幕末には黒船来航情報も伝達。 明治に入り、電信技術が入っても暫くは使われていた。最新技術である電話電信は高く、回線が詰まって遅かったからだ。 ちなみに旗振り通信の弱点は天候。 その時は米飛脚を使っていたという。 いつの世も情報は鮮度が命。 #にいがたさくらの小話 その184改
その後、当時から人口爆発を続けていたインドでも同様に広まり、飢餓に苦しんでいた人々へを救った。 この小麦収穫量の急増は後にGreen Revolution(緑の革命)と呼ばれる。 米(東南アジアで作付されているインディカ種)でもこの原理が応用されるが、半矮性遺伝子を持った品種は台湾のものだった。
岡山県笠岡市北木島。 瀬戸内海の小さな島だが、ここには日本とは思えない風景がある。 ここは石を切り出す石切場。品質の高い石を求めて下に掘り進んだ結果、高低差のある絶景ができた。 北木島の石は現存する日銀本店や三越本店などにも使われている歴史のある石。 まさに明治大正を支えた礎だ。
ブラジル高原・セラード。 ポルトガル語で閉ざされたという意味を持ち、灌木がまばらに生える不毛の地。 逆に言えば、日本の5.5倍の面積の未開拓地だった。 そこで日本は1979年からブラジル政府と共同し、日本の技術力・資金を使って、大規模開発を始めた。 理由は、安い豆腐を食べたかったからだ。
彼は俵で大損害を出していた。 蒸気船で函館から品川へ品物を送った俵が破損したからだ。 江戸時代までの習慣では、重さを基準としたやり取りだったが、明治の蒸気船では個数単位に変わる。 荷を気にしながら運ぶのは効率が悪いからだ。 案の定俵は破損。汽船会社は法令に基づき責任なしとされた。
茶道は淑女の嗜み。 現代でも、お茶を習う女性は多いと思う。 しかし、よくよく考えてみると、お茶は戦国時代にブームになり江戸時代に定着した武士の文化。 千利休も男だし、利休七哲もみんな男。 淑女の嗜みとして現代に受け継がれたのには理由がある。 キッカケは、明治維新による近代化だ。
貨幣は一般的には、多種多様な物を買うことができるように作られてきた。 日本においても銅銭や小判などは多種多様なものを購入するために鋳造、あるいは輸入してきたものである。 だが江戸中期には、朝鮮貿易で朝鮮人参を買うためだけに鋳造された銀貨があった。 その名も、人参代往古銀という。
シヤチハタの創業者は元々、薬問屋で働いていた。 日々薬袋にハンコを押す仕事だが、当時のスタンプ台はすぐに乾き、都度補充が必要だった。 そこで塗料を改良した『万年スタンプ台』を作り1925年発売、一躍人気商品に。 だが、今我々が知る『シヤチハタ』はこの自社商品を否定することから始まった
本州最北端青森県大間町。海流の関係上マグロが取れやすく日本有数のマグロの産地だ。 だが海流はマグロだけを運ぶものではない。 幕末の1864年には英国船が大間沖にある小島(弁天島)付近で座礁する事件が発生。 大時化の中英国人を救助し保護するが、英国人は故郷の味を求めた。 「牛肉が食べたい」
悔しい。 その思いを俵の改良に向け、政府へ建白書も送った。 商工会にも送った。 政府は重要性を理解してくれたが、実際に俵を作るのは生産者だ。 そこで、知り合いの生産者に自ら改良した俵を持ち込み、依頼。 実際に売ってみると、俵づくりのコストは上がるが、それ以上の高値で取引された。
きのことは菌であることは、現代では当たり前の知識だが、西洋科学によって齎されたもの。 椎茸の産地である山の中までは西洋科学は伝わらなかった。新潟県中越の山の中で椎茸栽培を志していた田中長嶺も情報を得るために上京。 内務省に掛け合い、東京帝国大学の研究室に出入りをし、研究に没頭した。
明治初期、維新後の東京奠都による人口減により、京都の産業は打撃を受けた。 京都は盆地。水源の確保と舟運に難があり、近代化の世の中で没落する危機感があった。 そこで京都府は琵琶湖から山をぶち抜き水路を通す計画を発案。 主任技師はお雇い外国人ではなく、大学卒業直後の日本人を抜擢した。
