内容に対するアンケートも取られ、兵士の需要に応えつづけた。 大戦後も駐留する米軍兵士への提供は続けられ、米軍が帰還するときには地元の人間に売られたり、捨てられたりすることとなるが、逆側から見れば、本来アメリカ国内で消費されていた文学作品などを大量に手にする機会ともなっていた。
熊本県山都町、通潤橋。 江戸時代の技術の最高傑作と名高い、高さ約20.2mを誇る現役の水道橋だ。 水源に乏しいこの地の庄屋の夢からはじまったこの計画。 谷を挟んだ反対側の山から空を渡って水を通す。 この妄想を現実にしたのは石工の技術力と庄屋の決死の覚悟、そして住民の協力の成果だ。
シアトル市には日本人移民も多く移住した。直接だけでなく、ハワイから再移住するものも多く、日本人街も成立した。 中華系の移民も多く、現在でもアジア系の割合は高い。 排日移民法や1929年の世界恐慌からはシアトルでも祖国に帰る人も増え、太平洋戦争後の強制収容で日本人街が消え現在に至る。
グンゼは明治期から生糸製造の会社。 戦時中は布系の軍需品、終戦直後は足袋等を作っていたが、国の統制が終わると経営不信に。 「工場は閉鎖だ。もし新事業があるなら10日以内に持って来い。ただしカネは出さん」 言われた工場長は、工場を守るために新事業を提案。 これが現在の肌着事業に繫がる。
まだ家に風呂があるのが珍しい時代。当時のメインターゲットは、銭湯。 扇風機もないので血行が良くなりすぎるのも考え物だった。 そこで、爽やかな香りと湯上がりの爽快感を高めた夏用入浴剤を開発し、1930年に発売開始。 入浴剤は、冬用の浴剤中将湯と夏用のバスクリンという2本立てになる。
今でこそ主力だが、オイルショック前の石炭火力発電所はバカにされていた。 石油が圧倒的に安く、環境影響が叫ばれた時代。価格が高くNOX,SOX対策が必要な石炭火力は価格勝負にすらならない程。ましてや石炭を輸入しての火力は想定外。 日本初の大規模海外炭火力はそんな逆風の中で検討されていた。
Armed services editionと銘打たれたペーパーバックは、大戦中需要が減っていた雑誌用の輪転機を転用し、効率的に生産された。 内容は全て既に作られた作品だが、様々な趣味を持つ米軍の兵士のために様々なジャンルの作品を採用。タイトルだけでも千を超える。 支給された兵士は仲間内で読み回した。
そこでできたワインは国内外で賞を受賞するほどに成長。 戦後農地改革で敷地面積は減るが、現在でも牛久シャトーとしてワインを製造し、国内外で高い評価を得ている。また洋風の建物も人気で、ドラマのロケ地としても使われている。 傳兵衛の拘りは今でも生きている。 #にいがたさくらの小話 その301
震災前からこの問題は言われていたが、震災で表面化した 通常と異なり、現場に来ているのは全国各地からの医者 地元の方言は理解できても、東北方言はわからない 現場のニーズに即応するように2011年9月には試作1版、2011年11月には試作2版が完成 現場の声を反映しつつ2012年3月に完成版ができた
八丈人との意思疎通の結果、島の人は英語ベースの言葉を母語としながらも日本語を理解可能に。 私的な場では英語ベースの言葉を、公的な場では日本語と使い分ける。その後日本語に慣れた世代が増え、日本語をベースにした言葉を私的にも使用するように。 だがその頃から米軍統治下となり英語になる。
津軽藩士たちも、珍品コレクターの情熱を察知していた。 「コイツが何なのかはよくわからんけど、江戸に持っていけば売れる」 彼らは参勤交代の際に手土産として土器を持っていった。 地元人達も、適当に掘り起こしてサムライに売り渡した。 乱掘された土器は完成品だけでも数千にのぼるという。
日露戦争の勝利は漁業にも大きく影響を与えた。カムチャッカ沿岸に大量の日本漁船が押し寄せたからだ。彼の地は鮭·鱒·蟹の好漁場。漁師は小説·蟹工船並に働き、獲りまくる。 ロシアがソ連になっても北洋漁業は繁栄を謳歌。海上の失地回復をしたいソ連は日本側にこう提案した。 「労働基準法を守れ」
