市役所の熱意に押され、ふるさと納税の返礼品になると、さらにネットで火がつく。 ネタではなく、ガチな需要も発生。一時はSNSに投稿が相次いだという。 むつ市長も認めたホタテ水着。 陸奥湾のホタテは、美味しい。 食べる以外でも、2度美味しいのだ。 #にいがたさくらの小話 その327
戦前の南米ペルーには「綿花王」と呼ばれた日本人がいた。 彼の名は岡田幾松。 小学校中退の彼は、21歳のとき広島県から移民1世としてペルーに行き、大農園の過酷な労働条件下で頭角を現す。 変化する時代にチャンスを見出し、男気と度胸で事業を拡大し、多くの日本人·ペルー人を従える王となった。
等間隔に人を配置し、当時の最新技術である望遠鏡を持たせ、通信プロトコルに従って通信する。 江戸大坂間は箱根の山越えがあるため、そこだけ米飛脚に頼ることになる。 瀬戸内沿岸ならほぼノータイムで交信できた。 ちなみに神戸市に旗振山という山があるが、名前は旗振り通信に由来する。
遷都には莫大なインフラが必要。政権を取ったばかりの維新政府にはそれを作るカネもノウハウもなかった。 しかし、新政府は外国に対して政権の証である首都をアピールしたい。 様々な意見が出る中、決め手となったのは後に郵便の父と称される前島密が匿名で送った意見書だとされる。(諸説あり)
四角い箱に詰めて輸送するという発想は以前からあったが、海と陸の輸送システムを統合するという発想は1950年代の米国から始まる。 それまでの輸送はバラバラの荷物を荷役する必要があり、人手と時間が膨大にかかっていた。 当時の港湾労働者は荒くれ者も多く、中には荷物を盗むものもいたそうだ。
売り出した当初は全く売れないどころか、フタから液漏れがあり、商品回収などでマイナスだった。 それでも彼らは若者を諦めなかった。 フタは改善され、新たな販路を自販機や駅のキヨスクなどへ広げる。 電車で移動中に呑める酒が手軽に買える。 キヨスクへの導入はまさにイノベーションだった。
そこで注目されたのが、長崎の波佐見焼。 波佐見焼に醤油を詰めコルクで封をして輸出することで、ワインのように劣化を抑えれる。 焼く際にはオランダ語でJAPANSCHZOYA(日本の醤油)という商品名とコンプラ株仲間を意味するコンプラドール(ポルトガル語で仲買人という意味)の略語CPDと書かれた。
こうして完成した砂時計は砂暦と名付けられ、サンドミュージアムに設置。 後に、漫画やドラマ、映画の舞台になるなど、大田市仁摩町を代表する施設として成長。 2016年にはギネスにも認定された。 完成から32年。砂時計は現在も、町の風景の一部として時を刻んでいる #にいがたさくらの小話 その390
江戸前期までの井戸の掘削方法は穴に人が入る必要があり、危険かつ深く掘れなかった。 その後金棒を突き崩し掘り進める方法ができたが、掘り進めると金棒が長く重くなり人数を要した。 そこで明治初期、竹や木など材料を加えて掘削する『上総掘り』が開発。 これにより数人で最高500mも掘削可能に。
日露戦争以前、長崎にはロシア軍の保養地があり、越冬しに来るロシア人で賑わっていた。 そんな場所で、必死にロシア語を身につけ、美貌と度胸を武器にホテル経営で財を成したのが、稲佐のお栄(道長栄) ロシア軍の士官からマーチ(ママ)と呼ばれて愛され、高級将校や皇太子の接待も任されたのだという
こうして日本商船隊は再建を果たし、1969年には英国商船隊を抜くほど復興を遂げる。 現在でも日本の商船隊は世界三位のシェアを持つほどの存在だ。 人は宝。政府に裏切られても強い組織を作ることが大切なのかもしれない。 #にいがたさくらの小話 その292
梱包とは、商品の価値をも向上させる物。 それにいち早く気づき、生涯を賭して人々に伝えたことに彼の功績はある。 ちなみに現在、米俵の内容量は60kg(4斗)だが、これはこのときの運動の中で、次第に統一されたもので、今の米袋(30kg)にもつながっている。 #にいがたさくらの小話 その392
