にいがたさくら@小話する人(@monkey_across)さんの人気ツイート(リツイート順)

千葉県の人って、チーバくんに例えて自分の住んでる場所を言うらしいんだけど、富津市の人って何って言うんだろう。
アメリカに工場を作ったら次はヨーロッパ、そしてアジアへと展開。 大事にしているのは今でも、地元料理に溶け込むこと。和食が世界に普及した今でも、その地域に愛されることが、普及のカギだという。 調味料は主役ではない。 地元料理が主役なのだ。 #にいがたさくらの小話 その168醤油輸出·後編
小さいとはいえ大聖寺藩は加賀百万石の支藩。 芸術を重んじる藩の中には、金属細工が上手い下級藩士が居た。 彼は金銀の何たるかを熟知しており、商人や協力者を仰げるネットワークも持っていた。 ちなみに浸けた温泉は、現在の山代温泉である。 これにより大阪や新潟等の本場の商人さえも騙せた。
オノマトペ(擬音語、擬態語)は状態や気持ちを表すことが多い 医療で必要な語彙である気持ちや状態を表すものは、名詞と違って標準語への置き換えが難しい 例えば「胸がどやっとする」と言われて、「どやっとするとは標準語ではどういいますか?」と聞いても、患者は答えに窮するだけだろう
コカ・コーラを心待ちにしていた道民も愛想を尽かし、ガラナを飲む。 こうして北海道に定着したガラナは、3年後のコカ・コーラ上陸以降も生き残れたのだ。 当時の思いが現代まで受け継がれているかはわからないが、ガラナは今日も北の大地で飲まれている。 #にいがたさくらの小話 その163改
霊場·恐山 元々はローカルな信仰の場であり、他の有名霊場と比べれば歴史は深くなく、発展するのは江戸時代から それ故、霊場としての固定観念が薄く、様々な文化や民間信仰を柔軟に受け入れ発展した 例えば、有名なイタコは恐山の寺(曹洞宗)の教えと一切関係ないが、追い出したりせずに共存していた
第一次世界大戦。日本は1ヶ月半ほどでドイツの植民地軍を破り、ドイツ軍約5千人を捕虜にした。 欧州での戦闘が長引いたため彼らは長期に渡り日本国内各地に収容された。代表的なのは徳島県の板東俘虜収容所だ。 日本で初めてベートーヴェンの第九を全曲演奏したのも徳島県のドイツ人捕虜たちだ。
彼の業績は、戦前日本では立身出世の人、戦後日本では日米友好の父として讃えられた 米国でも彼を讃える施設ができた程だが、近年は彼の業績を知る者も減っている ちなみに真偽不明だがポテトヘッドは彼がモチーフらしい 彼は形を変えて現代でも愛されているのだろう #にいがたさくらの小話 その398
辛子明太子のルーツは朝鮮半島。 明太(スケトウダラ)の魚卵漬けがルーツで、戦前には朝鮮在住日本人にも親しまれていた。 戦後日本人が、明太魚卵漬けを韓国から取り寄せるが、韓国人が韓国人のために作った明太魚卵では辛すぎた。 それを、日本人向けに改良したのが福岡名物、『辛子明太子』だ。
淡路島は神戸や大阪などの都会に近いため、スクラップ部品が手に入りやすかった。 無骨な作りだが、農家の要望にダイレクトに応えれたため、実用性は極めて高かった。 農家の要望に合わせてオーダーメイドで作るため、すべて一点物だ。もちろん設計図などない。 ちなみにナンバーも取得できる。
明治初期から戦前にかけて、赤道にほど近いオーストラリア北部の海へ出稼ぎを行っている日本人が大勢いた。 彼らは、白蝶貝採取を生業にした男たち。 特に莫大な収入が得られるダイバーは花形。 潜水病や潜水中の事故による死亡率が高かったが、故郷へ錦を飾るため水深50m以上の深さへ潜ったという。
ベトナムを愛している ホンダベトナムのスローガンだ。 大量のシェア獲得後も、ベトナムに寄り添った。 排ガス処理や車種の拡充、社会貢献により、ベトナムを愛した。 欠点は見た目がダサいと思う派がいるくらいで、そういう層はヤマハを買っている。 日本と同じだ #にいがたさくらの小話 その371
デコり出したら止まらない。競うようにデコりまくる。そんなデコトラと愛川欽也は高速道路で出会う。 衝撃を受けた彼は東映に企画を持込み、『映画·トラック野郎』シリーズが生まれる。 トラック野郎シリーズが大人気になったことにより、デコトラが更に普及。 しかし、警察は快く思わなかった。
