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この時期、どの藩も多かれ少なかれ似たような偽造工作はしていた。
だが、大聖寺藩の贋金は群を抜いていた。
「大聖寺の小梅」と渾名がつくほど人気の銀貨だった。
作った贋金を基で元手に琵琶湖に蒸気船を導入するなど、独自の近代化を推し進めていた大聖寺藩だが、他藩からのやっかみを受ける。
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四国三郎と呼ばれた吉野川は洪水をもたらした。治水技術が未発達の時代には、台風シーズンによく決壊し、収穫前の米に打撃を与えた。一方藍なら台風前に収穫ができる。平和な時代には商品作物の需要は高い。
ちなみに「筑紫次郎」の筑後川流域でも藍栽培をしており、久留米絣という染物が発達した。
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つまり感情的な物言いをしている奴。お前は理系でも文系でもねーよ。文系を語るな
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仁摩町の砂浜の砂は粒度が大きかった。
粒が大きいため、何十トンもの砂が必要となり非現実的だ。
そこで、日本で最も粒が細かい場所へ向かった。そこは旧日本軍が風船爆弾に搭載する用の砂時計の材料ともなった浜。実績は十分だった。
だが、そこはリゾート開発されており、砂がなかった。
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粉を振りかけるから粉を埋め込む方式、菌糸自体の純粋培養など技術も進歩した。
昭和17年に発明された種駒によって栽培方式が完全に確立。
種駒の開発者もガチャ爆死した農夫を憂い開発を志したという。
美味しい椎茸の裏には悲しい爆死の歴史があったのだ。
#にいがたさくらの小話 その268椎茸·後編
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震災前からこの問題は言われていたが、震災で表面化した
通常と異なり、現場に来ているのは全国各地からの医者
地元の方言は理解できても、東北方言はわからない
現場のニーズに即応するように2011年9月には試作1版、2011年11月には試作2版が完成
現場の声を反映しつつ2012年3月に完成版ができた
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だが明治後期を境に化学合成された安価な藍に押され、昭和中期には最盛期の1万分の1にまで減少。現在は天然素材が持つ色合いと伝統で徐々に回復している。
世界的にも特殊な製造方法の藍だが、高価なため輸出実績はないらしい。
ジャパンブルーの未来に期待したい。
#にいがたさくらの小話 その228
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全国清涼飲料協同組合は、コカ・コーラの味を知っていた。
戦前から細々と輸入されていたし、戦後の進駐軍も愛飲していたからだ。
故に危機感がめちゃくちゃあった。
当時から世界的に普及していたコカ・コーラだが、ブラジルでは苦戦していたことを知る。
ガラナとの出会いは、そこから始まる。
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きのことは菌であることは、現代では当たり前の知識だが、西洋科学によって齎されたもの。
椎茸の産地である山の中までは西洋科学は伝わらなかった。新潟県中越の山の中で椎茸栽培を志していた田中長嶺も情報を得るために上京。
内務省に掛け合い、東京帝国大学の研究室に出入りをし、研究に没頭した。
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終戦後、どの業界も壊滅したが、特に船会社は苛烈を極めていた。
メーカーなら壊れた機械を修理して日用品を作れるし、商社ならそれを売り歩ける。
だが船がなければ船会社は成り立たない。
復員してくる社員の生活を考えている最中での踏み倒しだ。
連合国の思惑で、会社存続の危機の船会社もあった。
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半年もの間難破し、辿り着いたカムチャツカでは、ロシアの下っ端軍人に痛い目に遭う。
17名の乗組員のうち、助かったのは2名。ゴンザとソウザだ。
積荷のうち目ぼしいものは全て奪われ、ヤクーツクをへてモスクワへと送られる。
まだ若かったゴンザはこのときに必死でロシア語を覚えたのだという。
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こうして完成した砂時計は砂暦と名付けられ、サンドミュージアムに設置。
後に、漫画やドラマ、映画の舞台になるなど、大田市仁摩町を代表する施設として成長。
2016年にはギネスにも認定された。
完成から32年。砂時計は現在も、町の風景の一部として時を刻んでいる
#にいがたさくらの小話 その390
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人材しか残っていない船会社だったが、海運のノウハウを担保に金を借り、船を作った。
安定的な需要がある輸送契約のチャーター代を担保に金を借りたのだ。
また当時の日本の海運会社には国際的信用があった。戦時中に停止されていた各航路の船会社の同盟に復帰させるための交渉力を持つ人材もいた。
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戦後シアトルに戻った日系人は米国社会に完全に溶け込んだが、現在でも宇和島屋という北米最大の日本食スーパーの本店があるなど、日本との関係は深い。
ちなみに、かつてシアトル・マリナーズに在籍していた城島健司も移籍の決め手はこの宇和島屋だったそうだ。
#にいがたさくらの小話 その286