その後の不況により、バスクリン事業はツムラから独立。 本家から冷たくされても、俺達で温まっていこう。それがバスクリンの使命なのだから。 更に多様化する現代社会に合わせ、様々な所とコラボしながら、彼らは今でも世界中の風呂に溶け込んでいる。 #にいがたさくらの小話 その349
終戦前後は生産を中止したものの、しばらくしてから復活。 高度経済成長は彼らにとって超ビジネスチャンスだった。家庭に風呂が普及したのだ。 バスクリンは競合になるような商品もなく、生産が間に合わなくなってしまうほどの人気になる。 夏に特化したクールバスクリンも発売し、盤石の布陣となる
まだ家に風呂があるのが珍しい時代。当時のメインターゲットは、銭湯。 扇風機もないので血行が良くなりすぎるのも考え物だった。 そこで、爽やかな香りと湯上がりの爽快感を高めた夏用入浴剤を開発し、1930年に発売開始。 入浴剤は、冬用の浴剤中将湯と夏用のバスクリンという2本立てになる。
日本初の入浴剤、バスクリンは偶然から生まれた。 生薬を加工して薬を作っていたのだが、生薬の切れ端が余る。 勿体ないので風呂に入れたのが始まりだ。 温まるし、あせもにも効く。 それが社長の目に止まり、明治30年に商品化。 ちなみに当時のクレームは「温まり過ぎて夏ヤバい」だったそうだ。
瀬戸内海に浮かぶ塩飽諸島などには、一人の遺体に対して2つの墓を設ける風習が残っている。 両墓制と言って、遺体を埋葬する埋め墓と霊魂を祀るための詣り墓の2種類だ。 (写真は本島の埋め墓) 両墓制は島嶼部だけの独特の風習ではなく、かつては関西を中心として広く分布していた埋葬スタイルだった
今でも明治の看板商品である明治ブルガリアヨーグルト。 製法もさらにまろやかになるように日々改良が続けられている。 ネーミングに拘ったからこそ、今でも当時の本気度が続いているのだろう。 #にいがたさくらの小話 その347
明治はブルガリアの民族衣装やあの耳馴染みのある曲などで、ブルガリアという国自体を全力でアピールした。 今でもブルガリアといえば当時のCMを思いだす人も多いだろう。 本気度を見せつけた明治は、ヨーグルトの正統の地位を確立。 ブルガリアにとっても日本での知名度向上に役に立った。
軽々しくなければいいのかも。 彼らはそう考えた。俺たちの本気度を見せる。 工場に招いて製法も伝統に近づけていることを猛烈にアピール。 その結果、大使館は名前の使用を認める。絆されたのではない。本気度に感銘を受けたのだ。 しかし日本の一般庶民はブルガリアという言葉すら知らない。
それまでの日本には、加糖して寒天やゼラチンで固めたヨーグルトしかなかった。 新しい味を売り込むには、背景やストーリーが必要だ。ブルガリアという国名とは切っても切り離せない。 ブルガリア大使館にも断る理由があった 「ヨーグルトは民族の心。軽々しく他人に名を語らせるわけにはいかない」
1970年の大阪万博は日本のヨーグルトの歴史も変えた。 舞台は勿論、ブルガリア館。 その味に衝撃を受けた明治の社員は、その場でヨーグルトを貰い、研究所で商品開発を開始。 それまでの日本にない新しい味。 売り込むには本場の名前を冠した商品にせねば……。 だが、ブルガリア大使館に断られる。
現代の地震は各地の地震計によって計測され、それを元に震度や震源、マグニチュードなどを算定している。 地震計は明治時代に作られたため、それ以前のデータはない。 だが、巨大地震は数百年スパン。過去の地震についても知りうる限り調べる必要がある。 そこで活躍する資料が、庶民が残した日記だ
北海道は寒すぎる。冬は暖房が欠かせず、開拓初期から薪や石炭などを燃やして暖をとらないと死ぬ。 しかし、戦中から戦後にかけての物不足で石炭や薪が手に入りづらくなると彼らは困った。 そこで、その辺の土を乾燥させ、それを燃やして暖をとることにした。 北海道の土は燃える泥炭が多かったのだ
現在では、それらの若者が歳を取ってしまったり、日本酒の銘柄の多様化によって売上は落ちているが、日本酒業界は若者だけでなく海外への布教にも力を入れている。 日本酒業界はさらなるイノベーションを起こせるか。 これからの日本酒業界にも注目したい。 #にいがたさくらの小話 その344
