江戸時代、戦乱がなくなり太平の世となり経済が発展したが、寺社は困窮した。 寺の補修のためにはカネが欲しいが、寺には仏様しかいない。 そこで、江戸や京都、大坂へ出向き、寺社が持つ秘宝·秘仏を公開する出開帳を始める。 推しが地元で見れるとあって信者達が集い、大規模イベントとなった。
日本初の横文字の薬『ウルユス』は鎖国中の江戸後期の大坂で生まれた。 蘭方やアルファベットも書かれており、西洋からの舶来品のように見えるが、実は中身は漢方薬で大坂で作られたモノ。 オランダ語も微妙に間違えているニセ舶来品だ。 だが、ちゃんと薬としての効き目はあり、かなり売れたらしい
一般的水道補修業者の看板です。
グンゼは明治期から生糸製造の会社。 戦時中は布系の軍需品、終戦直後は足袋等を作っていたが、国の統制が終わると経営不信に。 「工場は閉鎖だ。もし新事業があるなら10日以内に持って来い。ただしカネは出さん」 言われた工場長は、工場を守るために新事業を提案。 これが現在の肌着事業に繫がる。
明治時代の日本の花形産業は製糸業だった。 現在の京都府綾部市も、江戸期から京都の織物用の生糸を作っていた地域の一つ。 明治18年に行われた品評会へも満を持して出品。 だが結果は酷評だった。 このままではこの地域は滅ぶ。 その危機感で設立されたのが、郡是製糸株式会社。 現在のグンゼだ。
1984年にからし蓮根の真空パックによる集団食中毒事件が起きてからは一旦下火となってしまうが、組合を結成し、店の衛生管理等を徹底。 現在も熊本名物として君臨。 からし蓮根はツマミとして食べることもあるので、この話はいい酒の肴になると思う。 #にいがたさくらの小話 その164改
殿様はこのからし蓮根を気に入り、以後、肥後細川家の秘伝として伝わっていく。 一般化するのは明治時代。 江戸中期から盛んに蓮根を作りまくっていた熊本県において、瞬く間に普及。熊本名物となる。 ちなみにこのときに、店によって細かいレシピのアレンジがあったため、店によって辛さが異なる。
当時の熊本城のお堀には蓮根が植えられていた。植えたのは細川家が来る前の熊本城主·加藤清正。 南の薩摩を抑えるため、熊本城は籠城戦が出来るよう、あらゆるものが食える仕様になっており、蓮根もその一つ。 この蓮根に麦味噌と和辛子を混ぜたものを入れると、細川家の家紋、九曜紋にも見える。
肥後細川家の殿様は病弱だった。 殿を心配する家臣達は、地元で取れる上に滋養強壮効果のある蓮根に着目した。 「これならいける」 だが殿は嫌った。 「泥まみれで、穴の空いた物など食えるか!」 なんとかして食わせたい。 そこめ城の料理人が必死で考え出したものが、熊本名物『からし蓮根』だ。
長野県民は長野県のことを信州と呼ぶ。 特に県の中南部ではそれが顕著だ。 彼らは長野市が県の中心であることを認めていない。 だから長野県という名前ではなく、旧国名に由来する信州と名乗る。 彼らは明治以降、様々な抗議、抵抗運動を起こす。 かつては県庁が炎上するほどに苛烈だったという。
京都で祇園精舎ってどこですか?と問われた時に用いる画像を入手した。
幕末は蒸気船と共に始まった。 聡明な藩主達は新時代到来を予見し、蒸気船製造の研究を進めた。 薩摩·水戸·佐賀等の名だたる大藩の中に、中規模藩の伊予宇和島藩もいた。 「藩内に蒸気船が作れそうな者はおらぬのか?」 その問に家老は一人の男を推挙した。 貧乏長屋に住む提灯張替職人のおじさんを
今でも神子原地区の農産物直売所に行くと、ローマ法王の名前が踊る。 絶大なブランド力は、常識に囚われては獲得できないのだ。 #にいがたさくらの小話 その60改
