こうして途上国での穀物生産は急増し、人々は飢餓から開放されたが、功罪はある。 高い収穫量を得るには大量の肥料を必要とするため、高くて買えない人々との貧富の差を産んだり、塩類集積で使えない土地が出てきたり。 世界は解決しなければならない課題が山積みだ。 #にいがたさくらの小話 その196
昔のビルは壁がコンクリートだったが、最近施工されたビルはガラス張りのようになっていて、都会らしさが際立つ。 とはいえ、オサレなデザインだからガラス張りのビルが乱立している訳ではない。 ガラス張りのほうがコストが安く、そして高いビルを作りやすいためである。 理由は材料が軽いからだ。
ガラス張りのような壁をカーテンウォールという。 建物の重さは柱や梁で支えるため、間仕切りのための壁だ。 ただの間仕切りなので、風や地震に耐えれればよく軽くできる。軽くなれば建物自体の重さも減るのでより高くできる。 また、施工も工場で作られたパネルを貼るだけなので楽になる。
コンクリートよりもしなるパネルのほうが風や地震の影響を受けにくいし、塗装もいらないので、メンテナンスコストも安い。 パネル自体も最近は様々な材料が使われており、直射日光の影響も緩和するものもあるようだ。 カッコよくしたいわけではなかったのだ。 #にいがたさくらの小話 その197
市の名前が重複する場合は、新しく市を名乗る方が元々の市と被らない工夫を施すのが暗黙の了解だった。(北広島市、大和郡山市等) 大正13年に発足した福岡県若松市が福島県若松市と名前被りを起こし、県名も似ており郵便などでの間違いが多く発生したためとされる。 だが例外もある。府中市と伊達市だ
「女の子に継続してみてもらえるアニメを作れ」と言われた男は、幼い女の子の好みがわからなかった。 これまで彼が手掛けたアニメは男子向けばかり。全くの畑違いだ。 女の子らしさとは何か。悩んだ末に、彼は企画書にこう記す。 「女の子だって暴れたい!」 プリキュアシリーズはこうして産まれた。
完成したのは「女の子だからおしとやかにしなさい」という当時まだ蔓延っていた概念の真逆を行く物語。 その姿に当時の幼女は熱狂。玩具も大盛況。2年目も大ヒット。 だがプリキュアは少女たちの成長を描く物語。次作を作れば物語が複雑になってしまう。 そこでキャラを変える戦隊モノ方式を導入。
その後も、登場プリキュアを増やしたり、敵を味方に引き入れたりと、常に新しい要素を入れ毎年違うプリキュアが誕生する。 スタッフが萎縮せず新しいことができるように、プリキュアの生みの親は勇退し、制作スタッフが変わるごとにイメージもガラリと変わるスタイルに。 戦隊モノのシリーズのように。
現在のプリキュアで19作目。 作品によってジェンダーや働き方、絆や宇宙、そして食事など、テーマは様々だが、女の子だって暴れたいというコンセプトは継続し、現在も人気を博している。 ちなみにプリキュアが何人居るかを問うのは愚問で、答えは70億人以上だ。 #にいがたさくらの小話 その200
昔は大学の合格発表は紙で貼り出されるスタイルだった。そのため、遠隔地に住む受験生は合格発表を見れず、通知が郵送されるまで待ち焦がれていた。 そこで、大学の近所に住む学生が受験生からお金を取って代わりに見て、合否を電報するサービスを始める。 合格の時の電文の言葉は、サクラサクだ。
1690年、日本に来たドイツ人医師·ケンペルは長崎の通詞(通訳)に怪しまれていた。彼の話すオランダ語がドイツ訛りだったからだ。 当時は鎖国の時代。オランダ人ではないとバレたら命が危うい。 彼は「自分は山オランダ人なので訛ってるんだ」とごまかして難を逃れる。 ちなみにオランダには山はない。
彼の死後、英語など様々な言語に訳され、当時の百科事典にも引用された。オランダ語訳を通して江戸後期には日本語にも翻訳されていた。 シーボルトも来日前に読んでいたらしく、彼もドイツ人なので、怪しまれた際に山オランダ人と答えたらしい。 先人の知恵である。 #にいがたさくらの小話 その207
日本では、合格したらサクラサク、不合格ならサクラチルと花で例えるが、これは電報の文章が由来。 一方、1000年以上科挙というペーパーテストを行ってきた中国では、今でも当時から使われている合格、不合格を示す四字熟語がある。 合格の場合は「金榜題名」 不合格の場合は「名落孫山」 という。
