欧米で用いられているサマータイム。春に時計を1時間早め、冬に戻すという制度。活動開始を1時間早めることで太陽光を有効に使う目的で、日本でもGHQ占領時に採用されたが、僅か4年で廃止された。 理由は様々だが欧米と違って日本は蒸し暑いため効果が薄く、残業が増えるだけだというのが主な理由だ。
江戸後期、山形県の庄内藩では藩主が転封で出ていく事が決定。しかも次に来る殿様は借金漬けの殿様。 その知らせに農民達はブチ切れ。 新しい殿様の借金返済に俺らの年貢が使われてたまるか! だが幕府の命令は絶対。そこで村々は団結し反対運動を行い、転封中止を勝ち取る。 一揆ではなく直訴で。
藩主を擁護する直訴は前代未聞。幕府役人も江戸市民も庄内農民に同情的になる。仙台藩主伊達斉邦も幕府中枢に苦言を呈す程。 命令を出していた11代将軍家斉が死去すると、幕府は命令を撤回。村々では勝利の宴が繰り広げられた。 江戸期の転封撤回はこの1件だけだ。 #にいがたさくらの小話 その62改
本州最北端青森県大間町。海流の関係上マグロが取れやすく日本有数のマグロの産地だ。 だが海流はマグロだけを運ぶものではない。 幕末の1864年には英国船が大間沖にある小島(弁天島)付近で座礁する事件が発生。 大時化の中英国人を救助し保護するが、英国人は故郷の味を求めた。 「牛肉が食べたい」
江戸時代。食用の牛など居ない時代、彼らは農耕用の牛を彼らに分け与えたという。 文化を超えた献身的な救助·保護に、当時の大英帝国の女王ヴィクトリアも感激し、江戸幕府を通じて当時の領主だった南部盛岡藩宛に感謝状と金の懐中時計を送った。 今でも、盛岡市のもりおか歴史文化館に展示してある。
モンゴル帝国の絶頂期、南の戦闘民族は海が苦手な元軍を海岸で迎え撃っていたが、樺太では、逆にアイヌの先祖達が元の属領を攻めた。 正確にはニヴフ(ギリヤーク)民族との紛争だが、バックにはモンゴル帝国がいたのだ。 帝国から差し向けられた正規兵を相手に、彼らは半世紀近くも交戦したという。
開国後、多数の外国人が商売をしに横浜に来るが、当然日本語はわからない。 商売には会話が必要。そこで現地の欧米人が聞き取れた言葉や欧米の言葉を混ぜたカタコトの日本語が誕生した。 横浜ピジン日本語やYokohameseと呼ばれる言葉だ。 現代日本語のちゃぶ台の「ちゃぶ」等もこの言語が由来だ。
欧米人は日本にだけ来た訳では無いし、日本には欧米人だけが来たわけではない。 日本に根を張った欧米人もいたが、大多数はすぐに帰ってしまうため、わざわざ文法も語彙も全く異なる日本語など習得しない。 そこで、速習できるようなハウツー本も誕生した。 カタコトが喋れるようになる教科書だ。
外国人たちの言葉は、別のアジアの言語とごっちゃになっていたり、意味を取り違えたりそのまま定着したものもある。 ポンコツは元々マレー語のpungut(手にする)という言葉だったものが欧米人に殴るという意味に理解され、開港地で日本人に使われた結果今の意味になったそうだ。 ペケなども同様だ。
アメリカ北西部ワシントン州シアトル。 タリーズコーヒーやマイクロソフト等で有名な港湾都市で、日本人にもイチローが在籍していたマリナーズなどで知られる。 1860年代まで寂れた西部の寒村だったこの街は、鉄道による物流で発達したが、もう一つ理由がある。 日本とアメリカの最短経路だったからだ
シアトルには、こんな言葉がある。 「グレートノーザン鉄道を父に、日本郵船を母に発展してきた」 1896年にグレートノーザン鉄道の誘致により横浜〜シアトルの定期航路を開設した日本郵船。これが当時ニューヨークへの最短経路で、サンフランシスコ経由より1日早かった。 ヨーロッパへも最短経路だ。
シアトル市には日本人移民も多く移住した。直接だけでなく、ハワイから再移住するものも多く、日本人街も成立した。 中華系の移民も多く、現在でもアジア系の割合は高い。 排日移民法や1929年の世界恐慌からはシアトルでも祖国に帰る人も増え、太平洋戦争後の強制収容で日本人街が消え現在に至る。
