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四国三郎と呼ばれた吉野川は洪水をもたらした。治水技術が未発達の時代には、台風シーズンによく決壊し、収穫前の米に打撃を与えた。一方藍なら台風前に収穫ができる。平和な時代には商品作物の需要は高い。
ちなみに「筑紫次郎」の筑後川流域でも藍栽培をしており、久留米絣という染物が発達した。
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洪水によって肥沃な土が流れ込み、連作障害を起こす藍を連作できるのも強みだった。
徳島藩は藍を特産品として品質向上に努め、加工技術を発達させたことにより全国市場でも人気を博す。
一説によると、全国から来た藍商人により、各地の踊りが伝えられ、阿波踊りにも影響を与えたらしい。
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だが明治後期を境に化学合成された安価な藍に押され、昭和中期には最盛期の1万分の1にまで減少。現在は天然素材が持つ色合いと伝統で徐々に回復している。
世界的にも特殊な製造方法の藍だが、高価なため輸出実績はないらしい。
ジャパンブルーの未来に期待したい。
#にいがたさくらの小話 その228
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日本で唯一「電車」が走っていない都道府県、徳島県。汽車しかない徳島県では、その理由を説明する「伝説」がある。
徳島県の霊山・剣山にはユダヤの失われし聖櫃(アーク)が収められており、四国を回るお遍路さんにより作られた結界を「電車」が壊してしまうというものだ。
って徳島新聞も言ってる。
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きのことは菌であることは、現代では当たり前の知識だが、西洋科学によって齎されたもの。
椎茸の産地である山の中までは西洋科学は伝わらなかった。新潟県中越の山の中で椎茸栽培を志していた田中長嶺も情報を得るために上京。
内務省に掛け合い、東京帝国大学の研究室に出入りをし、研究に没頭した。
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当時最新鋭だった顕微鏡や海外のマッシュルーム栽培などの研究を参考にし、遂に安定した人工栽培方法を確立。
菌糸が蔓延している榾木を粉にして原木に振りかけるという方法だ。
だが椎茸の産地は山間部。手間も技術も必要なこの方法はすぐには広まらなかった。
だが彼の研究は後の研究の下敷きになる
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粉を振りかけるから粉を埋め込む方式、菌糸自体の純粋培養など技術も進歩した。
昭和17年に発明された種駒によって栽培方式が完全に確立。
種駒の開発者もガチャ爆死した農夫を憂い開発を志したという。
美味しい椎茸の裏には悲しい爆死の歴史があったのだ。
#にいがたさくらの小話 その268椎茸·後編