細かいところを見ると、昭和初期には無くなっていた文化などを紹介しているが、大枠は見事に捉えており、欧米人にとって、理解不能だった日本人の考え方を恥の文化という言葉を使って理解可能な物に変化させたところが特徴だ。 後に菊と刀という題で一般にも出版され、直後に日本研究の古典となる。
この報告書No.25が太平洋戦争や戦後政策に直接齎したものは不明だが、影響は多分にあるだろう。 また、文化には優劣はなく、タイプが異なるだけだという見方が一般に広まる契機にもなった。 文化とは相対的なものなのだ。という例として菊と刀を見てほしい。 #にいがたさくらの小話 その290
明治後期、北海道開拓が進むと開拓物資の搬入港、北海道産石炭の積出港としての小樽港湾の需要が高まるが、冬季の日本海は荒波。 そこで当時の最新技術を集め試験·研究し、日本初のコンクリート製外洋防波堤を建設した。 現在も現役の防波堤だ。 なお経年劣化をみる耐久試験は現在でも継続中だ。
戦前、世界第三位だった日本商船隊は第二次世界大戦で徴用され、殆どは喪失した。 戦後の政府は、船のレンタル料や補償金などの権利に100%の税金をかけた。つまり、踏み倒したのだ。 金も船もない船会社。残ったのは人だけ。 だが、人が持つノウハウを元手に日本の商船隊は奇跡の復興を成し遂げる。
終戦後、どの業界も壊滅したが、特に船会社は苛烈を極めていた。 メーカーなら壊れた機械を修理して日用品を作れるし、商社ならそれを売り歩ける。 だが船がなければ船会社は成り立たない。 復員してくる社員の生活を考えている最中での踏み倒しだ。 連合国の思惑で、会社存続の危機の船会社もあった。
人材しか残っていない船会社だったが、海運のノウハウを担保に金を借り、船を作った。 安定的な需要がある輸送契約のチャーター代を担保に金を借りたのだ。 また当時の日本の海運会社には国際的信用があった。戦時中に停止されていた各航路の船会社の同盟に復帰させるための交渉力を持つ人材もいた。
こうして日本商船隊は再建を果たし、1969年には英国商船隊を抜くほど復興を遂げる。 現在でも日本の商船隊は世界三位のシェアを持つほどの存在だ。 人は宝。政府に裏切られても強い組織を作ることが大切なのかもしれない。 #にいがたさくらの小話 その292
北海道産の農産物は美味しいものばかりだが、昭和時代、米だけは不味かった。 北海道は寒冷地。そんな土地でも育つように品種改良した結果、味が犠牲になり、米屋から『やっかいどう米』と呼ばれていた。 稲作を諦める農家も出る中、大幅に風味を改善した北海道米が登場した。 それが、きらら397だ。
有明海は遠浅で干満差が大きい。 明治時代には沿岸の福岡県大牟田市では炭鉱で栄えるが、大型船が入れず積出が追いつかない状況に。 そこで当時の三井財閥は大型船が停泊できるよう、パナマ運河みたいに閘門を開閉して水位を調整できる港、三池港を建設した。 ちなみに百年以上経った現在でも現役だ。
北海道長万部町·国縫(くんぬい)漁港。 人工島へは橋で行き来するためワイングラスのような形となる。島式漁港という方式で、日本では国縫漁港が初。 この形の理由は、波の力によって運ばれてくる砂が漁港内になるべく溜まらないようにするのと、近隣の海浜への影響を最小限にするためだ。
炎上商法と焼畑農業、名前は似ているが全く違うものだ。 双方とも環境の悪化を無視して畑を燃やし、一度きりの収穫を狙うようなイメージを持つ人も多い。 だが伝統的な焼畑農業は、地域の自然特性をうまく利用して肥料や農機を使わず労働生産性を高められる循環的な農業。 遅れた農法というのは偏見だ
一般に焼畑農業は熱帯地域に多いが、現在の日本でも行われている。 焼く理由は複合的だが、土壌改良や地力の回復、強害雑草の効率的な除去など多様であり、地域によって期待する効果が異なる。 英語ではhifting cultivationなので焼くことは本質ではなく休閑が本質。なので、焼かない焼畑もある。
