結局無尽蔵に砂を採取できる山形県の地層に埋まっている砂にした。それをひたすらふるいにかけた。 砂の選定以外にも問題があった。 それは大きすぎるので、砂時計の上と下で温度が変わるため、物理法則に従い砂時計中の空気圧力が変わるというもの。 容器内の圧力を精密制御する機器を導入し解決。
江戸時代までの蚊対策は蚊遣火を熾して追い払う物だったが、夏の昼間にキャンプファイヤーするのは熱すぎた。 そこで出てくるのが除虫菊。殺虫効果の高いコイツを入れて拡散させると蚊が寄ってこない。大掛かりに火を熾さなくても、線香に練り込めば……。 こうしてできたのが、世界初の蚊取り線香だ
日本は江戸時代前期、ガチガチの鎖国状態。 そんなことはつゆ知らず、デンベイにロシア語をロシア人に日本語を学ぶよう指示。 だが、まだまだ航海技術が未発達な時代。 ロシア極東もまだまだ未知な場所が多かった。 ロシア人が日本にくるのはだいぶ先となる。 #にいがたさくらの小話 その33改
明治初期から戦前にかけて、赤道にほど近いオーストラリア北部の海へ出稼ぎを行っている日本人が大勢いた。 彼らは、白蝶貝採取を生業にした男たち。 特に莫大な収入が得られるダイバーは花形。 潜水病や潜水中の事故による死亡率が高かったが、故郷へ錦を飾るため水深50m以上の深さへ潜ったという。
新潟県長岡市山古志地区。 急峻な山々の間で棚田を作っている、雪深い静かな村だ。 だがこの村には、国内だけでなく世界中のバイヤーが集う一大産地がある。 それが、錦鯉だ。(芸人の方ではない) なぜこんな交通の便が悪い所で錦鯉の養殖?と思うかもしれないが、雪国ならではの深い事情がある。
ゲートボールは若者のスポーツとして昭和22年、北海道芽室町で生まれた。 戦後の物不足の中でも子供たちを外で遊ばせたい、という思いから簡素な道具やフィールドを使う競技となる。 技量よりもチームワークを重視したルールにした結果、老人達がドハマり。 現在では世界大会も開かれる競技に発展した
私はプリキュアオタクなので、娘にどのプリキュアを見せればよいかの相談をよく受けます。 私の答えは毎年同じで、今やってるプリキュアです。 プリキュアは毎年その年を生きている幼女のために作られています。 初代は名作ですが、20年も前の作品です。我々が1stガンダムに感じる古さと同じです。
物流の革命は世界の在り方も変えた。 現地で生産したほうが安かったものも、物流コストの低下により海外からの輸入のほうが安くなる場合も増えた。 コンテナ船はどんどん大型化し、港湾のクレーン設備も洗練されていく。 こうして益々安価となった物流により、世界規模で製造業の分業体制が確立。
プロ野球などで使われる木製バットの材質は北米からの輸入木材もあるが、日本では国産木材のアオダモがよく使われている。 特に寒冷地で育ったアオダモは軽くて反発力があり強靭なので北海道産は最高級品だ。 トッププロ達も愛用していたが、最近は入手困難だという。 資源枯渇したからだ。
明治初期に佐賀県で発明された製麺機·混合機によって、麺打ちが機械化されたが、そのことに不満を持つ者たちがいた。 香川県民だ。 当時の機械では、讃岐うどん独特のコシが出なかったのだ。 コシを出すためには体重をかけ足で踏む工程が必要。 だが1960年代には足踏みが不衛生と批判を受けてしまう
会社を設立して乾電池を売り出すが、当初は全く売れなかったのだという。 時代が早すぎたのだ。 転機になるのは、1904年の日露戦争。 軍事通信機用の電池の需要が急増。 質電池との競争となったが、乾電池に軍配が上がった。満州の厳しい冬の寒さの前に、湿電池が凍結し、使い物にならなかったのだ。
辛子明太子のルーツは朝鮮半島。 明太(スケトウダラ)の魚卵漬けがルーツで、戦前には朝鮮在住日本人にも親しまれていた。 戦後日本人が、明太魚卵漬けを韓国から取り寄せるが、韓国人が韓国人のために作った明太魚卵では辛すぎた。 それを、日本人向けに改良したのが福岡名物、『辛子明太子』だ。
