日本一のお茶の産地といえば静岡県……と、思いきや実は鹿児島県。 鹿児島県のお茶栽培は平家の落人まで遡るほどの歴史があるが、本格的にお茶が作られるのは昭和40年代以降と、ビジネスとしてのお茶の歴史は浅い。 全国的に茶畑が減っている中、鹿児島県だけは増加傾向。 それは、畑が平坦だから。
黒船来航より前から蒸気船の存在は知られており、聡明な藩主は各自で蒸気船製造の研究をしていた。薩摩、水戸、佐賀等の名だたる大藩の中に、何故か小藩の伊予宇和島藩もいた。 蒸気船を作りたい。そのために作れそうな人材を藩内中から探し回り、一人の男に依頼した。 「わし提灯張替職人だが?」
今でこそ主力だが、オイルショック前の石炭火力発電所はバカにされていた。 石油が圧倒的に安く、環境影響が叫ばれた時代。価格が高くNOX,SOX対策が必要な石炭火力は価格勝負にすらならない程。ましてや石炭を輸入しての火力は想定外。 日本初の大規模海外炭火力はそんな逆風の中で検討されていた。
日本の川はよく氾濫した。 木曽三川と呼ばれる揖斐川長良川木曽川は江戸期の悲惨な工事でマシにはなったが、川が近すぎて氾濫毎に合流して被害を悪化させる治水の難所。 そこで明治政府は当時世界最高の土木技術を持っていたオランダからお雇い外国人を招集した。 3つの川を完全分離させるために。
黒部ダムは有名だが、年間発電量日本一のダムが浜松市にあることはあまり知られていない。 戦前の技術力では不可能とみなされていた断崖絶壁の場所に、戦後の1953年に着工し3年という無茶振り納期を守り、その後の日本の大規模水力発電ダム技術の礎となり、今も現役のダム。 それが、佐久間ダムだ。
戦後の日本はあらゆるものが足りなかった。 電力、重機を使う技術、安全意識、そして資金。 だが朝鮮戦争特需で沸く日本に急いで電力を供給しなければ。 佐久間ダムの地点は水量も高低差も発電に最適だが、当時の電力会社単独ではあらゆる面で不可能。 そこで国家プロジェクトとして作られることに。
鍵を握るのはアメリカから導入された重機。 重機を使った工事の経験が少ない当時の日本では前代未聞の数だったという。 コンクリートの打設量も当時の世界一。 そして当時まだ財務が貧弱だった国内重電メーカーによる発電機。 また、安全意識も多くの犠牲の上に作業中のヘルメット着用も定着し高まる。
こうして完成した佐久間ダムにより、現代土木技術が培われその後の様々なダム建設に繫がっていく。 1956年の竣工から今まで、首都圏と中京圏に電力を供給し続ける佐久間ダム。 ちなみに電力系統は東西で周波数が違うので融通が難しいが、佐久間は両方で発電可能だ。 #にいがたさくらの小話 その145
火力発電についても興味持ってね! twitter.com/monkey_across/…
貨幣は一般的には、多種多様な物を買うことができるように作られてきた。 日本においても銅銭や小判などは多種多様なものを購入するために鋳造、あるいは輸入してきたものである。 だが江戸中期には、朝鮮貿易で朝鮮人参を買うためだけに鋳造された銀貨があった。 その名も、人参代往古銀という。
ダムを作るには村を沈めねばならないが、住民は当然反対する。 反対運動が激化し、建設が頓挫したダムもある。 御母衣ダムでも当初は反対運動が起こったが、トップが住民のもとへ足を運び、膝詰めで涙を流しながら語るなど、誠意ある対応により建設が進んだ。 その誠意の結晶が、荘川桜移植計画だ。
その桜はかつて反対派が集会を開いていた寺に植えられていた樹齢400年以上の見事な大木だった。村のシンボルでもあった。 村は水没するが、そのシンボルだけでも残せないか。そう考えた会社のトップは日本一の桜博士と植木職人に依頼。 だが、桜はそもそも外傷に弱い植物。 前代未聞の計画となった。
新芽が出た。桜は開花しなかったが、生きていた。 そして昭和45年ダム完成から10年後、かつての新芽は枝となり、花開いた。 旧住民たちも集まり、満開の桜と満面の笑みを桜博士は見届けた。 今は有名な桜の名所である荘川桜には、人々のアツい思いが詰まっている。 #にいがたさくらの小話 その157
