ピョートル大帝は希望を抱いた。 こいつ、オランダが言ってたあの国の人間じゃね? 当時の極東探検には膨大なコストがかかっていた。川船による輸送はあれど、本国から遠く、物資輸送だけでも費用は嵩む。 よく知らないけど、そんなに近くに文明国があるのであれば、物資輸送しなくてもいいじゃん。
伝兵衛は困惑した。 大阪谷町の質屋の息子だった彼は、江戸への航海中に遭難。 流されてカムチャツカに辿り着いた時には生存者はワシだけ。 現地のイテリメン人に捕縛されていたところを、救助されたはいいが、モスクワってどこやねん! ちなみに、江戸→インド、大坂→ウザカと間違えられていた。
17世紀末、極東を探検中のロシア人は奇妙な男を発見。 男は上品な漆器、陶磁器を持っている。只者ではない。 だが言葉が通じず、事情聴取不可。 そこで男をモスクワまで輸送し皇帝に謁見。 聞き取れた言葉を基に『インド帝国のウザカ人·デンベイ』と報告した。 これが日本とロシアの初接触だった。
明治初期の日本といえば、人力車。 実はこの形の人力車は当時諸外国にはなく、明治2年に東京で発明されたという。 外国人が乗る馬車をヒントに、大八車というリアカーとを組み合わせた発明だ。 なぜ馬車ではなく人力車だったかというと、当時の日本では馬より人間のほうがコストが安かったからだ。
大正時代、日本社会は複雑化した。 複雑な社会はソロバンでは対応できない複雑な計算の需要を生む。 電子機器などない時代。 計算需要に応えたのが歯車を使った計算機。 当時の日本で売れまくったのがタイガー計算機。 はじめは虎印計算機という名だったが、舶来品っぽく見せるため改名し人気を博す
私はプリキュアオタクなので、娘にどのプリキュアを見せればよいかの相談をよく受けます。 私の答えは毎年同じで、今やってるプリキュアです。 プリキュアは毎年その年を生きている幼女のために作られています。 初代は名作ですが、20年も前の作品です。我々が1stガンダムに感じる古さと同じです。
薬用養命酒。 日本一有名な薬酒だ。 伝説では1602年誕生。江戸幕府より古い歴史を持ち、抜群の効果は口コミで広がり、伊那地方では誰もが知ってる超有名な酒だった。 企業になるのは大正時代。 伊那地方で超人気なら、東京にいけばもっと売れる。 そう目論んで東京進出したが、全く売れなかった。
日本有数の穀倉地帯である越後平野。 しかし100年前までの越後平野は、3年に1回洪水が起きる超災害地域だった。 洪水の水は平野に留まり沼地となる。 農業生産性は著しく悪くなり、僅かに取れた米も不味かった。 そんな状況を一変させたのが、大河津分水路 信濃川をコントロールする一大土木事業だ
ものづくりの街·新潟県三条市の市がやってる求人サイト。 業種が、製造業かその他しか選択肢がないww
第一次世界大戦で欧州の主要都市が戦果に見舞われ、英国は困った。 銀食器が手に入らない! 開戦前はドイツから輸入していた銀食器。 彼らにとって銀食器はステータスを示す道具でもあった。 大正時代。まだ日本には洋食器が普及してない状況。 だがそんな中、銀食器を作ったのが新潟県燕市だ
金属加工の一大集積地、新潟県燕三条エリア。 ここには極太麺に背脂がのった独特のラーメン、燕三条背脂ラーメンがある。 発祥のラーメン店は昭和8年の創業と古いが、創業当時に出していたラーメンは一般的な中華そばだった。 だが、金属加工職人たちにあわせて変化した結果、こうなったのだという。
戦乱の戦国時代が終わっても、北東北の南部藩には殺伐とした気風が残っていた。 せっかく盛岡城と城下町を作ったのに、家臣は一狩りしようとする輩ばかり。 藩主は文化的な生活を根付かせるため、茶の湯に着目。 そして京から鋳物師を呼び、茶道具を作らせた。 盛岡の南部鉄器はこうして始まった。
江戸中期、天明7年の打ちこわしは大坂や江戸を始め各地で起こった。 原因は米不足。 勿論、京都でも米不足だったが、京都では打ちこわしが起きなかった。 代わりに京都御所の塀周辺を巡り、賽銭を投げ入れた。 最盛期には約5万人が御所周辺に集まる規模に。 人々は当時権力のない天皇に救いを求めた
