こうして明治農法と名付けられ、全国展開した農法により、水田の反収は飛躍的に進化を遂げた。 この後、日本の農学は確立し、品種改良や化学肥料等が普及していくわけだ。 ドイツの科学は世界一と日本の伝統を混ぜ合わせて僕らの祖先はコメを作っていたのだ。 #にいがたさくらの小話 その90
戦後、醤油は経済成長の波に乗れなかった。 醤油は生活必需品。豊かになったところで消費量が爆発的に増える訳ではないからだ。 そこで海外展開。進駐軍の米兵には好評だったが、和食普及前の世界。醤油の使い所がわからん人多数。 そこでまず、肉料理に醤油を使う手法をアピールした。 TERIYAKIだ
福神漬は明治初期の東京で生まれた。 7種類の野菜を使い、これさえあれば他のおかずは要らないから経済的という意味を込めて福神漬と名付けられ、あらゆるシーンで活躍した。 ところが明治30年代、福神漬は、太平洋上の豪華客船で運命の出会いを果たす。 相手はもちろんカレーライスである。
北海道伊達市 仙台藩亘理領の侍が集団移住して開拓した町だ 殿様自らが集団を率いて結束したため、旧藩士による北海道開拓の中でも指折りの成功を収めた 農家として成功しても彼らは武士 武士だった時代を知らない若い世代にも武士の誇りを見せてあげたい そして始めたのが、今も続く武者行列だ
水産商品輸送用のトラック輸送の需要は戦後拡大するが、海からの塩分を多く含む風や道路に撒いてある凍結防止剤の影響でよく錆びた。 そのため、寒冷地の八戸や石巻などではステンレス板で補強していた。 だが当時のトラックの運ちゃんは荒くれ者。補強ついでにデコる。 こうしてできたのがデコトラだ
江戸後期~明治期に活躍した琴の名手、葛原勾当。 琴での業績もさることながら、彼は目が見えなかったにも関わらず、毎日日記を書いていたことでも知られる。 木製の活字と升目を考案し、自ら使って40数年間にも渡って膨大な量の日記を記した。 この器具は「東洋のタイプライター」とも呼ばれた。
物資を大量に運ぶには現在でも船舶が使われているが、船舶は大きければいいものではない。 パナマ運河やスエズ運河が通れなければ大規模に迂回しなければならないためだ。 日本が中東から石油を輸入する用のタンカーにはこれらの運河を通る必要がないが、大きさ制限がある。 マラッカ海峡が狭いのだ。
ドイツ人が着目したのは農法ではなく土壌。 多くの地方では田んぼの水を抜かない方式だったため、深く耕せず土地が痩せたと指摘。 水を抜き深く耕す方法は実は既に日本にもあった。 江戸より前に朝鮮から伝えられ北部九州で継承されていた方式だ。 ドイツ人の根拠をもとに全国的に普及することに。
茶分科委員会の会議にて、日本はプレゼンを行う。最高級の京都府産抹茶と最高級の福岡県産玉露を携えて。 「原案の規格に示された成分表からは外れてしまうが、これらも緑茶です」 猛烈にアピールを行い、会議の参加者に味で納得させ、規格の脚注に玉露や抹茶の事情を明記してもらえることに。
1690年、日本に来たドイツ人医師·ケンペルは長崎の通詞(通訳)に怪しまれていた。彼の話すオランダ語がドイツ訛りだったからだ。 当時は鎖国の時代。オランダ人ではないとバレたら命が危うい。 彼は「自分は山オランダ人なので訛ってるんだ」とごまかして難を逃れる。 ちなみにオランダには山はない。
13世紀から1996年まで採掘されてきたポーランドのヴィエリチカ岩塩坑。 ここには壁も床もシャンデリアも十字架も全て塩でできた礼拝堂がある。 掘ったのは芸術家ではなく名もなき塩坑夫たち。 坑内は危険な労働環境だったため、塩坑夫たちは日々の生に対して祈り、その信仰心が芸術へと昇華したのだ。
玉露も抹茶の原料である碾茶も、生育過程で日光を遮ることで苦味成分であるカテキンを減らしたお茶だ。 原案には「緑茶は機能性成分のカテキン類が含まれることが優れた特徴。」と書かれており、その下限値が示されていた。 日本は議決権のない立場だったが、議長国の英国に掛け合い、問題点を指摘