産業革命は蒸気機関の改良、農業革命はノーフォーク農法の発展など、革命には技術革新が付き物。 第二次世界大戦後のアメリカの物流でも革命的なことが起きた。積卸時間を大幅に短縮させたり、船舶とトラック輸送を効率よく連結するモノが発明されたからだ。 それは四角い箱。 つまり、コンテナだ。
日本国内において、ジビエではなく養豚が生業になるのは明治以降。 だが、鹿児島と沖縄だけは江戸以前から養豚しており、戦国時代に来た外国人宣教師も薩摩の漁村での養豚を記している。 14世紀に大陸から齎された豚だが、琉球で広まったのには理由がある。 大陸の使者、豚肉を大量に食うのだ
日本を代表する調味料·醤油は江戸時代、上方から江戸に大量輸送されていたことは有名な話だが、実は長崎を通して海外にも輸出されていた。 長崎から欧州へ輸出するのだが、木製の樽のままでは長時間の輸送中に劣化し、醤油本来の風味が失われるのが問題だった。 そこで開発されたのがコンプラ瓶だ。
買付業者のオランダ人は日本の醤油の旨さを知っていた。欧州のみならず、東南アジアに行って売り捌けば大儲けできる。 しかし風味が命の醤油。木製の樽での輸出で劣化し、高値で売り捌けない。 そこでオランダの船乗りが航海中に飲んでいた洋酒の空瓶を利用することに。 たが圧倒的に数が足りなかった
そこで注目されたのが、長崎の波佐見焼。 波佐見焼に醤油を詰めコルクで封をして輸出することで、ワインのように劣化を抑えれる。 焼く際にはオランダ語でJAPANSCHZOYA(日本の醤油)という商品名とコンプラ株仲間を意味するコンプラドール(ポルトガル語で仲買人という意味)の略語CPDと書かれた。
幕末にはロシアなど各国に輸出されたコンプラ瓶をだが、この可愛らしい形と欧州の日本趣味が合わさり、ヨーロッパでは空瓶に花を活けたりと、オシャレアイテムとして使われたそうだ。 今でも欧州ではアンティーク品として瓶が取引されているらしい。 #にいがたさくらの小話 その167醤油輸出·前編
戦後、醤油は経済成長の波に乗れなかった。 醤油は生活必需品。豊かになったところで消費量が爆発的に増える訳ではないからだ。 そこで海外展開。進駐軍の米兵には好評だったが、和食普及前の世界。醤油の使い所がわからん人多数。 そこでまず、肉料理に醤油を使う手法をアピールした。 TERIYAKIだ
醤油は日本料理のもの、という概念を捨て去り、新しいソースとしてアメリカで売る。 最初は訝しんだアメリカ人のために現地の料理系文化人などに醤油を使ってもらい醤油を使ったアメリカ料理がどんどんレシピ化され、ジワジワと普及する。 その後醤油はホームパーティーでのバーベキューまで浸透する。
アメリカに工場を作ったら次はヨーロッパ、そしてアジアへと展開。 大事にしているのは今でも、地元料理に溶け込むこと。和食が世界に普及した今でも、その地域に愛されることが、普及のカギだという。 調味料は主役ではない。 地元料理が主役なのだ。 #にいがたさくらの小話 その168醤油輸出·後編
水産商品輸送用のトラック輸送の需要は戦後拡大するが、海からの塩分を多く含む風や道路に撒いてある凍結防止剤の影響でよく錆びた。 そのため、寒冷地の八戸や石巻などではステンレス板で補強していた。 だが当時のトラックの運ちゃんは荒くれ者。補強ついでにデコる。 こうしてできたのがデコトラだ
デコり出したら止まらない。競うようにデコりまくる。そんなデコトラと愛川欽也は高速道路で出会う。 衝撃を受けた彼は東映に企画を持込み、『映画·トラック野郎』シリーズが生まれる。 トラック野郎シリーズが大人気になったことにより、デコトラが更に普及。 しかし、警察は快く思わなかった。
映画では警察は悪者に描かれるわ、交通違反を助長するわで警察からお叱りを受けてブームは縮小。 一時はデコトラの愛好家たちが集まりイベントなどが開催されるものの、さらにバブル崩壊や排ガス規制などで苦境に。 さらにコンプライアンスが叫ばれる昨今においては数が減ってしまう。