日本一高い空が見える場所といえば、富士山山頂なのは日本人であればほぼ全員知っているだろう。しかし、日本一低い空が見える場所をご存知だろうか? 答えは青森県八戸市の『八戸キャニオン』で海抜マイナス170m。 ここは現在稼働中の現役の石灰石採掘場なので、日に日にさらに深くなっているのだ。
2004年。テレビ局の取材を受けた大阪の中堅洗剤メーカは炎上した。 パーム油のプランテーションで東南アジアの熱帯雨林が減少したことに関する『悪玉』として使われたからだ。 パーム油の主な使用先は食品産業。自社での使用を止めても世界は変わらない。 そこで熱帯雨林を守る取組を行うことに。
宝石類の単位は歴史的な経緯があってSI単位のキログラムではなくカラットを使うことが多い。 だが、真珠の重さの単位は違って、もんめを使う。 これは、明治期の日本で世界初の真珠の量産養殖化を成功させ、天然真珠の既得権益者と戦い、養殖真珠は本物であると、世界に認めさせて事業化できたからだ。
島根県奥出雲町の棚田は、1枚1枚が大きい。 これは奥出雲町の基幹産業だった、たたら製鉄の材料である砂鉄を取るために山を切り崩し続け、その跡地を棚田として利用したからだ。 ちなみに一部古墳のように盛り上がっている場所は、神社や墓などの神聖な場所で、そこだけ切り崩さなかった名残だ。
明治時代、来日した欧米人に「ジャパンブルー」と言われるほど人々は藍色の服を着ていた。 抗菌性のない木綿を着るには、抗菌性の優れた藍染をしなければ清潔を保てなかったからだ。 日本では藍の染料の栽培場所は限られ、徳島県吉野川流域などで主に栽培されていた。 暴れ川の近くが適地だからだ。
四国三郎と呼ばれた吉野川は洪水をもたらした。治水技術が未発達の時代には、台風シーズンによく決壊し、収穫前の米に打撃を与えた。一方藍なら台風前に収穫ができる。平和な時代には商品作物の需要は高い。 ちなみに「筑紫次郎」の筑後川流域でも藍栽培をしており、久留米絣という染物が発達した。
洪水によって肥沃な土が流れ込み、連作障害を起こす藍を連作できるのも強みだった。 徳島藩は藍を特産品として品質向上に努め、加工技術を発達させたことにより全国市場でも人気を博す。 一説によると、全国から来た藍商人により、各地の踊りが伝えられ、阿波踊りにも影響を与えたらしい。
だが明治後期を境に化学合成された安価な藍に押され、昭和中期には最盛期の1万分の1にまで減少。現在は天然素材が持つ色合いと伝統で徐々に回復している。 世界的にも特殊な製造方法の藍だが、高価なため輸出実績はないらしい。 ジャパンブルーの未来に期待したい。 #にいがたさくらの小話 その228
日本で唯一「電車」が走っていない都道府県、徳島県。汽車しかない徳島県では、その理由を説明する「伝説」がある。 徳島県の霊山・剣山にはユダヤの失われし聖櫃(アーク)が収められており、四国を回るお遍路さんにより作られた結界を「電車」が壊してしまうというものだ。 って徳島新聞も言ってる。
第一次世界大戦。日本は1ヶ月半ほどでドイツの植民地軍を破り、ドイツ軍約5千人を捕虜にした。 欧州での戦闘が長引いたため彼らは長期に渡り日本国内各地に収容された。代表的なのは徳島県の板東俘虜収容所だ。 日本で初めてベートーヴェンの第九を全曲演奏したのも徳島県のドイツ人捕虜たちだ。
鳥取県には一番危険な国宝がある。その名も投入堂。 断崖絶壁の岩の上にあり、更に上には岩が張り出しており、現代でもどうやって作ったのか不明だ。 手前に辿り着くにも岩登りを含む険しい登山が必要で、中に入るには崖をよじ登って行くしかないが、滑落の危険性があるので、中に入るのは原則禁止だ。
和歌で知られる吉野山の桜は明治初期、危機に瀕していた。 廃仏毀釈で多くの寺院が廃寺になり、観光客が激減した吉野では、桜を薪として売る計画が進められていたからだ だがそれを買い戻したのが林業王・土倉庄三郎だ。 「いずれ日本には外国人観光客が来る。その時のために吉野山の桜は残したい」
現代の唐揚げは戦前からあるが、一般家庭には普及するのは昭和30年代。ブロイラーの飼育が広がり、鶏モモ肉の価格が安くなったから。 日本初の唐揚げ専門店も同時期の大分県宇佐市で始まるが元々は居酒屋だった。 だが、お客さんがツケ払いをしまくった結果、現金がなくなり唐揚げ専門店になったそうだ
