蛇足ですが、南満州鉄道株式会社の広告にも、『興亜一心刀の製作』と書かれてますね。
言語の強制は支配と直結している。 オランダ語を流暢に話す植民地知識人層は、それを痛いほど理解していた。 最大多数のジャワ人ですら半数にも満たない。そんな中でとある民族の言語を国語にすれば、他の民族はその民族に支配されることになる。 だが、一つの国民として団結するには言葉が必要だ。
海なし県の長野県には海のつく地名がある。 特にJR小海線沿いに多い。 別に海がないから悔しくて名付けたわけではなくて、古代の日本語が『湖』と『海』を区別しなかったことによる。 滋賀県の近江(おうみ)が琵琶湖のことを指しているのと同じ。 ちなみ、JR小海線·海瀬駅が日本で最も海から遠い駅だ
現在もわずかに農民車が作られているが、最近は部品が不足している。 電子制御が進んだエンジンは転用不可だし、中古車自体海外に輸出されているからだ。 だが、淡路島の農民車は文化。 最近は若者が独創的な農民車を作っているらしい。 時代は変わる。良くも悪くも #にいがたさくらの小話 その386
ハワイ王国は、日本よりも50年も前に憲法を施行し、アメリカ合衆国よりも早く奴隷制を禁止した近代国家だった。 圧倒的カリスマと白人から入手した武器によりハワイ諸島を統一したカメハメハ1世の息子、カメハメハ3世の時代には近代国家体制を整え、議会も開き、西洋各国からも国家承認されていた。
学校では英語、家では島独特の混ざった日本語と使い分けた結果、また見るよ(see you again)のような英語の影響が残る言葉使いだったそうだ。 現在ではほぼ消滅したが、独自の文法を持つ日本語方言の一つとして辞典に残る。 世界自然遺産・小笠原諸島は、文化も遺産だ #にいがたさくらの小話 その6改
山陰、特に島根県西部の屋根は赤い。 それは石州瓦と呼ばれる赤い屋根瓦が使われているから。 江戸時代より続く石州瓦だが、ただカッコいいから赤色にしているわけではない。 山陰は湿った雪が降り続く地。更に街は沿岸に多く立地。 そのため凍害や塩害に強くなるように進化した結果、赤くなったのだ。
英語圏の人々や非英語圏の知識人層への影響は計り知れない。 冷戦期のアメリカは自国の文化を売り込むのに躍起になっていたが、このときに意図せず齎した大量の安価な本が売り込まれた国のアメリカ文化の受容に一役買ってるのかもしれない。 安価な本と侮るなかれ。 #にいがたさくらの小話 その295
宝石類の単位は歴史的な経緯があってSI単位のキログラムではなくカラットを使うことが多い。 だが、真珠の重さの単位は違って、もんめを使う。 これは、明治期の日本で世界初の真珠の量産養殖化を成功させ、天然真珠の既得権益者と戦い、養殖真珠は本物であると、世界に認めさせて事業化できたからだ。
日本の国民性理解のために動員されたのは、ルース・ベネディクトという文化人類学者。 通常現場でのフィールドワークが必要な文化人類学だが、戦争中の敵国になど行けない。 そこで彼女は、日系人や英訳の書籍や映画、戦争で鹵獲した物を手掛かりに、日本人とは何かを解き明かし、米国中枢へ説明した。
三本木原開発計画は途中で息子に引き継ぎ、水量アップのための二次計画が開始したところで明治を迎えた 明治時代になると、北海道開拓計画のプロトタイプとして注目され、その技術や考え方は北海道の都市計画にも影響を与えることとなる その後二次計画は会社や国営事業を経て、昭和41年に完遂する
通水した用水路は稲生川と命名され、300haもの水田が生まれる しかし、水田があるだけでは『街』にはならない 養蚕や馬鈴薯、味噌作り、地場産業の馬市や革細工など全国各地からありとあらゆる職人・商人を呼び寄せた 街には産業が必要だからだ 産業以外も街に必要な神社仏閣も遊郭も誘致した
