洪水によって肥沃な土が流れ込み、連作障害を起こす藍を連作できるのも強みだった。 徳島藩は藍を特産品として品質向上に努め、加工技術を発達させたことにより全国市場でも人気を博す。 一説によると、全国から来た藍商人により、各地の踊りが伝えられ、阿波踊りにも影響を与えたらしい。
石炭は世界中に広く分布しているという利点がある。検討には値する。 そこで彼らは主要産炭国であるオーストラリアと交渉開始。だが、相手の担当者から一蹴された。 「外国から石炭を輸入して発電するなんて聞いたことがない」 彼らは喰い下がり「具体的な計画があるなら話を聞く」と、回答を得る。
アメリカに工場を作ったら次はヨーロッパ、そしてアジアへと展開。 大事にしているのは今でも、地元料理に溶け込むこと。和食が世界に普及した今でも、その地域に愛されることが、普及のカギだという。 調味料は主役ではない。 地元料理が主役なのだ。 #にいがたさくらの小話 その168醤油輸出·後編
明治時代、政府は運動会を奨励していたが、生徒児童も少なく、運動場もなかった。 そのため、近隣町村が河川敷や寺社の境内に集まって実施していた。 物珍しさもあり、見物人が詰めかける。集まった人たちは運動会をなぜやるのか知らないが、ハレの日と解釈した。 そして、運動会は「祭り」となった
この小麦は半矮性遺伝子を持っていた。 背が低くなるため、倒れにくくなるが穂の長さは変わらないという特性だ。 この品種によって大量の肥料を与えても倒れず成長し、たわわに実る。 農林10号から作られた品種により、収穫量は急増。 メキシコでは輸入に頼らず、逆に小麦の輸出国になることができた。
彼の名は新渡戸傳 旧五千円札の新渡戸稲造の祖父だ 彼の計画は、単なる新田開発ではなかった 文字通り『街』を創る だが、藩の財政は火の車 わずかな工事資金しか出せない そこで彼はカネを出し合い、出資額に応じて新田開発地を分配することにした また、全国各地からも出資を募り資金調達を行った
島根県石見地方。 ここには民俗芸能の石見神楽がある。 元々は一般的な神事として舞われていたのだが、時代や地区によって様々に変化し、全体として芸術性が高いものへと進化している。 なぜ石見で進化したのか? これには石見の地域性が関わってくる。 要するに、田舎が連なっているからだ。
大阪の人ならみんなご存知、ビルの中に突っ込む阪神高速。 キッカケは、ビルの建替えと阪神高速の計画が同時に立ち上がったことに始まる。 場所は大阪の一等地。どちらの計画も譲れない。 そこで、新しい法律を適用して今の形が計画された。 ちなみに、阪神高速がビルの5~7階に入居する形だ。
イケる。 彼は確信したが、俵は全国で作られるもの。 必要性を理解してくれなければ動いてはくれない。 そこで、全国の商工会議所や内国博覧会等で自ら改良した俵を発表。また、出来の悪い俵を博覧会で産地を明記した上で晒した。 また、粗雑な俵の梱包は買い取らないよう商業団体への根回しも行う
彼の業績は、戦前日本では立身出世の人、戦後日本では日米友好の父として讃えられた 米国でも彼を讃える施設ができた程だが、近年は彼の業績を知る者も減っている ちなみに真偽不明だがポテトヘッドは彼がモチーフらしい 彼は形を変えて現代でも愛されているのだろう #にいがたさくらの小話 その398
粉を振りかけるから粉を埋め込む方式、菌糸自体の純粋培養など技術も進歩した。 昭和17年に発明された種駒によって栽培方式が完全に確立。 種駒の開発者もガチャ爆死した農夫を憂い開発を志したという。 美味しい椎茸の裏には悲しい爆死の歴史があったのだ。 #にいがたさくらの小話 その268椎茸·後編
金鉱石は国内で純金に加工され出荷される。 金は工業用途としても重要だ。 近年発達したスマホなどの電子機器には金が必ず入っている。 主に工業用途では、紛争地帯の武装勢力の資金源にならないよう、産地や加工地などを証明する必要がある。 菱刈鉱山の金は安心安全の日本産。 証明書類も完璧だ。
