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幕末には黒船来航情報も伝達。
明治に入り、電信技術が入っても暫くは使われていた。最新技術である電話電信は高く、回線が詰まって遅かったからだ。
ちなみに旗振り通信の弱点は天候。
その時は米飛脚を使っていたという。
いつの世も情報は鮮度が命。
#にいがたさくらの小話 その184改
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その後、当時から人口爆発を続けていたインドでも同様に広まり、飢餓に苦しんでいた人々へを救った。
この小麦収穫量の急増は後にGreen Revolution(緑の革命)と呼ばれる。
米(東南アジアで作付されているインディカ種)でもこの原理が応用されるが、半矮性遺伝子を持った品種は台湾のものだった。
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彼は俵で大損害を出していた。
蒸気船で函館から品川へ品物を送った俵が破損したからだ。
江戸時代までの習慣では、重さを基準としたやり取りだったが、明治の蒸気船では個数単位に変わる。
荷を気にしながら運ぶのは効率が悪いからだ。
案の定俵は破損。汽船会社は法令に基づき責任なしとされた。
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悔しい。
その思いを俵の改良に向け、政府へ建白書も送った。
商工会にも送った。
政府は重要性を理解してくれたが、実際に俵を作るのは生産者だ。
そこで、知り合いの生産者に自ら改良した俵を持ち込み、依頼。
実際に売ってみると、俵づくりのコストは上がるが、それ以上の高値で取引された。
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きのことは菌であることは、現代では当たり前の知識だが、西洋科学によって齎されたもの。
椎茸の産地である山の中までは西洋科学は伝わらなかった。新潟県中越の山の中で椎茸栽培を志していた田中長嶺も情報を得るために上京。
内務省に掛け合い、東京帝国大学の研究室に出入りをし、研究に没頭した。
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何をやるか。ニシンは来ない。ホタテもいない。でも、かつてホタテが大漁だったということは、適地ではあるはずだ。
そこで、道内の他地域からホタテの稚貝を輸入しようと考えたが金はない。
金融機関からの借入の条件である、自己資金がそもそもなかった。
漁協の組合長は、漁師たちに頼み込んだ。
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戦後シアトルに戻った日系人は米国社会に完全に溶け込んだが、現在でも宇和島屋という北米最大の日本食スーパーの本店があるなど、日本との関係は深い。
ちなみに、かつてシアトル・マリナーズに在籍していた城島健司も移籍の決め手はこの宇和島屋だったそうだ。
#にいがたさくらの小話 その286
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細かいところを見ると、昭和初期には無くなっていた文化などを紹介しているが、大枠は見事に捉えており、欧米人にとって、理解不能だった日本人の考え方を恥の文化という言葉を使って理解可能な物に変化させたところが特徴だ。
後に菊と刀という題で一般にも出版され、直後に日本研究の古典となる。
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方言は心の底から出てくる言葉だ
ぴったりハマる標準語訳がない場合も多く、単純に標準語に置き換えれば済むという話ではない
国語の研究でも人命救助に携わることはできるのだ
ちなみに『東北方言オノマトペ用例集』は以下からDL可能です
www2.ninjal.ac.jp/past-publicati…
#にいがたさくらの小話 その396
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画像は「協和:満鉄社員会機関誌」昭和14年10月1日号よりお借りしました。
参考文献は「満鉄会報」昭和39年10月10日号です。
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折る刃式。
切れ味が悪くなると刃を折り、新しい刃を出すという発明は、靴磨き職人からヒントを得た。
革靴の靴底を仕上げる際、ガラスの破片を使っていたのだが、切れ味が悪くなると更に割って使っていた。
割り方は板チョコからヒントを得た。
こうしてアイデアは出たものの、実用化はまだ先。
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工事はトンネルを含む用水路の建設がポイントだった
清流・奥入瀬川から水を引くには高い技術力が必要
藩内には鉱山開発技術の流れをくむ土木工事集団『南部土方衆』がいた
普段は農民だが、隣の仙台藩などに集団出稼ぎを行って技術を蓄積してきた人々だ
彼らの技術力によって計画が具体化していく