忘年会シーズンの出し物としての需要があったのだ。男女兼用って言っといて良かった。 その後、定番となってしまったため、ホタテ水着を作る日々が続く。 ネットでコアな評価を受けていたところに、市から声が掛かる。 「ふるさと納税の返礼品にしたいんです」 彼は問う。 「市役所、正気か?」
みそ貝焼き用のホタテ貝は12cmほどの程よいサイズ感。 このサイズなら、ひょっとしてイケるんじゃないだろうか? 頭には、武田久美子がよぎる。 世代だったのだ。 売れるかどうかはわからないが、彼は全力でふざけてみることにした。 キャッチコピーは、『ライバルに差をつける!』 意外と売れた。
青森県陸奥湾。 ホタテ養殖が盛んな地だ。 ホタテ貝を鍋代わりにして、卵と味噌を入れて煮る、みそ貝焼きという郷土料理がある。 2011年の東日本大震災では被害はなかったものの、観光客が激減。 みそ貝焼き用のホタテ貝が余ってしまった。 「どうにかして欲しい」 頼まれた男が閃いたのがコレだ。
漁師たちは、賭けに勝った。 豊かなホタテと安定した養殖手法を手に入れた彼らは盤石となった。 ただし、漁師になれるのは限られた人だけ。貝柱の加工工場は最低賃金のままで人手不足だそうだ。 この富を次は何に活かすのか。 それがこれからの課題だろう。 #にいがたさくらの小話 その326
だが組合長は冷静にこう言った。 「生存率が低ければ、数を増やせばいい」 一世一代のハッタリだった。 だが、その姿に漁師はやる気になった。その後は生存率が徐々に伸びていく。 着実にホタテが定着している証だった。 10年後、完全に猿払の海は蘇った。 想定を超えた漁獲量だった。
何をやるか。ニシンは来ない。ホタテもいない。でも、かつてホタテが大漁だったということは、適地ではあるはずだ。 そこで、道内の他地域からホタテの稚貝を輸入しようと考えたが金はない。 金融機関からの借入の条件である、自己資金がそもそもなかった。 漁協の組合長は、漁師たちに頼み込んだ。
北海道猿払村。 今でこそ国内有数の裕福な村だが、かつては、『貧乏見たけりゃ猿払へ行け』と言われた程貧しい村だった。 昭和29年以降にニシンの群れが途絶え、その後炭坑が閉山。乱獲によりホタテなども壊滅。 役場職員の給料も払えない程の困窮。 そんな状況の中、彼らはホタテ養殖に全てを賭けた
青森県陸奥湾を代表する海産物ホタテ。 だがかつては、漁獲量が不安定だった。 自然に任せた方法だと、大量発生し数年は大漁が続くが、その後はまた不漁となる。 なんとか安定して獲りたい。 人々の叡智を結集し、ついに養殖に成功する。 養殖成功の決め手となったは、一介の漁師が発案した玉葱袋だ
海なし県の長野県には海のつく地名がある。 特にJR小海線沿いに多い。 別に海がないから悔しくて名付けたわけではなくて、古代の日本語が『湖』と『海』を区別しなかったことによる。 滋賀県の近江(おうみ)が琵琶湖のことを指しているのと同じ。 ちなみ、JR小海線·海瀬駅が日本で最も海から遠い駅だ
北東北の冬は、雪に閉ざされる。 特に日本海側は晴れる日がないため、他の地域で当たり前にやっていた天日干しができなかった。 かわりに、囲炉裏の上で大根漬けを干す。 これが、いぶりがっこのルーツだ。 元々自家消費品なので、囲炉裏が廃れて薪ストーブが普及すると、自然消滅へと向かった。
日本には五稜郭が2つある。 一つは戊辰戦争の激戦地、北海道函館市の五稜郭。 そしてもう一つは何故か長野県佐久市にある。しかも佐久市の中心からだいぶ離れたところに。 なんでこんな微妙なところに五稜郭が建てられたのかには諸説ある。 その中でも私は『カッコいいから』という説を推したい。
現在、地球温暖化の『悪玉』となっている石炭火力。 だが、前述の火力発電所では現在、CO2排出削減のための最新設備を導入し、将来的には地中に埋める計画が推進中だ。 40数年前に受けた逆風と同じ。 彼らは黙々と技術を示していくのだろう。 #にいがたさくらの小話 その141改