場所の選定も困難だった。 石炭の発電所を建てると話が出るだけで反対される。 そこで彼らは、旧産炭地に目をつける。 彼らは石炭のリアルを知ってる。更に炭鉱が次々と閉山し活気を失っていた時期。 彼ら自身も何かを誘致したいという気持ちがあった。 その最中に石油危機がおこる。
日本の旧暦は太陰太陽暦というタイプで、月の満ち欠けによって月が決まる。 1年は地球の公転周期とズレるため、数年に一度1ヶ月分『閏月』を入れて公転周期と合わせている。 閏月を入れる箇所には西洋天文学を採り入れたルール(天保暦)があるが、2033年はうまく決まらない これを旧暦2033年問題という
干し椎茸は乾物大好き古代中国人の発明。 伝説では9世紀に弘法大師が椎茸を干す文化が伝播したという。 その後は全く不明だが、鎌倉時代には中国に市場を形成するレベルで輸出していた。 一説によると、当時の中国産椎茸は香りが長続きしないため、相当の輸入コストを払っても日本産を買い求めたという
@ilikemk23 専門薬学系ではないので詳しくはわかりませんが、参考文献1にはこういう記載があります
こうしてリリースされた折る刃式カッターナイフは口コミで広がっていった。 なにせ実際に使う人が作ったのだから、使い勝手は抜群。 その後、独立してブランド名をOLFAとした。 海外展開を考慮してHの発音がない言語でも読めるようにFにした。 思惑の通り、その後OLFAは海外に展開していく。
北東北の冬は、雪に閉ざされる。 特に日本海側は晴れる日がないため、他の地域で当たり前にやっていた天日干しができなかった。 かわりに、囲炉裏の上で大根漬けを干す。 これが、いぶりがっこのルーツだ。 元々自家消費品なので、囲炉裏が廃れて薪ストーブが普及すると、自然消滅へと向かった。
同じ発想は大手メーカもしていた。今は世界的重機メーカとなっているコマツだ。 コマツは昭和35年、農作業と街乗り両方ができる車をコンセプトに世界的デザイナーを据えて生産した。 だが街乗りには普及せず、トラクターのほうが便利だったためなのか、わずか2年4300台を生産しただけで終わった。
日本海海戦で破れたロシア艦·イルティッシュ号は現在の島根県江津市沖に沈没した。 住民が乗組員を助けた逸話は語り継がれるが、この船にはもう一つの物語がある。 それは金。 航海日誌によると、バルト海からの航行中に大量の金を積み込んだというのだ。 この金塊探しに命を懸けた男がいる。
台湾、香港、フィリピンの中間にある東沙諸島。 明治末期、ここは『西澤島』と呼ばれていた。 西澤吉治という男が、当時無人島だった島に大規模 なインフラ投資を行い、労働者を送り込んでいたのだ。 その絶妙すぎる位置は、当時台湾を領有する日本と清の間で領土問題となり、結局清へ返還された。
江戸時代は米相場が発展したため、情報の速達性が求められた。 はじめはレートを書いた紙を米飛脚というマラソンランナーに運ばせていたが、大坂から江戸まで3日かかっていた。 そこで、より速さを求め大坂江戸間を8時間(大坂博多なら1時間以内)で伝達できる手段を確立した。 それが、旗振り通信だ。
山形県の内陸は昔からフェーン現象の影響で暑い。昭和初期に記録した40度超えの気温は長らく日本記録だったレベル。 特に山形市は盆地なので熱がこもりやすく、温かいラーメンなんて食っている場合ではない。 冷たいラーメンはないのか?そんな地元民の声に応えて作られたのが、冷やしラーメンだ。
この報告書No.25が太平洋戦争や戦後政策に直接齎したものは不明だが、影響は多分にあるだろう。 また、文化には優劣はなく、タイプが異なるだけだという見方が一般に広まる契機にもなった。 文化とは相対的なものなのだ。という例として菊と刀を見てほしい。 #にいがたさくらの小話 その290
醤油は日本料理のもの、という概念を捨て去り、新しいソースとしてアメリカで売る。 最初は訝しんだアメリカ人のために現地の料理系文化人などに醤油を使ってもらい醤油を使ったアメリカ料理がどんどんレシピ化され、ジワジワと普及する。 その後醤油はホームパーティーでのバーベキューまで浸透する。