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1984年にからし蓮根の真空パックによる集団食中毒事件が起きてからは一旦下火となってしまうが、組合を結成し、店の衛生管理等を徹底。
現在も熊本名物として君臨。
からし蓮根はツマミとして食べることもあるので、この話はいい酒の肴になると思う。
#にいがたさくらの小話 その164改
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殿様はこのからし蓮根を気に入り、以後、肥後細川家の秘伝として伝わっていく。
一般化するのは明治時代。
江戸中期から盛んに蓮根を作りまくっていた熊本県において、瞬く間に普及。熊本名物となる。
ちなみにこのときに、店によって細かいレシピのアレンジがあったため、店によって辛さが異なる。
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今でも神子原地区の農産物直売所に行くと、ローマ法王の名前が踊る。
絶大なブランド力は、常識に囚われては獲得できないのだ。
#にいがたさくらの小話 その60改
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ローマ法王庁には貢物を受取る文化があった。
日本からも古くは織田信長が献上している記録が残っている。これまでの日本からの貢物の中に米はなかった。
このことが当時、国内外の様々なメディアが取り上げた。
あまりにもキャッチーだったからだ。
そして神子原米は飛ぶように売れたのだという。
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最初にアポを取ったのは日本の宮内庁だった。だが、皇室御用達というハードルは高く、ポッと行っただけで獲得できるものではなかった。
次に依頼したのは米国大統領だったがこちらも玉砕。
そしてローマ法王庁だ。
神子原という名前だから、神の子という安直な発想だった。
だが、ローマ法王庁は快諾
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戊辰戦争では新政府軍に参加。
彼らが作ったアームストロング砲による城の破壊は、古い時代を新しい時代が壊す象徴ともなった。
新時代を迎えるには、相当の準備とトップのリーダーシップ、そして狂おしいまでの情熱が必要なのだ。
#にいがたさくらの小話 その76改
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鉄製大砲を作るための反射炉をはじめ、佐賀藩は自前での武器製造に躍起になった。
折しも黒船が来航し、世間が攘夷だー尊王だーと騒ぐ中、ガン無視して武器製造のための研究開発に没頭。
資金源の確保も抜かりなく、佐賀藩の名産·有田焼をヨーロッパに輸出する計画も進められていた。
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日本中が危機感を持つ前から危機感を持っていた彼らは、長崎に近い立地を活かし、西洋の軍事技術にのめり込んだ。
同時に藩士の知力の底上げ、教育改革も行う。
西洋の軍事技術が気に入った藩主は、黒船来航前に長崎に来航していたオランダの軍艦に乗船。
搭載されていた大量の大砲をその目で見た。
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幕末より50年以上前、佐賀藩はやらかしをしていた。
フェートン号事件だ。
長崎に近い佐賀は長崎警固の役目がある。
そこに、突如英国船が現れたのだ。
警固要員もケチって僅かしか配置していなかったため、為す術もなく英国船の要求に応えた彼らは異国の脅威を知る。
力こそパワーの時代が来る。
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画像は「協和:満鉄社員会機関誌」昭和14年10月1日号よりお借りしました。
参考文献は「満鉄会報」昭和39年10月10日号です。
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そんなこんなで戦地に投入された興亜一心刀が、戦車や砲弾が支配する近代戦においてどれほど活躍したのかはわからない。
だが、日本刀は魂。精神的な拠り所にはなった。
戦後は美術品でもない上に日本刀のカテゴリからも外されたので、その殆どが消えてしまった。
#にいがたさくらの小話 その21改