地域で当たり前にやっていた天日干しができなかった。 かわりに、囲炉裏の上で大根漬けを干す。 これが、いぶりがっこのルーツだ。 元々自家消費品なので、囲炉裏が廃れて薪ストーブが普及すると、自然消滅へと向かった。
だが明治後期を境に化学合成された安価な藍に押され、昭和中期には最盛期の1万分の1にまで減少。現在は天然素材が持つ色合いと伝統で徐々に回復している。 世界的にも特殊な製造方法の藍だが、高価なため輸出実績はないらしい。 ジャパンブルーの未来に期待したい。 #にいがたさくらの小話 その228
江戸時代までの米は、藩により厳しく管理されていた。 大事な年貢だからだ。 各藩毎に標準を定め、ある程度の米俵の規格化がなされていた。 しかし、年貢が金納に変わると管理がなくなり、売買する者たちに委ねられ、次第に安価な梱包方法に変わっていく。 函館で廻船業を営む遠藤吉平はこれを憂いた
全国清涼飲料協同組合は、コカ・コーラの味を知っていた。 戦前から細々と輸入されていたし、戦後の進駐軍も愛飲していたからだ。 故に危機感がめちゃくちゃあった。 当時から世界的に普及していたコカ・コーラだが、ブラジルでは苦戦していたことを知る。 ガラナとの出会いは、そこから始まる。
きのことは菌であることは、現代では当たり前の知識だが、西洋科学によって齎されたもの。 椎茸の産地である山の中までは西洋科学は伝わらなかった。新潟県中越の山の中で椎茸栽培を志していた田中長嶺も情報を得るために上京。 内務省に掛け合い、東京帝国大学の研究室に出入りをし、研究に没頭した。
カレーと出会ってから、福神漬は変わってしまった。 元々茶色が主流だったが、茶色いカレーに合うように赤く変化。 味もカレーのパンチに合わせて甘くなる。 こうして福神漬はカレーの添え物に特化してゆく ちなみに福神漬発祥の店は現存しており、こちらの福神漬は特化する前なので何にでも合う。
そして極めつけは毎年6月の第一日曜日に行われるキリスト祭り。 キリストの墓の周りを囲んで盆踊りを踊るというすごくシュールなイベントだ。 (2019~22年はコロナで中止) ちなみに神事として行われるため、神主による祈祷や玉串奉奠、獅子舞なども行われる。 もはや、ツッコんだら負けだ。
幕末の日本は鉄を欲した。大砲作りに必要不可欠。 だが、伝統製法のたたら製鉄では絶対数が不足。 そこでオランダの書物を基に、鉄鉱石を原材料として高炉を用いた銑鉄法を日本でやる計画を立案。 鉄鉱石の場所も発案者の大島高任は知っていた。 そこは現在の岩手県釜石市。鉄の町の始まりである
終戦後、どの業界も壊滅したが、特に船会社は苛烈を極めていた。 メーカーなら壊れた機械を修理して日用品を作れるし、商社ならそれを売り歩ける。 だが船がなければ船会社は成り立たない。 復員してくる社員の生活を考えている最中での踏み倒しだ。 連合国の思惑で、会社存続の危機の船会社もあった。
半年もの間難破し、辿り着いたカムチャツカでは、ロシアの下っ端軍人に痛い目に遭う。 17名の乗組員のうち、助かったのは2名。ゴンザとソウザだ。 積荷のうち目ぼしいものは全て奪われ、ヤクーツクをへてモスクワへと送られる。 まだ若かったゴンザはこのときに必死でロシア語を覚えたのだという。
こうして完成した砂時計は砂暦と名付けられ、サンドミュージアムに設置。 後に、漫画やドラマ、映画の舞台になるなど、大田市仁摩町を代表する施設として成長。 2016年にはギネスにも認定された。 完成から32年。砂時計は現在も、町の風景の一部として時を刻んでいる #にいがたさくらの小話 その390
人材しか残っていない船会社だったが、海運のノウハウを担保に金を借り、船を作った。 安定的な需要がある輸送契約のチャーター代を担保に金を借りたのだ。 また当時の日本の海運会社には国際的信用があった。戦時中に停止されていた各航路の船会社の同盟に復帰させるための交渉力を持つ人材もいた。
戦後シアトルに戻った日系人は米国社会に完全に溶け込んだが、現在でも宇和島屋という北米最大の日本食スーパーの本店があるなど、日本との関係は深い。 ちなみに、かつてシアトル・マリナーズに在籍していた城島健司も移籍の決め手はこの宇和島屋だったそうだ。 #にいがたさくらの小話 その286