こうして東京が首都になったが、首都を定める法律は現在もない。京都に配慮した結果、東西両都という形にしたからだ。 文化は京都、経済は大阪、政治は東京という形で明治政府はスタートした。 ちなみに現在の法律では東京が首都であることを前提とした法律はある。 #にいがたさくらの小話 その310
お茶の原産地は現在の中国雲南省貴州省あたりで、お茶を飲む習慣は中国で始まった。 そのため、世界各地の言語は中国語からの借用語となるが、その発音は大きく分けて2系統存在する。 英語などのTEA系統と、日本語などのCHA系統だ。 ざっくり分けて、大航海で伝わったのがTEA系統。陸路がCHA系統だ。
明治初期から戦前にかけて、赤道にほど近いオーストラリア北部の海へ出稼ぎを行っている日本人が大勢いた。 彼らは、白蝶貝採取を生業にした男たち。 特に莫大な収入が得られるダイバーは花形。 潜水病や潜水中の事故による死亡率が高かったが、故郷へ錦を飾るため水深50m以上の深さへ潜ったという。
アメリカ先住民の文字の一つに、チェロキー文字がある。 文字が読めないチェロキー族の開発者が、誰から教わる事もなく、たった一人で、文字通りゼロから文字体系を作り上げた文字だ。 なのでアルファベットに似ている文字もあるが、読み方は全く違う。 例えば、[ᎠᎢᎤᎡᎣ]で[あいうえお]と読む。
バンザイは大日本帝国憲法と共に生まれた。 憲法発布の記念式典の際に、黙っていては盛り上がらない。しかし、唱和する言葉がない。 そこで当時の文部省や帝国大学などが案を検討。出てきた案を実際にやらせてみて、バンザイになった。 それから当日までは、ひたすらバンザイの練習をしたのだという。
明治初期、氷は超高級品だった。 冷凍庫のない時代、大量の天然氷を運ぶ手段が限られており、十分な量の氷を確保できなかったからだ。 そのため海外から輸入していたが、溶けまくり更に高級に。 日本国内でも作れないか? 様々な場所を検討した結果、辿り着いたのが函館。 五稜郭のお堀だった。
氷は食用だけでなく、保存用、そして火傷や熱病などの医療用としても使われていた。 そのため、贅沢しなくても採氷地であるアメリカ東海岸のボストンから地球を半周してきた氷を使わざるを得なかった。 氷の有用性を理解した中川嘉兵衛は、はじめ富士山麓での採氷を志す。 だが輸送中に大半が溶けた
その後も諏訪湖や青森など様々な場所で採氷したが、物流に難があり挫折。 そこで開港地だった函館に目をつけた。戊辰戦争が終わり、無用の長物となった五稜郭があった。 川から流れてきた良質な水とそれを蓄える大きなお堀、寒冷地、そして函館港という物流拠点。 函館には全ての条件が揃っていた。
「じぇんこ(お金)が降ってきた」 冬の到来を告げる雪をそう言っていた人もいたという。 氷の切り出し作業は農閑期のいい小遣い稼ぎになっていたようだ。 こうして切り出された函館の氷は、ボストン氷を駆逐し、飛ぶように売れた。 横浜や神戸などの国内だけに留まらず、遠くはインドまで運ばれた。
氷は儲かる。 それに気付かされて出てきた後続には、砂の混じった粗悪な氷も多かった。 そこで品質の良さを示すため、品評会に出品し一等を獲得。ブランディング戦略も行った結果、高値でも売れたのだという。 折しも機械式冷凍庫が出てくる時代。 彼の跡を継ぐ者たちは時代の変化にも対応した。
製氷会社として生まれ変わり、会社合併などの紆余曲折を経て、現在は冷凍食品でお馴染みのニチレイとなっている。 時代や売るものは変わっても、冷たいもので人々を温かい気持ちにしたいという思いは、今も当時と変わらないのだろう。 #にいがたさくらの小話 その87改
オランダに支配されていた頃のインドネシアでは、各地の勢力が独立のために連携を模索していた。 だが、彼らは多民族国家。どの言語を使うのかで困っていた。 まさかオランダ語を使うわけにもいかない。 そこで、どの主要民族の母語でもない言語を『国語』に定めた。 それが、インドネシア語だ。
言語の強制は支配と直結している。 オランダ語を流暢に話す植民地知識人層は、それを痛いほど理解していた。 最大多数のジャワ人ですら半数にも満たない。そんな中でとある民族の言語を国語にすれば、他の民族はその民族に支配されることになる。 だが、一つの国民として団結するには言葉が必要だ。
