欧米の投資ファンドを中心に、類型化したデューデリジェンスのコードができつつあり、そうした民間規制の中に、ジェンダーの問題も位置付けられているわけですが、それが小説や漫画や映画をメディアで紹介することに及んでしまうことは、機関投資家による私的検閲に大きく道を開くことになります。
そもそも、「アンコンシャスバイアス」について、制度的に取組めるレイヤーの話というのは、既にコンシャスという側面もあり、それとは違うレイヤーの部分でアンコンシャスなところを模索することが使命の虚構表現の広報について、制度的枠組でそこの適切さを求めることには危険があると思います。
マンガや小説の在り方というのは、社会的に合意形成できるようなものではなく、むしろ合意形成の前提となる個々人としての内面的自律のために、社会からの介入が留保されるべき領域なので、そこが実質的に欧米の機関投資家によって一律に課される投資適格基準で決められてしまうのは望ましくないです。
「コンテンツ自体ではなく広告だから」という意見もありますが、コンテンツが誰かに届くためには、その存在について、不特定多数の人が知ることができる公共圏がどこかにはなくては、機会が成立しないわけです。それは、私たちが自分自身の好きなこと・嫌いなことについて知る権利の問題でもあります。
創作表現というのは、そもそも作家性もあり、読者を選ぶ性質のものですので、人文的な尊重の観点と、出版・映画等のメディアが大衆に露出するためのプラットフォームである新聞広告の役割という特殊な観点を鑑みて、宣言にコミットした新聞側に、一定の解釈の余地を認める必要もあろうかと思います。
私が見るに、山田太郎さんは、あの辺のオタク系の方々を支持層と確定させたことで、表現の自由以外のオタク的な利害を守らないといけない政治的立場になったんだけど、既に一番比重が大きくなっているそこの政策群に名前を付けないまま今日に至って、赤松さんにもそれが引き継がれたんだよね。
何か良い名称を早く見つけないと、名前に引きずられて自縄自縛になってしまうので、そこが心配なんですよねぇ。他人事で申し訳ないのですが。
これ、もう山田さん一人だけではなく、野党で漫画やアニメの表現の自由についての政策をやろうとしている人たちにも伝播しちゃっていて、「表現の自由についての政策を聞いて欲しい」と言われて聞いてみると、その大半が表現の自由以外の政策課題ということが起きていてですね……
なぜ「表現の自由」というカード・タイトルに固執してしまうのか、というところから、戦略・戦術・認識を再検討しないと、遠からず皆さん一緒に行き詰まるのではないかという不安が……
おそらく、オタクに関わる政策的な利害というもののフレームワークが困難という背景があるかとは思うんですよね。 傍から見ている限りでは、最大公約数として、「表現の自由」というタグ付けが有効に機能していた面もあるんだろうな、とは。 しかし、もうそういった用語の使用も限界に来ているような。
自治体が有害図書制度や不健全図書制度を続けるのであれば、青少年が読まないようにするという目的の範囲で区分陳列等をするという元の話を飛び越えて、作品を流通させないことを求める趣旨に解釈されないよう、小売業界などに適切な取扱いの要請をすることも考えていいと思うんですよね。
東京都の不健全図書に指定されることで、条例が本来想定する効果ではない副作用が、社会実態として生まれてしまい、例えば指定されたBL図書が超大手のプラットフォーム企業等から排除されてしまう現象が発生している以上、そういう趣旨の制度ではない旨を行政として明確化するべきだと思うんですよね。
この辺りのことなら、現行の条例・規則の中でも都側にできることが色々とあるし、都議会議員なども、すぐに働きかけのできる政策の選択肢があるように思うんですよ。
「確かに不健全図書には指定しましたけど、制度の射程を超えて出版の自由を奪う趣旨ではないので、小売業界も指定を理由に過剰反応はしないようにお願いしますね」と、東京都から適切なメッセージを出すことの意義は、適切なレーティング・ゾーニングをしていくためにも大切なように思うんですよ。
もちろん、プラットフォーム側は、「別に指定を理由にしているわけじゃないし、理由は明らかにできません」みたいなブラックボックスを維持するでしょうけど、それでも行政側のスタンスを明確にする意義はあるかと思いますね。
詰将棋のように、国連機関が関わる各ソフトローにより、SNSが制約され、電子決済手段が奪われ、CDNが使えなくり、そして広告業界が押さえられて慣習的にやってきたオールドメディアとの関係も遮断されたわけです。 次はオンライン・ストレージが使えなくなるので、作家や読者個人も気が付くでしょう。
立民案だと、発信者情報開示の「明確性」要件を外すので、例えば、新興宗教団体について批判的な投稿をした場合、もしかしたら名誉毀損や侮辱の可能性があるかもしれないなと、プロバイダーの持つ個人情報が、どんどん教団側に開示されてしまうという流れになりそうですが、本当にそれで大丈夫ですか?
実体法では客体や目的で縛りをかけたとの主張ですが、しかし手続法の改正は、これまで通りの幅広いケースについて、発信者情報開示を簡単に認めるというのが立民さんの改正案なので、総理でも、新興宗教団体でも、極右極左団体でも、批判してきた側に少し隙があれば、簡単に個人情報を漁れるように。
閣法も立民の対案も、どちらにも難があるので、例えばですが、これまでの侮辱罪の範囲内で、立民の縛りの条件で狭めた上で法定刑をあげて、手続法については今後の課題として本人参加のための匿名訴訟制度を検討するとかでどうでしょうかねぇ?
「どうせ野党案だから、真面目に検討するだけ時間の無駄」みたいなご意見も頂くのですが、この対案は、匿名言論の現状に対する一つの確固とした価値を反映しているし、今後の議論の土台の一つとなってくるかと思いますので、真面目にすり合わせを考える必要はあるかと思うんですよね。
それと立民さんが提示してくれた論点として、深刻なのが、1対1で嫌がらせの暴言を送り付けてくるような行為の違法化・犯罪化するかどうかですよねぇ。現行の名誉毀損や侮辱には当てはまらないけど、何とかしないとマズくなっている問題ですね。
まぁ、10年近く前から、山田太郎さんの「表現の自由」の主張は、「個人法益」以外の理由での表現規制を極力認めないというスタンスで一貫しているんですよ。 児童ポルノではなく児童性虐待記録物の禁止強化、ヘイトスピーチ型ではなくヘイトクライム型での捜査強化、そして今回の侮辱罪の刑引上げ。
彼の支持者の多くもそうだと思うんだけど、基本的には「個人主義」が政策的合意のベースにあるグループなので、公益性の観点から、個人の権利に抵触するんだけど、表現の自由を優先させるというタイプの表現の自由には、あまり親和的ではないんだよね。特にプライバシーの権利に強くこだわるだろうし。
例えば、匿名アカ同士のチャットで、趣味の話をしていたら、相手がストーカー気質のある奴で、違法にならない程度の不快な言動をしてきたとする。あなたは拒絶しようと強い言葉で相手を詰ってしまった。立民の法案だと、このストーカーにも、あなたの個人情報が簡単に開示されてしまう可能性がある。
立民の法案では、1対1のプライベートな会話でも相手の内面を傷付けようとする発言が犯罪になる上、侵害侵害が明白でなくても民事の開示手続で簡単にプロバイダーから個人情報が渡ってしまうから、ストーカー気質のある人間とネットでトラブルがあった時、実生活が危険にさらされる可能性が高まる。