熊本県山都町、通潤橋。 江戸時代の技術の最高傑作と名高い、高さ約20.2mを誇る現役の水道橋だ。 水源に乏しいこの地の庄屋の夢からはじまったこの計画。 谷を挟んだ反対側の山から空を渡って水を通す。 この妄想を現実にしたのは石工の技術力と庄屋の決死の覚悟、そして住民の協力の成果だ。
江戸幕府成立後、対馬藩は板挟みにあった。 朝鮮の役で途絶えた交易を再開したいが、朝鮮も家康もその話は相手からしろという立場で平行線だったからだ。 更に朝鮮側からは王墓を荒した犯人を捕まえてこいという追加要求。 どうしても国交回復したい対馬藩は、偽者と書類偽造で乗り切ることにした。
一般道国内2位の道路は新潟市にある新潟バイパスだ。 1970年より順次開通していったが、計画当時は否定的な声が多かった。 「新潟みたいなクソ田舎にこんな高規格な道路が必要あるのか?」 だが、北陸地方建設局は交通量増を確信し、当時の建設省を説き伏せて建設。 今や新潟市の大動脈となった。
明治初期、維新後の東京奠都による人口減により、京都の産業は打撃を受けた。 京都は盆地。水源の確保と舟運に難があり、近代化の世の中で没落する危機感があった。 そこで京都府は琵琶湖から山をぶち抜き水路を通す計画を発案。 主任技師はお雇い外国人ではなく、大学卒業直後の日本人を抜擢した。
日本の交流電源の周波数は西が60Hz東が50Hz。 これは明治時代に、大阪が米国製、東京がドイツ製の発電機を導入したことに由来する。 戦後、現在の電力会社体制に継承されたため、東の電力会社は50Hzなのだが、例がある。 佐渡ヶ島だ。 佐渡だけ西と同じなのには、金山と離島であることが絡んでいる
江戸前期までの井戸の掘削方法は穴に人が入る必要があり、危険かつ深く掘れなかった。 その後金棒を突き崩し掘り進める方法ができたが、掘り進めると金棒が長く重くなり人数を要した。 そこで明治初期、竹や木など材料を加えて掘削する『上総掘り』が開発。 これにより数人で最高500mも掘削可能に。
どれだけ電子情報技術が発展しようと、コンテナを使った物流の仕組み自体は不変。 21世紀現在の港湾はクレーンなどの自動化をますます進め、更なる物流コスト低減に努めている。 なお、日本ではクレーン職人の腕が凄すぎるため、自動化があまり進んでないらしい。 #にいがたさくらの小話 その162改
物流の革命は世界の在り方も変えた。 現地で生産したほうが安かったものも、物流コストの低下により海外からの輸入のほうが安くなる場合も増えた。 コンテナ船はどんどん大型化し、港湾のクレーン設備も洗練されていく。 こうして益々安価となった物流により、世界規模で製造業の分業体制が確立。
コンテナは規格化されているので、ブロックのように積み込むことができ、鍵もかけられるため、盗難のリスクもない。 更に陸揚げ後、そのままトレーラーに搭載可能なので、いちいち積み替える必要もなく輸送が可能となった。 安価で効率的な輸送システムの確立により世界規模で物流の総量が増えていく
四角い箱に詰めて輸送するという発想は以前からあったが、海と陸の輸送システムを統合するという発想は1950年代の米国から始まる。 それまでの輸送はバラバラの荷物を荷役する必要があり、人手と時間が膨大にかかっていた。 当時の港湾労働者は荒くれ者も多く、中には荷物を盗むものもいたそうだ。
20世紀最大の発明品とも呼ばれるコンテナ。 どう見てもただの箱なのだが、この箱が齎したのは物流コストの大幅な削減。 一説には40分の1にもなったとも言われている。 1950年代の米国から始まったコンテナ輸送は、海、陸の輸送システムを統合し、効率的な物量を可能にした。 ただの箱と侮るなかれ。
鳥取県はかつて、島根県に併合されていたことがあった。 明治9年のことである。 どうでもいいのだが、本人たちにとっては一大事。 鳥取人たちは一致団結。 裏に表に様々なレジスタンス活動を行って、明治14年、鳥取県は独立を果たす。 ちなみに、独立記念日9月12日は鳥取県民の日となっている。