そこで彼らは、マレー系の言語に注目した。 古くから交易のために使っていた言葉。第一言語ではなかったが、交易に携わっている人ならある程度使えた。 1928年、この言語を『インドネシア語』と呼ぶように定めた。 なのでマレーシア語やシンガポールのマレー語とはお互いに意思疎通できるほど近い。
『黒糖焼酎』を作れるのは、奄美諸島だけ。 これは、奄美諸島独特の文化として酒税法上の特例を認められているからであり、奄美以外で作るとラム酒と同じスピリッツに分類される。 奄美諸島で黒糖焼酎の文化が花開くのは、1945年~1953年の米軍統治時代。 黒糖が日本本土に出荷できなくなってからだ
だが組合長は冷静にこう言った。 「生存率が低ければ、数を増やせばいい」 一世一代のハッタリだった。 だが、その姿に漁師はやる気になった。その後は生存率が徐々に伸びていく。 着実にホタテが定着している証だった。 10年後、完全に猿払の海は蘇った。 想定を超えた漁獲量だった。
明治維新は、無茶振りの連続だった。 理想が高い新政府は、廃藩置県、地租改正、郵便制度、ありとあらゆる布告を出しまくる。 だが村々まで浸透させるには大変な労力が必要だ。 識字率も高くない村もある中で、上からの指示を捌き、下からの要望を取りまとめていったのが、戸長という役職の人たちだ。
何をやるか。ニシンは来ない。ホタテもいない。でも、かつてホタテが大漁だったということは、適地ではあるはずだ。 そこで、道内の他地域からホタテの稚貝を輸入しようと考えたが金はない。 金融機関からの借入の条件である、自己資金がそもそもなかった。 漁協の組合長は、漁師たちに頼み込んだ。
戦後シアトルに戻った日系人は米国社会に完全に溶け込んだが、現在でも宇和島屋という北米最大の日本食スーパーの本店があるなど、日本との関係は深い。 ちなみに、かつてシアトル・マリナーズに在籍していた城島健司も移籍の決め手はこの宇和島屋だったそうだ。 #にいがたさくらの小話 その286
細かいところを見ると、昭和初期には無くなっていた文化などを紹介しているが、大枠は見事に捉えており、欧米人にとって、理解不能だった日本人の考え方を恥の文化という言葉を使って理解可能な物に変化させたところが特徴だ。 後に菊と刀という題で一般にも出版され、直後に日本研究の古典となる。
方言は心の底から出てくる言葉だ ぴったりハマる標準語訳がない場合も多く、単純に標準語に置き換えれば済むという話ではない 国語の研究でも人命救助に携わることはできるのだ ちなみに『東北方言オノマトペ用例集』は以下からDL可能です www2.ninjal.ac.jp/past-publicati… #にいがたさくらの小話 その396
モンゴル帝国の絶頂期、南の戦闘民族は海が苦手な元軍を海岸で迎え撃っていたが、樺太では、逆にアイヌの先祖達が元の属領を攻めた。 正確にはニヴフ(ギリヤーク)民族との紛争だが、バックにはモンゴル帝国がいたのだ。 帝国から差し向けられた正規兵を相手に、彼らは半世紀近くも交戦したという。
画像は「協和:満鉄社員会機関誌」昭和14年10月1日号よりお借りしました。 参考文献は「満鉄会報」昭和39年10月10日号です。
折る刃式。 切れ味が悪くなると刃を折り、新しい刃を出すという発明は、靴磨き職人からヒントを得た。 革靴の靴底を仕上げる際、ガラスの破片を使っていたのだが、切れ味が悪くなると更に割って使っていた。 割り方は板チョコからヒントを得た。 こうしてアイデアは出たものの、実用化はまだ先。
瀬戸内海に浮かぶ塩飽諸島などには、一人の遺体に対して2つの墓を設ける風習が残っている。 両墓制と言って、遺体を埋葬する埋め墓と霊魂を祀るための詣り墓の2種類だ。 (写真は本島の埋め墓) 両墓制は島嶼部だけの独特の風習ではなく、かつては関西を中心として広く分布していた埋葬スタイルだった
工事はトンネルを含む用水路の建設がポイントだった 清流・奥入瀬川から水を引くには高い技術力が必要 藩内には鉱山開発技術の流れをくむ土木工事集団『南部土方衆』がいた 普段は農民だが、隣の仙台藩などに集団出稼ぎを行って技術を蓄積してきた人々だ 彼らの技術力によって計画が具体化していく