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忘年会シーズンの出し物としての需要があったのだ。男女兼用って言っといて良かった。
その後、定番となってしまったため、ホタテ水着を作る日々が続く。
ネットでコアな評価を受けていたところに、市から声が掛かる。
「ふるさと納税の返礼品にしたいんです」
彼は問う。
「市役所、正気か?」
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漁師たちは、賭けに勝った。
豊かなホタテと安定した養殖手法を手に入れた彼らは盤石となった。
ただし、漁師になれるのは限られた人だけ。貝柱の加工工場は最低賃金のままで人手不足だそうだ。
この富を次は何に活かすのか。
それがこれからの課題だろう。
#にいがたさくらの小話 その326
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何をやるか。ニシンは来ない。ホタテもいない。でも、かつてホタテが大漁だったということは、適地ではあるはずだ。
そこで、道内の他地域からホタテの稚貝を輸入しようと考えたが金はない。
金融機関からの借入の条件である、自己資金がそもそもなかった。
漁協の組合長は、漁師たちに頼み込んだ。
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現在、地球温暖化の『悪玉』となっている石炭火力。
だが、前述の火力発電所では現在、CO2排出削減のための最新設備を導入し、将来的には地中に埋める計画が推進中だ。
40数年前に受けた逆風と同じ。
彼らは黙々と技術を示していくのだろう。
#にいがたさくらの小話 その141改
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みるみるうちに石油の価格は上がり、国の方針も変わる。
そして、石炭を見る目も変わった。融資も貰えた。
こうして建設された日本初の海外炭火力は、十分なNOxSOx対策を施しても、発電単価が重油火力よりも安くなった。
これを契機に日本国内で次々と海外炭を使った火力発電所が建設されることに。
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場所の選定も困難だった。
石炭の発電所を建てると話が出るだけで反対される。
そこで彼らは、旧産炭地に目をつける。
彼らは石炭のリアルを知ってる。更に炭鉱が次々と閉山し活気を失っていた時期。
彼ら自身も何かを誘致したいという気持ちがあった。
その最中に石油危機がおこる。
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石炭は世界中に広く分布しているという利点がある。検討には値する。
そこで彼らは主要産炭国であるオーストラリアと交渉開始。だが、相手の担当者から一蹴された。
「外国から石炭を輸入して発電するなんて聞いたことがない」
彼らは喰い下がり「具体的な計画があるなら話を聞く」と、回答を得る。
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そもそも当時の石炭は価格が高かった。
そしてなにより環境に悪い。
特に酸性雨の影響が叫ばれた時代。NOxやSOxの対応には石油火力より遥かに大規模な設備が必要となる。
だが石油一本でいいのか?
戦前の日本が石油輸入禁止で破滅の道へと加速したことも、当時の人間には鮮明な記憶だった。
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ゴンザは1739年に21歳で亡くなる。
彼の没後は日本語教育が下火になるが、新たな日本人漂流民が発見され、モスクワへ送られて講師となり、存続していたという。
ちなみに彼らの出身は、現在の青森岩手。
薩摩訛りの次は南部訛りだ。
#にいがたさくらの小話 その115改
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一方、当時のロシア女帝アンナは日本との交易に期待した。
シベリアを経由して本国から物資を輸送するよりも安く済む上、物品も魅力的。
ゴンザとソウザは科学アカデミーへ送られ、ロシア語の読み書きを教えた。特に若く才能のあるゴンザは、すぐ上達したという。
そして彼は日本語講師となる。
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半年もの間難破し、辿り着いたカムチャツカでは、ロシアの下っ端軍人に痛い目に遭う。
17名の乗組員のうち、助かったのは2名。ゴンザとソウザだ。
積荷のうち目ぼしいものは全て奪われ、ヤクーツクをへてモスクワへと送られる。
まだ若かったゴンザはこのときに必死でロシア語を覚えたのだという。
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1927年に65歳で亡くなり、その後会社は1950年に潰れる。
だが、彼が日本の電機業界に残した業績は大きい。乾電池という言葉も彼が名付け親とされる。
彼の情熱の詰まった乾電池。液漏れしないように管理したいものだ。
#にいがたさくらの小話 その320
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