江戸中期、銀山からの銀の産出量が減ると銀の含有量を減らして使っていた。 だが海外はそんな事情知らない。 当時朝鮮人参は朝鮮からの輸入しかなく、足元を見られていた。 「含有率を戻さねば受け取れぬ」 結局、幕府に泣きつき人参代を支払う為だけの銀を作って貰った。 それが人参代往古銀だ。
江戸中期、天明の大飢饉では特に東北地方の米が壊滅した。 現在の岩手県奥州市江刺区も餓死者が続出し経済が崩壊。 米以外の産業を興せないか? この地には、平泉文化が残した木工技術と、初代藩主·伊達政宗が残した派手好みな気質があった。 この2つを組合せて商品化したのが、岩谷堂箪笥だ。
現在様々な國やメーカーで折る刃式カッターが作られているが、刃の世界規格は当時開発者が試行錯誤をして導いた寸法がベース。 製造業が海外に移転する時代を経た今でもOLFAはずっと日本製に拘る。 試行錯誤して切り拓いたカッターという製品の品質を守るために。 #にいがたさくらの小話 その364
こうしてリリースされた折る刃式カッターナイフは口コミで広がっていった。 なにせ実際に使う人が作ったのだから、使い勝手は抜群。 その後、独立してブランド名をOLFAとした。 海外展開を考慮してHの発音がない言語でも読めるようにFにした。 思惑の通り、その後OLFAは海外に展開していく。
折る刃式。 切れ味が悪くなると刃を折り、新しい刃を出すという発明は、靴磨き職人からヒントを得た。 革靴の靴底を仕上げる際、ガラスの破片を使っていたのだが、切れ味が悪くなると更に割って使っていた。 割り方は板チョコからヒントを得た。 こうしてアイデアは出たものの、実用化はまだ先。
戦後、紙を切る道具は主にカミソリが使われていた。 カミソリの刃先で切っていたのだが、使っていくうちに次第に切れなくなっていく。 大部分は大丈夫なのに切先だけ悪くなると取り替える必要があり、勿体なかった。 大阪の印刷会社に勤めていた男が、その常識を覆した。 それが折る刃式カッターだ
バレーボール製造で有名なミカサとモルテンは広島市発祥で現在も本社がある。 なぜ広島なのかには理由がある。 大正時代、古くからの伝統工芸だった広島針が好景気に乗り、東南アジアへ進出。 帰り便で東南アジア名産のゴムを積んで帰ってくる。 ゴムと針が広島で出会い、そしてボールが生まれた。
原爆ドーム。 原爆の爆心地近くにありながらも原型を留めており原爆の生々しさを伝える世界遺産だ。 原爆には耐えれたが、そもそも建物なので年々経年劣化していく。 そのため補修が必要となるのだが、特有の難しさがある。 原爆ドームは既に壊れており、壊れている状態にこそ価値があるからだ。
アフリカで産まれた人類は当時の陸地を通り世界中へと広がったが、太平洋諸島は陸続きではない。 現在の台湾やフィリピンあたりから2000年以上かけて太平洋の島々へと長い航海を経て移住する。 それもカヌーで。 長い航海に耐えれぬ者たちが淘汰された結果、現在の彼らはほぼ全員ガタイがいい。
この後地元に帰った彼らは、多くを語らなかった。 幕府に他言するなと厳命されていたのもあるが、元々の知識が乏しかったため情報がオーバーフローしてしまったこともあるだろう。 だが彼らが皇帝から賜った上着は現在も地元で大切に保管されている。 #にいがたさくらの小話 その361
日本人が初めて世界一周したのは江戸中期。 しかもただの庶民だった。 1793年に石巻から船で江戸へ向かう途中で漂流し、アリューシャン諸島へ。 その後ロシア人に助けられイルクーツクへ。 10年程滞在した後、ペテルブルグで皇帝に謁見し、なんやかんやあって1804年に長崎まで輸送され故郷へ辿り着く
このあとに漂流したゴンザの話はこちら twitter.com/monkey_across/…
日本は江戸時代前期、ガチガチの鎖国状態。 そんなことはつゆ知らず、デンベイにロシア語をロシア人に日本語を学ぶよう指示。 だが、まだまだ航海技術が未発達な時代。 ロシア極東もまだまだ未知な場所が多かった。 ロシア人が日本にくるのはだいぶ先となる。 #にいがたさくらの小話 その33改