現実のヨーロッパでも稲作はされている。 欧州の稲作は中世のスペインに始まる。 異教徒に支配されていた頃に稲作技術が持ち込まれ、気候条件のいい地域に定着していった。 水田作りには大量の水が必要なのだが、ローマ帝国時代に建設された灌漑用水路で賄っていたという。 (写真はイタリアの映画)
しかもここ、民間企業。 建てられたのはバブル期なので、今年で開園39年。 一時期はあまりにニッチ過ぎて来場者が伸び悩んでいたが、近年は映えとメシによって土日はかなりの人がいる。 一周2.5kmというクソ広い場所を世界各地の料理を食べ歩きながら回るのが、オススメだ。移動は腹ごなしになるし。
原子炉の歴史は古く、20数億年前に遡る。 勿論人類の創造物ではなく、地球が作ったもの 天然原子炉と呼ばれ、基本的な核分裂の仕組みは人工の原子炉と同じで、反応熱は水を沸騰させていた 原子炉ができるには様々な条件が必要だが、偶然が重なりまくって臨界し、数10万年程度核分裂を継続したという
最初は本気で攻めてきたと思っていた住民達は、鍬や鎌で武装。殺気立っていた。 村の数少ない知識人である小学校の先生が、白旗を見つけ、投降していることがわかる。 投降した者は丁寧に扱うのが国際的な条約。 攻めてきたのではないとわかると、村の人達は脱出用ボードを誘導し、乗組員を救助。
ダムを作るには村を沈めねばならないが、住民は当然反対する。 反対運動が激化し、建設が頓挫したダムもある。 御母衣ダムでも当初は反対運動が起こったが、トップが住民のもとへ足を運び、膝詰めで涙を流しながら語るなど、誠意ある対応により建設が進んだ。 その誠意の結晶が、荘川桜移植計画だ。
大正時代、日本社会は複雑化した。 複雑な社会はソロバンでは対応できない複雑な計算の需要を生む。 電子機器などない時代。 計算需要に応えたのが歯車を使った計算機。 当時の日本で売れまくったのがタイガー計算機。 はじめは虎印計算機という名だったが、舶来品っぽく見せるため改名し人気を博す
言葉が分からないが、相手は困った人間。 ロシア兵たちは、日本式の風呂にビビる。 釜茹でにして殺されるのではないか? そんな誤解を住民達は身振り手振りで応える。 また、寒さで凍えている少年兵に対して、人肌で温める母親もいたそうだ。日露戦争で戦士した我が子とダブったのかもしれない。
長野県民は長野県のことを信州と呼ぶ。 特に県の中南部ではそれが顕著だ。 彼らは長野市が県の中心であることを認めていない。 だから長野県という名前ではなく、旧国名に由来する信州と名乗る。 彼らは明治以降、様々な抗議、抵抗運動を起こす。 かつては県庁が炎上するほどに苛烈だったという。
原爆ドーム。 原爆の爆心地近くにありながらも原型を留めており原爆の生々しさを伝える世界遺産だ。 原爆には耐えれたが、そもそも建物なので年々経年劣化していく。 そのため補修が必要となるのだが、特有の難しさがある。 原爆ドームは既に壊れており、壊れている状態にこそ価値があるからだ。
鳥取県には一番危険な国宝がある。その名も投入堂。 断崖絶壁の岩の上にあり、更に上には岩が張り出しており、現代でもどうやって作ったのか不明だ。 手前に辿り着くにも岩登りを含む険しい登山が必要で、中に入るには崖をよじ登って行くしかないが、滑落の危険性があるので、中に入るのは原則禁止だ。
明治時代の知識人は西洋的概念をとにかく翻訳していった。 時代が下ると漢学が尊ばれなくなり、読みをそのままカタカナで表すことが一般的になる。 1930年に発見された冥王星も元々プルートーと音訳されていたが、冥王星と意訳されたのには理由がある。 冥王星のほうが、カッコいいからだ。
明治初期の日本といえば、人力車。 実はこの形の人力車は当時諸外国にはなく、明治2年に東京で発明されたという。 外国人が乗る馬車をヒントに、大八車というリアカーとを組み合わせた発明だ。 なぜ馬車ではなく人力車だったかというと、当時の日本では馬より人間のほうがコストが安かったからだ。
このマニ車もガチもんの関係者によって作られているので、法力も半端ない。 民族学に興味ある人はぜひ行ってほしい。 興味がない人はメシを食うだけでも楽しめるので、行ってほしい。 ちなみに屋内の常設展は開館以来ほぼ変わってないので、ちょっと怖い。 #にいがたさくらの小話 その338