昔は大学の合格発表は紙で貼り出されるスタイルだった。そのため、遠隔地に住む受験生は合格発表を見れず、通知が郵送されるまで待ち焦がれていた。 そこで、大学の近所に住む学生が受験生からお金を取って代わりに見て、合否を電報するサービスを始める。 合格の時の電文の言葉は、サクラサクだ。
幕末の長崎には女傑と言われた大商人がいた。 彼女の名は大浦慶。お慶さんだ。 江戸が黒船にビビってる時期、彼女はオランダを通じて諸外国に茶のサンプルを贈り、巨額の受注を受けて財を成した。 ちなみに彼女は、迎えた婿が気に入らず、祝言の翌日に追い出してしまったという逸話を持つ女傑だ。
会津藩は戊辰戦争後に消滅するが、様々な尽力により再興を許される。 その場所は会津から離れた、青森県下北半島。ヤマセで作物が実らない極寒の地。豊穣の会津盆地から見れば異世界だった。 耐え忍ぶことを美徳とする会津武士達でも大半が逃げ出す程の絶望的な環境でも彼らは懸命に生き延びた。
アメリカから持ち帰ってきた特別高圧用のがいしを基に解析し、形、釉薬の研究を行い、国産の高圧用がいしを完成させる。 だが売り込みには苦戦した。不良品率が高かったのだ。 職人の腕のみに頼っていては、安定した製品が作れない。 製法を見直し、品質の向上に努め、海外製がいしを追い抜いた。
日本の旧暦は太陰太陽暦というタイプで、月の満ち欠けによって月が決まる。 1年は地球の公転周期とズレるため、数年に一度1ヶ月分『閏月』を入れて公転周期と合わせている。 閏月を入れる箇所には西洋天文学を採り入れたルール(天保暦)があるが、2033年はうまく決まらない これを旧暦2033年問題という
醤油は日本料理のもの、という概念を捨て去り、新しいソースとしてアメリカで売る。 最初は訝しんだアメリカ人のために現地の料理系文化人などに醤油を使ってもらい醤油を使ったアメリカ料理がどんどんレシピ化され、ジワジワと普及する。 その後醤油はホームパーティーでのバーベキューまで浸透する。
戦前の南米ペルーには「綿花王」と呼ばれた日本人がいた。 彼の名は岡田幾松。 小学校中退の彼は、21歳のとき広島県から移民1世としてペルーに行き、大農園の過酷な労働条件下で頭角を現す。 変化する時代にチャンスを見出し、男気と度胸で事業を拡大し、多くの日本人·ペルー人を従える王となった。
コカ・コーラは正に王者だった。 本格的に輸入が始まると、コアップガラナは各地で窮地に立たされた。 ギリギリ間に合わせたガラナでは、人々に定着する前に剥がされてしまったからだ。 だが、北海道にはコカ・コーラはやってこなかった。当時の物流の関係上、後回しにされたのだ。
北海道伊達市は戊辰戦争で負けた仙台藩亘理領の旧武士たちが開拓した街。殿様自ら集団を率い移住し、農業に従事した。 苦労の末、開拓に大成功した旧家臣団だったが移住から15年、若い世代は元々武士だったことを知らないことに気付く。 そこで、武者行列を行う祭りを始めた。 伊達武者祭りの起源だ
梱包とは、商品の価値をも向上させる物。 それにいち早く気づき、生涯を賭して人々に伝えたことに彼の功績はある。 ちなみに現在、米俵の内容量は60kg(4斗)だが、これはこのときの運動の中で、次第に統一されたもので、今の米袋(30kg)にもつながっている。 #にいがたさくらの小話 その392
マラッカ海峡は狭くそして浅い。人間サイズでは問題ないが、大型タンカーには致命的。水深22.5mの浅瀬があり、それを安全に超えれるサイズが求められるのだ。 パナマ、スエズを超えれる最大サイズをパナマックス、スエズマックスというが、マラッカ海峡を超えれる最大サイズはマラッカマックスという。
その概要は、 関東、東北で戦闘が続いている中、江戸を抑えないのはよくない。 大阪は物流的に有利だが、今後は蒸気船の時代。大した利点にはならない。 大坂には政府が使える施設は少ないが江戸では諸藩邸が流用できる。 江戸は政治都市。政治から分離されればインフラが無駄になる。 といったもの