愛媛県四国中央市。 紙幣と切手以外の紙製品は何でも作れると豪語する日本一の紙の街。 この地域は元々和紙の街だが、歴史は江戸中期頃からと後発で、かといって北海道のように域外からの大規模な資本投下でできたわけでもない。 新技術を導入·探求し続けることで紙産業を発展させてきたのだ。
生物多様性の観点からは、どんな生物も保護すべきだが、人間に害を与える生物は撲滅してきた。 代表的な例は日本住血吸虫症と中間宿主・ミヤイリガイだ。 かつては関東~九州北部に広く分布していたが、現在のは山梨県等の狭い地域にしか存在しない。 絶滅した筑後川流域では、供養の碑が建てられた。
日本の大都市の起源は例外を除けば、戦国末期~江戸時代に成立したものが多い。これは治水技術の発達により沖積平野が開発できたから。 農業も同じでそれまで開拓不可の平野部を開発しまくるが、18世紀になると頭打ちに。 だが農民は生産性を向上させたい。 そこで彼らが取った策は『勤勉になる』だ。
世界遺産。国連の下部組織であるUNESCOが『顕著な普遍的価値』を認め登録された場所のことだ。登録後も顕著な普遍的価値を守る活動を義務付けられる。 守らなければ登録抹消で、実際に抹消された例が3つある。 その一つがドイツのドレスデン・エルベ渓谷だ。 抹消された理由は、川に橋を作ったから。
ブラジル高原・セラード。 ポルトガル語で閉ざされたという意味を持ち、灌木がまばらに生える不毛の地。 逆に言えば、日本の5.5倍の面積の未開拓地だった。 そこで日本は1979年からブラジル政府と共同し、日本の技術力・資金を使って、大規模開発を始めた。 理由は、安い豆腐を食べたかったからだ。
プロ野球などで使われる木製バットの材質は北米からの輸入木材もあるが、日本では国産木材のアオダモがよく使われている。 特に寒冷地で育ったアオダモは軽くて反発力があり強靭なので北海道産は最高級品だ。 トッププロ達も愛用していたが、最近は入手困難だという。 資源枯渇したからだ。
野球のバット以外にも昔はテニスラケットやスキー板などに使われていたアオダモ。 1本からプロ野球用のバットなら8本しか作れない上に、プロ野球用に使える強度になるには70年もの長い年月が必要。 需要が急増した1980年代に一気に枯渇へ向かう。 今は野球界、林業界が一丸となって植林を行っている。
干し椎茸は乾物大好き古代中国人の発明。 伝説では9世紀に弘法大師が椎茸を干す文化が伝播したという。 その後は全く不明だが、鎌倉時代には中国に市場を形成するレベルで輸出していた。 一説によると、当時の中国産椎茸は香りが長続きしないため、相当の輸入コストを払っても日本産を買い求めたという
明治時代、椎茸は松茸の10倍の値段する高級品。 当時の椎茸採取方法は榾木に鉈で傷付け、シイタケ菌が着くのを待つガチャ方式で、菌が付着せずに爆死する者もいた。 安定して生産したいが、西洋には椎茸がないので資料はない。 しかも江戸時代までの日本人は、きのことは何かすら理解していなかった。
きのことは菌であることは、現代では当たり前の知識だが、西洋科学によって齎されたもの。 椎茸の産地である山の中までは西洋科学は伝わらなかった。新潟県中越の山の中で椎茸栽培を志していた田中長嶺も情報を得るために上京。 内務省に掛け合い、東京帝国大学の研究室に出入りをし、研究に没頭した。
当時最新鋭だった顕微鏡や海外のマッシュルーム栽培などの研究を参考にし、遂に安定した人工栽培方法を確立。 菌糸が蔓延している榾木を粉にして原木に振りかけるという方法だ。 だが椎茸の産地は山間部。手間も技術も必要なこの方法はすぐには広まらなかった。 だが彼の研究は後の研究の下敷きになる
粉を振りかけるから粉を埋め込む方式、菌糸自体の純粋培養など技術も進歩した。 昭和17年に発明された種駒によって栽培方式が完全に確立。 種駒の開発者もガチャ爆死した農夫を憂い開発を志したという。 美味しい椎茸の裏には悲しい爆死の歴史があったのだ。 #にいがたさくらの小話 その268椎茸·後編