売り出した当初は全く売れないどころか、フタから液漏れがあり、商品回収などでマイナスだった。 それでも彼らは若者を諦めなかった。 フタは改善され、新たな販路を自販機や駅のキヨスクなどへ広げる。 電車で移動中に呑める酒が手軽に買える。 キヨスクへの導入はまさにイノベーションだった。
江戸時代の『下り酒』にルーツを持つ老舗酒造である大関にとって、カップ酒はまさにチャレンジだった。 だが同時に危機感もあった。 若者が日本酒を飲まなければこの業界全体が滅ぶ。 当時の若者はビールなどの洋酒に目が向いており、なんとかして日本酒を呑ませたい。 その思いで開発が始まる。
カップ酒といえばオッサンのイメージがあるが、実は若者向けとして開発された。 かつての日本酒には一升瓶しかないので、敷居が高く、若者に毛嫌いされていた。 そこで、缶ビールのようにカジュアルに呑めるようカップに入れ、ロゴもオシャレに。 それを受け入れた当時の若者が、現在のオッサンだ。
雪国の人なら必ず知ってるママさんダンプ(スノーダンプ) 非力な女性でも使えるように軽いプラ製で雪上を滑らせて除雪できるシロモノだ。 ちなみにパパさんは出稼ぎに出ていないのでママさんが除雪する想定で開発していたが、発売開始は昭和60年代なので、出稼ぎに行くパパは少数派になっていた。
皆さん、長澤まさみの初主演映画をご存知でしょうか? 答えはもちろん、世界の中心で……はなく、映画ロボコンです。 高専ロボコンを題材にした映画で、長澤まさみだけでなく、小栗旬や塚本高史、伊藤淳史など、その後の芸能界でも活躍したメンバーたちが出演している。 興行収入?そんなもん知らん
スプレもんに限らず、ロボコンには若き技術者のアイデアが詰まっている。 特にルールのQ&Aは必見だ。 そんなことまで考えるの?というのは、ロボコニストにとっては褒め言葉。 回答する方も大変だろうな。 わたしも昔やってましたけど。 #にいがたさくらの小話 その99改
色を変えるというアイデアはあまりにも奇抜だったが、技術が追いつかなかった。 スプレもんは伝説だけ残して一回戦で敗退。 床にドバドバと垂れる塗料に大会運営は困りまくる。 ちなみに作った大分高専は17回大会まで、惜しいところで全国出場が果たせなかったが、スプレもんの呪いと呼ばれた。
伝説が起きたのは、第4回。しかも地方予選だ。 この年のルールは、ロボットで箱を積み上げるというもの。 ただし、一番上の色のチームがその特典を総取りするというルール。 スプレもんは箱を乗せるという常識から解き放たれ、塗料をかけた。 スプレもんという名前だが、チョロチョロと流した。
全国の高専が技術を総動員して作り上げたロボットを使って競う大会、高専ロボコン。 去年で35年を数えた伝統ある大会で、アイデアを競うため、毎年ルールが違う。 その中でも語り継がれるロボットがある。 その名はスプレもん。 毎年の大会ルールに『床を汚さないこと』と刻ませた伝説のロボットだ。
カレーと出会ってから、福神漬は変わってしまった。 元々茶色が主流だったが、茶色いカレーに合うように赤く変化。 味もカレーのパンチに合わせて甘くなる。 こうして福神漬はカレーの添え物に特化してゆく ちなみに福神漬発祥の店は現存しており、こちらの福神漬は特化する前なので何にでも合う。
一流のシェフは、素材の持ち味を知っている。 世界で初めての組み合わせだったが、これが大人気に。 一方、福神漬自体は日清日露の戦争で兵士の食事として提供されていたため、帰還した者たちによって全国に広まる。 カレーライスも同様だ。 大正の初めには、既に付け合せの地位にあったようだ。
英国海軍のカレーの流れを汲む当時のカレーには、南アジア料理では定番のチャツネが添えられていた。 だがある時、チャツネを切らしてしまう。 困ったシェフは代わりに福神漬を添えたのが始まりだという。 ちなみに福神漬を添えたのは一等客のみで、二等以下の客には沢庵が添えられていたらしい。