だが伝統的焼畑農耕は環境破壊の悪者にされた。 プランテーションを作るために森を焼く行為を焼畑だと勘違いされたり、当時研究が進んでいなかったりしたためだ。1980年には国連の機関が熱帯林の減少を焼畑農耕によるものと書いたことも影響し、今では否定されているにも関わらず悪者イメージが残る。
最近は日本では焼畑が復活しているところも多い。 焼畑は肥料や農機が不要で、伐採・火入れの時期以外はそんなに人手もかからないメリットがあり、山間部の農業として見直されている。 日本には焼畑に纏わる伝統文化も継承している地域もある。 今、焼畑がアツい! #にいがたさくらの小話 その54改
第二次世界大戦中の米軍は広く遠い戦線に兵隊を送り込んだが、兵士は不満だった。 移動時間が暇すぎる。 戦地に着く前に不満が爆発してしまうことを懸念した軍は、累計1億冊以上の本を支給するプランを策定。 内容も戦意高揚のようなカタい話ではなく、娯楽小説がメイン。 ポケットサイズの暇潰しだ。
Armed services editionと銘打たれたペーパーバックは、大戦中需要が減っていた雑誌用の輪転機を転用し、効率的に生産された。 内容は全て既に作られた作品だが、様々な趣味を持つ米軍の兵士のために様々なジャンルの作品を採用。タイトルだけでも千を超える。 支給された兵士は仲間内で読み回した。
内容に対するアンケートも取られ、兵士の需要に応えつづけた。 大戦後も駐留する米軍兵士への提供は続けられ、米軍が帰還するときには地元の人間に売られたり、捨てられたりすることとなるが、逆側から見れば、本来アメリカ国内で消費されていた文学作品などを大量に手にする機会ともなっていた。
英語圏の人々や非英語圏の知識人層への影響は計り知れない。 冷戦期のアメリカは自国の文化を売り込むのに躍起になっていたが、このときに意図せず齎した大量の安価な本が売り込まれた国のアメリカ文化の受容に一役買ってるのかもしれない。 安価な本と侮るなかれ。 #にいがたさくらの小話 その295
日付変更線は経度180度とピッタリは一致していない。 ロシアやアラスカは本土と同じ日付にするために仕方ない感があるが、太平洋諸島はかなり複雑な形。 日付変更線を跨ぐと月曜が日曜になり、土曜が金曜になるため、ビジネスがやり辛い。 付き合いの多い国にあわせて日付変更線をずらしているのだ。
福岡県筑後市には鎌倉時代から続く恋愛成就の神社がある。 他の恋愛成就系神社と違い、恋愛に特化しており、全国で唯一、恋愛専門の神様『恋命』のみを祀っている神社だ。 ちなみにハートマークのようなものは、この神社の御神紋(神社の紋章)で古来からの伝統の形。西洋文化に合わせたわけではない。
香川県の塩飽諸島笠島にマッチョ通りという通りがある。 この島には昔からマッチョが住み着いており、中世には海賊として、近世には大工として活躍したマッチョたちを称えてこのような名前になった。 というのは嘘で、町通りが訛ったというのが定説。 とはいえ、マッチョも大歓迎。 パワー!!
みんなはどの将棋が好きかな?
江戸初期、オランダ東インド会社との交易をしていた幕府だが、日本からの主力商品は鉱物資源だった。 初めは銀だったが資源が枯渇したため、代わりに金を輸出商品に組込む。 小判の形で。 輸出された小判の一部は東インド会社の刻印を打ち、そのままオランダ植民地内での通貨として使っていた。
岡山県笠岡市北木島。 瀬戸内海の小さな島だが、ここには日本とは思えない風景がある。 ここは石を切り出す石切場。品質の高い石を求めて下に掘り進んだ結果、高低差のある絶景ができた。 北木島の石は現存する日銀本店や三越本店などにも使われている歴史のある石。 まさに明治大正を支えた礎だ。
千葉県の人って、チーバくんに例えて自分の住んでる場所を言うらしいんだけど、富津市の人って何って言うんだろう。