ベトナムを愛している ホンダベトナムのスローガンだ。 大量のシェア獲得後も、ベトナムに寄り添った。 排ガス処理や車種の拡充、社会貢献により、ベトナムを愛した。 欠点は見た目がダサいと思う派がいるくらいで、そういう層はヤマハを買っている。 日本と同じだ #にいがたさくらの小話 その371
ピョートル大帝は希望を抱いた。 こいつ、オランダが言ってたあの国の人間じゃね? 当時の極東探検には膨大なコストがかかっていた。川船による輸送はあれど、本国から遠く、物資輸送だけでも費用は嵩む。 よく知らないけど、そんなに近くに文明国があるのであれば、物資輸送しなくてもいいじゃん。
現代の地震は各地の地震計によって計測され、それを元に震度や震源、マグニチュードなどを算定している。 地震計は明治時代に作られたため、それ以前のデータはない。 だが、巨大地震は数百年スパン。過去の地震についても知りうる限り調べる必要がある。 そこで活躍する資料が、庶民が残した日記だ
最初は鉄パイプに穴を開けて地下水を通しただけの単純なものだったが、威力は強力だった。 会社の私道で使われて実証され、公道にも採用される。 昭和38年の豪雪でその効果を見せつけると、北陸地域や山陰を中心に普及していく。 ちなみに北陸より北の東北だと地下水が凍ってしまうので使えない。
だが明治後期を境に化学合成された安価な藍に押され、昭和中期には最盛期の1万分の1にまで減少。現在は天然素材が持つ色合いと伝統で徐々に回復している。 世界的にも特殊な製造方法の藍だが、高価なため輸出実績はないらしい。 ジャパンブルーの未来に期待したい。 #にいがたさくらの小話 その228
『満州での勝利は乾電池によるもの』 この報道で彼は名声とお得意様を得る。陸軍はこぞって彼の乾電池を求めた。民需もそれに従い伸びていく。 需要に応えるべく量産体制を整え、売上は急増。 海外製品との競争にも勝ち、乾電池界の覇権を握る。 こうして彼は、『乾電池王』の名を恣にした。
アメリカから持ち帰ってきた特別高圧用のがいしを基に解析し、形、釉薬の研究を行い、国産の高圧用がいしを完成させる。 だが売り込みには苦戦した。不良品率が高かったのだ。 職人の腕のみに頼っていては、安定した製品が作れない。 製法を見直し、品質の向上に努め、海外製がいしを追い抜いた。
さらに、砂時計の容器が国内で作れないという問題にも直面。 ドイツの職人の力を借りることになるのだが、ドイツ人には巨大砂時計を本気で作るのか訝しむ。 ふるさと創生事業という日本の制度を不思議がりながらもなんとか説得。 ちなみに砂が流れる場所(オリフィス)は日本の職人の技で解決した。
買付業者のオランダ人は日本の醤油の旨さを知っていた。欧州のみならず、東南アジアに行って売り捌けば大儲けできる。 しかし風味が命の醤油。木製の樽での輸出で劣化し、高値で売り捌けない。 そこでオランダの船乗りが航海中に飲んでいた洋酒の空瓶を利用することに。 たが圧倒的に数が足りなかった
コカ・コーラは正に王者だった。 本格的に輸入が始まると、コアップガラナは各地で窮地に立たされた。 ギリギリ間に合わせたガラナでは、人々に定着する前に剥がされてしまったからだ。 だが、北海道にはコカ・コーラはやってこなかった。当時の物流の関係上、後回しにされたのだ。
そもそも当時の石炭は価格が高かった。 そしてなにより環境に悪い。 特に酸性雨の影響が叫ばれた時代。NOxやSOxの対応には石油火力より遥かに大規模な設備が必要となる。 だが石油一本でいいのか? 戦前の日本が石油輸入禁止で破滅の道へと加速したことも、当時の人間には鮮明な記憶だった。
会津藩は戊辰戦争後に消滅するが、様々な尽力により再興を許される。 その場所は会津から離れた、青森県下北半島。ヤマセで作物が実らない極寒の地。豊穣の会津盆地から見れば異世界だった。 耐え忍ぶことを美徳とする会津武士達でも大半が逃げ出す程の絶望的な環境でも彼らは懸命に生き延びた。
島根県奥出雲町の棚田は、1枚1枚が大きい。 これは奥出雲町の基幹産業だった、たたら製鉄の材料である砂鉄を取るために山を切り崩し続け、その跡地を棚田として利用したからだ。 ちなみに一部古墳のように盛り上がっている場所は、神社や墓などの神聖な場所で、そこだけ切り崩さなかった名残だ。