8代将軍徳川吉宗による、洋書の輸入制限緩和で西洋天文学が日本に齎された。 西洋天文学を使って微妙にズレていた当時の暦を修正したい。それには望遠鏡が必要だ。 だが当時の輸入望遠鏡は真鍮製であり、重くて不便。もっと良い材料はないのか? そこで考案されたのが紙。 紙で望遠鏡を作ったのだ。
一閑張という技術がある。 大陸の明朝が崩壊した時に日本に亡命した一族には一閑張の技術者がいた。 紙を渋柿や漆でコーティングする技術のことで、固く、濡れても染み込まないという特性がある。 これと、眼鏡屋が技術の粋を凝らして作ったレンズにより、軽くて持ち運びの良い国産天体望遠鏡が完成。
この望遠鏡は幕府の天文方だけでなく、様々な人たちへも広まる。裕福な町人も望遠鏡を買えたらしい。 伊能忠敬も測量のため、この望遠鏡を持ち運んでいたという。 なお、この後技術革新があり、江戸後期には更に高性能な望遠鏡が鉄砲鍛冶により作られることになる。 #にいがたさくらの小話 その209
日露戦争の勝利は漁業にも大きく影響を与えた。カムチャッカ沿岸に大量の日本漁船が押し寄せたからだ。彼の地は鮭·鱒·蟹の好漁場。漁師は小説·蟹工船並に働き、獲りまくる。 ロシアがソ連になっても北洋漁業は繁栄を謳歌。海上の失地回復をしたいソ連は日本側にこう提案した。 「労働基準法を守れ」
コスプレイベントとして日本に定着したハロウィンだが、元々はケルトの祭りが源流。 欧米的にはジャック・オー・ランタンというカボチャのお化けを飾るのが一般的だが、カボチャは新大陸原産。コロンブス以前の西欧には存在しない。 では、何でジャック・オー・ランタンを作っていたか。 答えは、蕪だ
元和9年(1623年)、領地の調査をしていた津軽藩のサムライは困惑した。 この亀ヶ岡という場所では、土の中から様々な形をした瓶の焼き物が出てくる。また、三内村では人形の焼き物が出るらしい。だが何故土の中に埋まっているのかはわからない。 後の世界遺産·亀ヶ岡遺跡と三内丸山遺跡である。
天然痘が流行した江戸後期。予防接種である「牛痘」がオランダ領から長崎に到着。 オランダの医学書を読んでいた医師達は日本各地へとそれを持ち帰り、会場を設け接種していく。だが庶民は訝しみ、接種が進まない地域も。 各地ではポスター作ったり、藩主の息子に接種させたりと普及に努めた。
牛痘の普及は長崎の隣、佐賀藩から始まる。当時の技術では、新鮮で有効な牛痘苗を伝えるには、人に接種して膿汁を作り出しそこから取り出し、リレー方式で次の人に伝えるという方法しかなかった。 そのため、佐賀から北陸·東北まで牛痘を伝播させるために雪の峠道を接種者と越えることもあったそうだ。
だが種痘への不信感は根強く普及の悪い地域もあり、そこでは焦った蘭方医がその辺の子供を捕まえて、親の承諾も得ずに施術し、反対派を増やしてしまう例もあったそうだ。 天然痘の感染が拡大すると、接種者が罹らなかったことが知れ渡り普及が進んだという。 だが、次なる問題が発生。 モグリの医者だ
もぐり対策としては、幕府による公認。免許制が取られ、江戸のお玉ヶ池種痘所などが公認されている。 江戸後期の予防接種はこうして普及していった。 ちなみに迷信では接種すると牛の角が生えるとか言われてたそうだ。 現代でも似たような事を言ってる人もいるなぁ。 #にいがたさくらの小話 その216
1960年代、珍味を扱う会社は打撃を受けていた。 中国との関係悪化により中華料理で使うクラゲの輸入が停止したからだ。 そこで代替品を作るための研究開発が始まり様々な材料を試行錯誤するが失敗。 研究員は失敗作を試食している際に気付く。 「これカニっぽくね?」 カニカマはこうして生まれた。
現在でも更にカニに近づけるために研究を行っており、農林水産大臣賞も受賞している。 ちなみに研究員は毎年、最高級のカニを皆で食べ、この味と同じにしたいという意思を醸成している。 そこに本物になろうという意思があるだけ、偽物のほうが本物よりも本物だ。 #にいがたさくらの小話 その221