そこで彼らは、マレー系の言語に注目した。 古くから交易のために使っていた言葉。第一言語ではなかったが、交易に携わっている人ならある程度使えた。 1928年、この言語を『インドネシア語』と呼ぶように定めた。 なのでマレーシア語やシンガポールのマレー語とはお互いに意思疎通できるほど近い。
青森県新郷村。 酪農を中心とした山間ののどかな村だが、昭和10年に衝撃の転機を迎える。 新興宗教の教祖により、『キリストの墓』が発見されたのだ。 ここはゴルゴタの丘ではない。 だが、観光スポットに乏しい村にとって、正に神がくれたチャンス……。 村は『キリストの墓』にのっかることにした
『キリストの墓』の概要はこうだ。 ゴルゴタの丘で処刑されたのは実はキリストではなく、弟のイスキリでキリストは密かに日本に逃れ、新郷村に住み着き天寿を全うした。というもの。 その伝説に従い、村の有力者の先祖代々の墓が『キリストの墓』になる。 なぜかついでにピラミッドも発見された。
『キリストの墓』はもはや止まらない。 昭和の大合併前の新郷村は、戸来(へらい)村という名前だったが、へらいはヘブライが訛ったモノ。また、伝統的な盆踊りの節回しである「ナニャドヤラ」もヘブライ語由来に。 ちなみに「ナニャドヤラ」自体は新郷村以外にも青森岩手の南部地方に広く分布している
そして極めつけは毎年6月の第一日曜日に行われるキリスト祭り。 キリストの墓の周りを囲んで盆踊りを踊るというすごくシュールなイベントだ。 (2019~22年はコロナで中止) ちなみに神事として行われるため、神主による祈祷や玉串奉奠、獅子舞なども行われる。 もはや、ツッコんだら負けだ。
こうしてオカルトマニアが集う村になった新郷村だが、思わぬ効果もあった。 エルサレム市から友好の石碑が送られたのだ。記念式典には駐日イスラエル大使も参加した一大イベントに。 ちなみにその時のイスラエル大使は、 「ここがキリストの墓かどうかはわからないが何か関係があったかも」と発言。
現在も、月刊ムーとコラボするなど、精力的に『キリストの墓』を推している。 キリストの墓の近くには、村人が作った売店『キリストっぷ』でキリストグッズを売っている。 真実なんてどうでもいい。 村に人が来てくれるなら、偽物だろうが本物より価値があるのだ。 #にいがたさくらの小話 その96改
『黒糖焼酎』を作れるのは、奄美諸島だけ。 これは、奄美諸島独特の文化として酒税法上の特例を認められているからであり、奄美以外で作るとラム酒と同じスピリッツに分類される。 奄美諸島で黒糖焼酎の文化が花開くのは、1945年~1953年の米軍統治時代。 黒糖が日本本土に出荷できなくなってからだ
東京都民は、方言など使わないと思いがちだが、それは違う。 新方言とか首都圏方言とか言う言葉を使っている。 例えば、『カタす』(片付ける)、『マカシタ』(任せた)や、『〇〇しちゃった』(てしまった)など。 由来は様々だが、標準語には砕けた表現が少ないため、こういう言葉が生まれるのだろう。
諸説あるが、世界初の乾電池は明治20年の日本で誕生したという。 発明者は屋井先蔵。 丁稚奉公からの叩き上げで、現在の東京理科大の職工として働きながら、試行錯誤して完成させた。 だが、彼には特許の知識もカネもなかったため、世界初の特許は逃したという。 しかし、彼は後に乾電池王となる。
彼が乾電池作りに情熱を注ぐキッカケにはあるエピソードがある。 現在の東工大の前身を受験する際に、町中の時計が狂っていて5分遅刻したため、受験できなかった。というもの。 当時の時計は手巻きのネジ巻式で、時間がズレることがあった。 これを改善したい。彼はそう決意したという。
会社を設立して乾電池を売り出すが、当初は全く売れなかったのだという。 時代が早すぎたのだ。 転機になるのは、1904年の日露戦争。 軍事通信機用の電池の需要が急増。 質電池との競争となったが、乾電池に軍配が上がった。満州の厳しい冬の寒さの前に、湿電池が凍結し、使い物にならなかったのだ。