シヤチハタの創業者は元々、薬問屋で働いていた。 日々薬袋にハンコを押す仕事だが、当時のスタンプ台はすぐに乾き、都度補充が必要だった。 そこで塗料を改良した『万年スタンプ台』を作り1925年発売、一躍人気商品に。 だが、今我々が知る『シヤチハタ』はこの自社商品を否定することから始まった
打ちこわし 江戸時代の都市で、飢饉などによる物価高の際に値を吊り上げて私腹を肥やす商人や役人の店や家を襲撃する行為のことだ。 だが打ちこわしにはルールがある。 盗みや人に危害を加える等は禁止。 見物していた武士が『誠に丁寧に狼藉仕り候』と感想を述べるほど、秩序のある集団行動なのだ
コカ・コーラを心待ちにしていた道民も愛想を尽かし、ガラナを飲む。 こうして北海道に定着したガラナは、3年後のコカ・コーラ上陸以降も生き残れたのだ。 当時の思いが現代まで受け継がれているかはわからないが、ガラナは今日も北の大地で飲まれている。 #にいがたさくらの小話 その163改
コカ・コーラは正に王者だった。 本格的に輸入が始まると、コアップガラナは各地で窮地に立たされた。 ギリギリ間に合わせたガラナでは、人々に定着する前に剥がされてしまったからだ。 だが、北海道にはコカ・コーラはやってこなかった。当時の物流の関係上、後回しにされたのだ。
ブラジル原産の植物ガラナ。 それが彼らの結論だった。 そこからの動きは早かった。なにせコカ・コーラ上陸は待ってくれない。 ブラジル大使館との直接交渉や日系人などのツテを頼り統一ブランド『コアップガラナ』を開発。 1960年だった。 1961年コカ・コーラ輸入自由化にギリギリ間に合わせた。
全国清涼飲料協同組合は、コカ・コーラの味を知っていた。 戦前から細々と輸入されていたし、戦後の進駐軍も愛飲していたからだ。 故に危機感がめちゃくちゃあった。 当時から世界的に普及していたコカ・コーラだが、ブラジルでは苦戦していたことを知る。 ガラナとの出会いは、そこから始まる。
1960年代、コカ・コーラ本格輸入開始。 その情報にラムネやサイダーを作っている日本の中小企業は戦慄した。 あれは美味すぎる。 勝てない。 彼らはコーラに負けない飲み物を世界中から捜し出す。 そしてみつけたブラジルの飲み物に一縷の望みを掛けた。 それが現在の北海道名物。 『ガラナ』だ。
日露戦争以前、長崎にはロシア軍の保養地があり、越冬しに来るロシア人で賑わっていた。 そんな場所で、必死にロシア語を身につけ、美貌と度胸を武器にホテル経営で財を成したのが、稲佐のお栄(道長栄) ロシア軍の士官からマーチ(ママ)と呼ばれて愛され、高級将校や皇太子の接待も任されたのだという
幕末の長崎には女傑と言われた大商人がいた。 彼女の名は大浦慶。お慶さんだ。 江戸が黒船にビビってる時期、彼女はオランダを通じて諸外国に茶のサンプルを贈り、巨額の受注を受けて財を成した。 ちなみに彼女は、迎えた婿が気に入らず、祝言の翌日に追い出してしまったという逸話を持つ女傑だ。
島根県浜田市。日本海に面した島根県の田舎町だ。 江戸時代は浜田藩だったが、財政難に苦しんでいたが、武士たちにアイデアはなかった。 そこで、商人会津屋(今津屋)八右衛門が壮大な打開策を持ち掛けた。 浜田を拠点に朝鮮·清·東南アジアへと密貿易をするビッグビジネス。 勿論幕府には秘密だ。
更に家の設計までやっている。 黍殻を使って間取りを設計したそうだ。 暑がりだった彼が風通しに極振りした設計になっている。 ただし、目が視えない彼が設計したので、明かり採りが全く考慮されていないらしい。 現存して、土日は開放している。 #にいがたさくらの小話 その350
江戸後期~明治期に活躍した琴の名手、葛原勾当。 琴での業績もさることながら、彼は目が見えなかったにも関わらず、毎日日記を書いていたことでも知られる。 木製の活字と升目を考案し、自ら使って40数年間にも渡って膨大な量の日記を記した。 この器具は「東洋のタイプライター」とも呼ばれた。