こうしてオカルトマニアが集う村になった新郷村だが、思わぬ効果もあった。 エルサレム市から友好の石碑が送られたのだ。記念式典には駐日イスラエル大使も参加した一大イベントに。 ちなみにその時のイスラエル大使は、 「ここがキリストの墓かどうかはわからないが何か関係があったかも」と発言。
日本では、合格したらサクラサク、不合格ならサクラチルと花で例えるが、これは電報の文章が由来。 一方、1000年以上科挙というペーパーテストを行ってきた中国では、今でも当時から使われている合格、不合格を示す四字熟語がある。 合格の場合は「金榜題名」 不合格の場合は「名落孫山」 という。
日本の大都市の起源は例外を除けば、戦国末期~江戸時代に成立したものが多い。これは治水技術の発達により沖積平野が開発できたから。 農業も同じでそれまで開拓不可の平野部を開発しまくるが、18世紀になると頭打ちに。 だが農民は生産性を向上させたい。 そこで彼らが取った策は『勤勉になる』だ。
終戦前後は生産を中止したものの、しばらくしてから復活。 高度経済成長は彼らにとって超ビジネスチャンスだった。家庭に風呂が普及したのだ。 バスクリンは競合になるような商品もなく、生産が間に合わなくなってしまうほどの人気になる。 夏に特化したクールバスクリンも発売し、盤石の布陣となる
彼の死後、英語など様々な言語に訳され、当時の百科事典にも引用された。オランダ語訳を通して江戸後期には日本語にも翻訳されていた。 シーボルトも来日前に読んでいたらしく、彼もドイツ人なので、怪しまれた際に山オランダ人と答えたらしい。 先人の知恵である。 #にいがたさくらの小話 その207
和歌で知られる吉野山の桜は明治初期、危機に瀕していた。 廃仏毀釈で多くの寺院が廃寺になり、観光客が激減した吉野では、桜を薪として売る計画が進められていたからだ だがそれを買い戻したのが林業王・土倉庄三郎だ。 「いずれ日本には外国人観光客が来る。その時のために吉野山の桜は残したい」
江戸時代、酒といえば灘の酒。 大量消費地である江戸へも関西方面から酒専用船で運ばれていた。 当時日本酒を製造する時期は限られており、江戸っ子たちは新酒を待ち焦がれていた。 一番酒には高値が付く。業者達は競った。 この競争は暫くするとルール化され、レースとなった。 それが新酒番船だ。
その後の不況により、バスクリン事業はツムラから独立。 本家から冷たくされても、俺達で温まっていこう。それがバスクリンの使命なのだから。 更に多様化する現代社会に合わせ、様々な所とコラボしながら、彼らは今でも世界中の風呂に溶け込んでいる。 #にいがたさくらの小話 その349
新芽が出た。桜は開花しなかったが、生きていた。 そして昭和45年ダム完成から10年後、かつての新芽は枝となり、花開いた。 旧住民たちも集まり、満開の桜と満面の笑みを桜博士は見届けた。 今は有名な桜の名所である荘川桜には、人々のアツい思いが詰まっている。 #にいがたさくらの小話 その157
欧米で用いられているサマータイム。春に時計を1時間早め、冬に戻すという制度。活動開始を1時間早めることで太陽光を有効に使う目的で、日本でもGHQ占領時に採用されたが、僅か4年で廃止された。 理由は様々だが欧米と違って日本は蒸し暑いため効果が薄く、残業が増えるだけだというのが主な理由だ。
世界遺産。国連の下部組織であるUNESCOが『顕著な普遍的価値』を認め登録された場所のことだ。登録後も顕著な普遍的価値を守る活動を義務付けられる。 守らなければ登録抹消で、実際に抹消された例が3つある。 その一つがドイツのドレスデン・エルベ渓谷だ。 抹消された理由は、川に橋を作ったから。
『キリストの墓』の概要はこうだ。 ゴルゴタの丘で処刑されたのは実はキリストではなく、弟のイスキリでキリストは密かに日本に逃れ、新郷村に住み着き天寿を全うした。というもの。 その伝説に従い、村の有力者の先祖代々の墓が『キリストの墓』になる。 なぜかついでにピラミッドも発見された。
ぷちバズなので宣伝。こんな感じで歴史地理観光などに関連する雑学系小話をやってますので、よかったら見ていってね twitter.com/monkey_across/…