若い子に、「前提を擦り合わせないとアンジャッシュのネタみたいになるぞ」と指導したら、若い子はアンジャッシュのネタを『多目的トイレでいけないことをする』と認識したらしく、まさにアンジャッシュのネタみたいな事象が発生した。
1927年に65歳で亡くなり、その後会社は1950年に潰れる。 だが、彼が日本の電機業界に残した業績は大きい。乾電池という言葉も彼が名付け親とされる。 彼の情熱の詰まった乾電池。液漏れしないように管理したいものだ。 #にいがたさくらの小話 その320
昔は大学の合格発表は紙で貼り出されるスタイルだった。そのため、遠隔地に住む受験生は合格発表を見れず、通知が郵送されるまで待ち焦がれていた。 そこで、大学の近所に住む学生が受験生からお金を取って代わりに見て、合否を電報するサービスを始める。 合格の時の電文の言葉は、サクラサクだ。
1704年にイギリスで創刊された年刊雑誌、レディースダイアリー。 当初はその名の通り淑女のための雑誌で、恋愛や王室の話、なぞなぞなどが書かれていた。 しかし当時の淑女は知的好奇心を満たすものを渇望していた。 それに応えて変化していくうち、なぜか数学の専門雑誌となってしまった。
江戸中期、銀山からの銀の産出量が減ると銀の含有量を減らして使っていた。 だが海外はそんな事情知らない。 当時朝鮮人参は朝鮮からの輸入しかなく、足元を見られていた。 「含有率を戻さねば受け取れぬ」 結局、幕府に泣きつき人参代を支払う為だけの銀を作って貰った。 それが人参代往古銀だ。
こうして完成した佐久間ダムにより、現代土木技術が培われその後の様々なダム建設に繫がっていく。 1956年の竣工から今まで、首都圏と中京圏に電力を供給し続ける佐久間ダム。 ちなみに電力系統は東西で周波数が違うので融通が難しいが、佐久間は両方で発電可能だ。 #にいがたさくらの小話 その145
爆発的に伸びた中国系だったが、失速は早かった。故障が相次いだのだ。 一方でホンダは必要でない性能は落としたが、必要な性能は残した設計だった。 価格は中国系よりも少し高いレベルだったが、ベトナム人はホンダを選んだ。 低価格を軸に二輪車の頑丈さ、サービスなどでホンダはシェアを伸ばす。
沖縄本島から東に300km以上離れた絶海の孤島。沖縄県南大東島·北大東島。 明治から戦前まで、ここは企業が支配する島だった。 行政のすべてを企業が行い、市町村制が施行されなかっただけでなく、島の中では日本円が通用せず、企業による独自の紙幣が使われていた。
後に「からくり儀右衛門」と呼ばれる天才からくり士、田中久重は1799年(寛政11年)の生まれ。 しかし彼の業績はからくりだけに留まらない。 明治14年82歳の生涯を終えるまで、移りゆく時代やニーズにあわせ、発明をし続けた。 73歳で明治政府から近代化のための人材として直オファーがくるほどに。
バレーボール製造で有名なミカサとモルテンは広島市発祥で現在も本社がある。 なぜ広島なのかには理由がある。 大正時代、古くからの伝統工芸だった広島針が好景気に乗り、東南アジアへ進出。 帰り便で東南アジア名産のゴムを積んで帰ってくる。 ゴムと針が広島で出会い、そしてボールが生まれた。
金属加工の一大集積地、新潟県燕三条エリア。 ここには極太麺に背脂がのった独特のラーメン、燕三条背脂ラーメンがある。 発祥のラーメン店は昭和8年の創業と古いが、創業当時に出していたラーメンは一般的な中華そばだった。 だが、金属加工職人たちにあわせて変化した結果、こうなったのだという。
日本有数の穀倉地帯である越後平野。 しかし100年前までの越後平野は、3年に1回洪水が起きる超災害地域だった。 洪水の水は平野に留まり沼地となる。 農業生産性は著しく悪くなり、僅かに取れた米も不味かった。 そんな状況を一変させたのが、大河津分水路 信濃川をコントロールする一大土木事業だ
彼が乾電池作りに情熱を注ぐキッカケにはあるエピソードがある。 現在の東工大の前身を受験する際に、町中の時計が狂っていて5分遅刻したため、受験できなかった。というもの。 当時の時計は手巻きのネジ巻式で、時間がズレることがあった。 これを改善したい。彼はそう決意したという。