みるみるうちに石油の価格は上がり、国の方針も変わる。 そして、石炭を見る目も変わった。融資も貰えた。 こうして建設された日本初の海外炭火力は、十分なNOxSOx対策を施しても、発電単価が重油火力よりも安くなった。 これを契機に日本国内で次々と海外炭を使った火力発電所が建設されることに。
場所の選定も困難だった。 石炭の発電所を建てると話が出るだけで反対される。 そこで彼らは、旧産炭地に目をつける。 彼らは石炭のリアルを知ってる。更に炭鉱が次々と閉山し活気を失っていた時期。 彼ら自身も何かを誘致したいという気持ちがあった。 その最中に石油危機がおこる。
石炭は世界中に広く分布しているという利点がある。検討には値する。 そこで彼らは主要産炭国であるオーストラリアと交渉開始。だが、相手の担当者から一蹴された。 「外国から石炭を輸入して発電するなんて聞いたことがない」 彼らは喰い下がり「具体的な計画があるなら話を聞く」と、回答を得る。
そもそも当時の石炭は価格が高かった。 そしてなにより環境に悪い。 特に酸性雨の影響が叫ばれた時代。NOxやSOxの対応には石油火力より遥かに大規模な設備が必要となる。 だが石油一本でいいのか? 戦前の日本が石油輸入禁止で破滅の道へと加速したことも、当時の人間には鮮明な記憶だった。
石油危機が起こる前、誰もが中東の石油の安さを信じていた。 一方国内の石炭は斜陽産業として衰退し、保護されながら、ゆっくりと死を迎えると思われていた。 ましてや、石炭の輸入など想像すら……。 石炭は汚い。オワコン。 日本初の大規模海外炭火力発電所は、そんな逆風の中、検討されていた。
明治時代、西洋からあらゆる機械が導入されるが、麺類は手打ちだった。 パスタと異なる日本の麺には、独自の製麺機が必要だ。 西洋にないなら日本で作ろう。 佐賀の発明王·真崎照郷は、そう決意し、日本初の製麺機を作る。 8年の歳月と先祖伝来の田畑、そして家業の造り酒屋を犠牲にして。
ゴンザは1739年に21歳で亡くなる。 彼の没後は日本語教育が下火になるが、新たな日本人漂流民が発見され、モスクワへ送られて講師となり、存続していたという。 ちなみに彼らの出身は、現在の青森岩手。 薩摩訛りの次は南部訛りだ。 #にいがたさくらの小話 その115改
一方、当時のロシア女帝アンナは日本との交易に期待した。 シベリアを経由して本国から物資を輸送するよりも安く済む上、物品も魅力的。 ゴンザとソウザは科学アカデミーへ送られ、ロシア語の読み書きを教えた。特に若く才能のあるゴンザは、すぐ上達したという。 そして彼は日本語講師となる。
半年もの間難破し、辿り着いたカムチャツカでは、ロシアの下っ端軍人に痛い目に遭う。 17名の乗組員のうち、助かったのは2名。ゴンザとソウザだ。 積荷のうち目ぼしいものは全て奪われ、ヤクーツクをへてモスクワへと送られる。 まだ若かったゴンザはこのときに必死でロシア語を覚えたのだという。
江戸時代の船はよく難破した。 薩摩出身のゴンザも薩摩から大坂へ向かう途中に11歳で難破し、カムチャツカへ漂流した。 ロシア人によって捕らえられ、保護された彼は首都へ送られる。その間に必死でロシア語を覚えた。 そして1736年、世界初の露日辞典を完成させた。 その日本語は、薩摩弁だったが。
測量とは、地図作成や構築物建設のために必要な位置を特定する作業。時には山の中、雨の中で専用の機器を読み取りメモるハードな作業だ。 そんな測量士のために1959年に作られたのが、測量野帳。 頑丈で、立ったままメモれ、防水性に優れている。 現場向けの無骨なデザインだが、一般の愛好家も多い
1927年に65歳で亡くなり、その後会社は1950年に潰れる。 だが、彼が日本の電機業界に残した業績は大きい。乾電池という言葉も彼が名付け親とされる。 彼の情熱の詰まった乾電池。液漏れしないように管理したいものだ。 #にいがたさくらの小話 その320
『満州での勝利は乾電池によるもの』 この報道で彼は名声とお得意様を得る。陸軍はこぞって彼の乾電池を求めた。民需もそれに従い伸びていく。 需要に応えるべく量産体制を整え、売上は急増。 海外製品との競争にも勝ち、乾電池界の覇権を握る。 こうして彼は、『乾電池王』の名を恣にした。