ローマ法王庁には貢物を受取る文化があった。 日本からも古くは織田信長が献上している記録が残っている。これまでの日本からの貢物の中に米はなかった。 このことが当時、国内外の様々なメディアが取り上げた。 あまりにもキャッチーだったからだ。 そして神子原米は飛ぶように売れたのだという。
最初にアポを取ったのは日本の宮内庁だった。だが、皇室御用達というハードルは高く、ポッと行っただけで獲得できるものではなかった。 次に依頼したのは米国大統領だったがこちらも玉砕。 そしてローマ法王庁だ。 神子原という名前だから、神の子という安直な発想だった。 だが、ローマ法王庁は快諾
石川県羽咋市神子原地区。 里山の中にひっそりと棚田が広がる場所で、そこで取れるコメは旨いのだが、認知度が低かった。 「誰か有名人に食べてもらってブランド化しよう!」 様々な場所に依頼をかけるが、難しかった。 だが一箇所だけOKの返事が来る。 こうして神子原米は、ローマ法王に献上された
戊辰戦争では新政府軍に参加。 彼らが作ったアームストロング砲による城の破壊は、古い時代を新しい時代が壊す象徴ともなった。 新時代を迎えるには、相当の準備とトップのリーダーシップ、そして狂おしいまでの情熱が必要なのだ。 #にいがたさくらの小話 その76改
鉄製大砲を作るための反射炉をはじめ、佐賀藩は自前での武器製造に躍起になった。 折しも黒船が来航し、世間が攘夷だー尊王だーと騒ぐ中、ガン無視して武器製造のための研究開発に没頭。 資金源の確保も抜かりなく、佐賀藩の名産·有田焼をヨーロッパに輸出する計画も進められていた。
日本中が危機感を持つ前から危機感を持っていた彼らは、長崎に近い立地を活かし、西洋の軍事技術にのめり込んだ。 同時に藩士の知力の底上げ、教育改革も行う。 西洋の軍事技術が気に入った藩主は、黒船来航前に長崎に来航していたオランダの軍艦に乗船。 搭載されていた大量の大砲をその目で見た。
幕末より50年以上前、佐賀藩はやらかしをしていた。 フェートン号事件だ。 長崎に近い佐賀は長崎警固の役目がある。 そこに、突如英国船が現れたのだ。 警固要員もケチって僅かしか配置していなかったため、為す術もなく英国船の要求に応えた彼らは異国の脅威を知る。 力こそパワーの時代が来る。
薩長土肥。 幕末に活躍した4つの藩のことだ。 西郷どんの薩摩藩、テロも辞さない長州藩、日本の夜明けぜよの土佐藩と比べて肥の知名度は低い。 肥前佐賀藩。SAGAのことだ。 佐賀藩は幕末最強の軍事技術で活躍したのだが、なぜ佐賀藩がその役を担えたかには理由がある。 藩主がミリオタだったからだ
辛子明太子のルーツは朝鮮半島。 明太(スケトウダラ)の魚卵漬けがルーツで、戦前には朝鮮在住日本人にも親しまれていた。 戦後日本人が、明太魚卵漬けを韓国から取り寄せるが、韓国人が韓国人のために作った明太魚卵では辛すぎた。 それを、日本人向けに改良したのが福岡名物、『辛子明太子』だ。
蛇足ですが、南満州鉄道株式会社の広告にも、『興亜一心刀の製作』と書かれてますね。
画像は「協和:満鉄社員会機関誌」昭和14年10月1日号よりお借りしました。 参考文献は「満鉄会報」昭和39年10月10日号です。
そんなこんなで戦地に投入された興亜一心刀が、戦車や砲弾が支配する近代戦においてどれほど活躍したのかはわからない。 だが、日本刀は魂。精神的な拠り所にはなった。 戦後は美術品でもない上に日本刀のカテゴリからも外されたので、その殆どが消えてしまった。 #にいがたさくらの小話 その21改