江戸時代は世界的に識字率が高いと言われるが、読めない人も居た 彼らは農作業で必要な暦すら読めず困る そこで南部盛岡藩領内では、絵だけで理解できる『南部めくら暦』を作って暦を伝えた 例えば、画像上中央(右から読む)では『目+石+゛+重箱2個+サイコロの6+蛇の絵』で、『明治26年巳年』とわかる
淡路の農民車は1970年代、隣の徳島県を皮切りに瀬戸内の島々などの山がある地域に売り出した。 だが、普及はしなかった。 その頃には悪路を走れる軽トラが手に入りやすくなっていたし、山の上まで道が良くなったから農民車が必要なくなったからだ。 こうして淡路島だけガラパゴス的に農民車が残った
一般道国内2位の道路は新潟市にある新潟バイパスだ。 1970年より順次開通していったが、計画当時は否定的な声が多かった。 「新潟みたいなクソ田舎にこんな高規格な道路が必要あるのか?」 だが、北陸地方建設局は交通量増を確信し、当時の建設省を説き伏せて建設。 今や新潟市の大動脈となった。
散水の方式も時代によって進化していく。 最初はツノ型だったが、施工コストがかかってしまうため、ボックス型に変化。 また、ボックス型のノズルは錆による目詰まりが多発したため、ステンレスに。 更に散水方向も調整できるキャップ型へ。 だが、地下水を使いすぎたため、地盤沈下が起こってしまう
コンクリートよりもしなるパネルのほうが風や地震の影響を受けにくいし、塗装もいらないので、メンテナンスコストも安い。 パネル自体も最近は様々な材料が使われており、直射日光の影響も緩和するものもあるようだ。 カッコよくしたいわけではなかったのだ。 #にいがたさくらの小話 その197
東京都民は、方言など使わないと思いがちだが、それは違う。 新方言とか首都圏方言とか言う言葉を使っている。 例えば、『カタす』(片付ける)、『マカシタ』(任せた)や、『〇〇しちゃった』(てしまった)など。 由来は様々だが、標準語には砕けた表現が少ないため、こういう言葉が生まれるのだろう。
江戸中期、天明7年の打ちこわしは大坂や江戸を始め各地で起こった。 原因は米不足。 勿論、京都でも米不足だったが、京都では打ちこわしが起きなかった。 代わりに京都御所の塀周辺を巡り、賽銭を投げ入れた。 最盛期には約5万人が御所周辺に集まる規模に。 人々は当時権力のない天皇に救いを求めた
当時最新鋭だった顕微鏡や海外のマッシュルーム栽培などの研究を参考にし、遂に安定した人工栽培方法を確立。 菌糸が蔓延している榾木を粉にして原木に振りかけるという方法だ。 だが椎茸の産地は山間部。手間も技術も必要なこの方法はすぐには広まらなかった。 だが彼の研究は後の研究の下敷きになる
有明海は遠浅で干満差が大きい。 明治時代には沿岸の福岡県大牟田市では炭鉱で栄えるが、大型船が入れず積出が追いつかない状況に。 そこで当時の三井財閥は大型船が停泊できるよう、パナマ運河みたいに閘門を開閉して水位を調整できる港、三池港を建設した。 ちなみに百年以上経った現在でも現役だ。
江戸時代は平和な時代だったので、珍品コレクターが沢山いた。 『南総里見八犬伝』を書いた売れっ子作家の曲亭馬琴もその一人だった。 彼らは絵や書だけには飽き足らず、様々な物を収集し、仲間同士で古い物を愛で合う会『耽奇会』という会合を開いていた。 縄文の美や神秘に惹かれたのだろう。
イルティッシュ号はその後島根県江津市沖に沈みましたが、それを引き揚げようとした男の話はコチラ twitter.com/monkey_across/…
宣伝その2。私の家来があんまり面白くない動画配信をしているので、チャンネル登録してあげてね。 twitter.com/hardy_daytona_…
ガラス張りのような壁をカーテンウォールという。 建物の重さは柱や梁で支えるため、間仕切りのための壁だ。 ただの間仕切りなので、風や地震に耐えれればよく軽くできる。軽くなれば建物自体の重さも減るのでより高くできる。 また、施工も工場で作られたパネルを貼るだけなので楽になる。