戦後シアトルに戻った日系人は米国社会に完全に溶け込んだが、現在でも宇和島屋という北米最大の日本食スーパーの本店があるなど、日本との関係は深い。 ちなみに、かつてシアトル・マリナーズに在籍していた城島健司も移籍の決め手はこの宇和島屋だったそうだ。 #にいがたさくらの小話 その286
物資を大量に運ぶには現在でも船舶が使われているが、船舶は大きければいいものではない。 パナマ運河やスエズ運河が通れなければ大規模に迂回しなければならないためだ。 日本が中東から石油を輸入する用のタンカーにはこれらの運河を通る必要がないが、大きさ制限がある。 マラッカ海峡が狭いのだ。
マラッカ海峡は狭くそして浅い。人間サイズでは問題ないが、大型タンカーには致命的。水深22.5mの浅瀬があり、それを安全に超えれるサイズが求められるのだ。 パナマ、スエズを超えれる最大サイズをパナマックス、スエズマックスというが、マラッカ海峡を超えれる最大サイズはマラッカマックスという。
マラッカ海峡の海賊は減少傾向だが、まだ治安に不安がある。マラッカ海峡が通れなければロンボク海峡を通るが1600km以上も遠回りだ。 タイの一番細いところに運河を作る話もあるが、出ては消えの状態で実現には程遠い。 マラッカ海峡の重要性は千年以上変わらないのだ #にいがたさくらの小話 その287
本州と北海道を分かつ海、津軽海峡。 日本だけでなく、韓国、ロシア極東、中国北部などから北米への最短経路の国際海峡だ。 海峡の真ん中は日本の領海ではなく公海であり、様々な国の船が通る。 ちなみに津軽海峡の海面下にある青函トンネルの中は日本の領土なので、公海の下に領土があることになる。
みんな大好き踏み絵。 最近はこのモノ自体のことを踏み絵、コレを踏ませる行為を絵踏みと使い分けています。 絵踏み、覚えてね!
東京都小笠原村は本土とは違う歴史を歩んだ。 1830年代に欧米系や太平洋の住人が住み始め、明治に日本領になり八丈島人が移住、戦後には米軍統治下で英語教育がなされ、1968年に本土復帰。 様々な言葉が混合し、本土復帰直後の欧米系島民はこんな感じで喋っていた。 「おまいはmeらのteacherかい?」
初期の住民は欧米人、ハワイ人だったという。英語、デンマーク語、イタリア語、ポルトガル語やハワイ系言語を母語とする人々は、英語を基にそれぞれの言語が混ざった言語を生み出す。 日本領になると、主に八丈島から移民が入り、英語ベースの言葉を話す人と八丈弁を話す人が意思疎通の必要に迫られる
八丈人との意思疎通の結果、島の人は英語ベースの言葉を母語としながらも日本語を理解可能に。 私的な場では英語ベースの言葉を、公的な場では日本語と使い分ける。その後日本語に慣れた世代が増え、日本語をベースにした言葉を私的にも使用するように。 だがその頃から米軍統治下となり英語になる。
学校では英語、家では島独特の混ざった日本語と使い分けた結果、また見るよ(see you again)のような英語の影響が残る言葉使いだったそうだ。 現在ではほぼ消滅したが、独自の文法を持つ日本語方言の一つとして辞典に残る。 世界自然遺産・小笠原諸島は、文化も遺産だ #にいがたさくらの小話 その6改
ゲートボールは若者のスポーツとして昭和22年、北海道芽室町で生まれた。 戦後の物不足の中でも子供たちを外で遊ばせたい、という思いから簡素な道具やフィールドを使う競技となる。 技量よりもチームワークを重視したルールにした結果、老人達がドハマり。 現在では世界大会も開かれる競技に発展した
太平洋戦争勃発後の米国中枢は困っていた。 軍事作戦の成功には相手国の理解が必要だが、当時の米国中枢には東洋人への偏見に満ちていたからだ。 そこで学者を総動員し日本の国民性を研究させた。 その際の報告書がNo.25、『菊と刀』。 そこでは、欧米を罪の文化、日本を恥の文化という見方を示した。
日本の国民性理解のために動員されたのは、ルース・ベネディクトという文化人類学者。 通常現場でのフィールドワークが必要な文化人類学だが、戦争中の敵国になど行けない。 そこで彼女は、日系人や英訳の書籍や映画、戦争で鹵獲した物を手掛かりに、日本人とは何かを解き明かし、米国中枢へ説明した。