若松 英輔(@yomutokaku)さんの人気ツイート(古い順)

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この国は、少なくてもこの20年間、「いのち」とは何かを真剣に考えてこなかった。政治だけでなく、教育の現場においても。だから「いのち」が傷つくということがどういうことかを知ろうともしない。「いのち」の危機とは何かが分からない。そうした者たちが、どうやって「いのち」を守れるというのか。
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詩を読まなくても、もちろん、詩を書かなくても生きていける。生活にも困らない。詩を読み、詩を書いても社会的な立場に変化はない。だが詩は、人生の危機にあるとき、悲しみの底から人を引き上げる。苦しみに心折れそうになるとき、生きる意味を照らし出してくれる。それが私の詩をめぐる経験である。
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当たり前のことだが、40代と50代は違う。50代になると、「老い」も「死」も概念ではなく、出来事になる。自分だけでなく、自分の周囲においても老いと死の経験を深めることになるのだ。それにもかからず、いつまでも若く、いつまでも死なないように生きるとすれば、よほどの楽天家か、愚か者だろう。
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他人の「あたま」に何が入っているのかではなく、自分の「こころ」にあって、見過ごしてきたものが何であるのかをを知りたい。哲学は究極的には自問自答になる、とソクラテスが言うのも分かる気がする。誰かが言ったことをまとめてみても自分の「こころ」は分からない。誰かと対話しなくてはならない。
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我慢している人は、いつも平気な顔をしている。我慢するとはそういうことだからだ。我慢強い人ほど自分を追い込む。だから、国も地方自治体、あるいは教育機関も、我慢ができなくなったという声を聞いたら、何かするというのでは後手になる。苦しい人は、苦しいとすら言えないこともあるのだから。
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毎年、いくつもの学校の入試で、拙文を取り上げていただくのだが、私は中学校のとき5段階で「2」をとったことがあり、大学受験では「国語」があるところはすべて落ちた。受かったのは小論文の学校だけだった。最近は中高の教科書にも取り上げてもらっている。人生何があるか分からないものである。
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科学者がここで沈黙したら、今まで何を言ってきたのか分からなくなる。そして、こうした発言自体が、これまで、いかに科学を軽んじていたかを象徴している。 twitter.com/tv_asahi_news/…
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今日という日を深く感じるために、一冊の本が必要だとしたら、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』(上遠恵子訳・新潮社)をお薦めしたいと思います。60頁の小さな本ですが、人生を変えるのに十分な重みをもっています。この本は彼女の遺著でもありました。ぜひ、お読みください。
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大学とは「優れた人材」を輩出する場所だと信じて疑わない、そんな言説にふれるたびに、著しい違和感を覚える。その基準が、曖昧なだけでなく、時代の空気に迎合したものである場合が多いからだ。人は優れた者になるために生まれてきたのではない。その人自身になるためにこそ、存在しているのである。
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大学人の多くは「優れた人材」は社会でも活躍できると信じている。だが、一週間働いてみれば分かるが、必要なのはその人の優秀さだけでなく、共に働く者とのあいだにある信頼であり、信用であり、また敬意なのである。しかし私の知る限り、こうしたことを大学ではほとんど教えない。考えもしない。
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自分らしい文章を書きたければ、まず、誰かの「まね」をしないことだ。もがきながら道なき道を進むように書くしかない。要領のよい文章を書くには別な方法がある。だが、そうした言葉はほかの人にも書けるのである。大切なことは自信がないまま、何かを畏れ、震えるように書くくらいでちょうどよい。
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大型書店に行くといつも、もう本は書かなくてもよいかなと思う。本があまりに多いのだ。しかし小さな古書店で、意中の本に出会うと、自分がこの世をあとにしても、未知なる読者に会えるのは、本を書いたからではないか、と思い直している。
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本は「多く」読むのもよいが、「深く」読むのもよい。そして、「深く、多く」読むのがいちばん楽しい。だが、「多く」読んでも、必ずしも「深く」読めるとは限らない。だが、「深く」読める人は、波長の合う書き手を見つければ、時間と体力が許す限り、「多く」の本を読むようにもなれる。
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真剣に生きようとすれば、生きづらくなる。生きずらいと感じているのは、決して悪いことではない。それだけのことを本当に理解するまで、半世紀も生きねばならないのか。だが、生きづらくても自分を見失うよりはずっといい。振り返ると幼稚園の頃から集団が苦手だった。ただ、独りも苦ではなかった。
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ばらばらのことをやっていても、皆がそれぞれの在り方で大切にしているものにふれていれば、その組織は強くなる。だが、結束を強めるために同じことをやらせようとした途端、組織への信頼が薄れ、場の力は失われる。個々の存在を重んじることなしに、どうしてその人の潜在的な力が開花するだろう。
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いつからか人生の長期計画を立てなくなった。あまり意味がないことが分かったからだ。未来を見て仕事をするよりも、今に深く根を下ろす方がよいと思った。未来は文字通り未定だが、今どう生きるかは、まさに今、問われているからだ。今に応答しなくてはならない。考えてみれば素朴なことだった。
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気が向いたので、久しぶりに会見を見たが、自分たちの状況が、いっそう分からなくなった。「今回で必ず押さえる」という発言をこれまで何度聞いただろう。「慣れてはいけない」ともいうが、慣れさせているのが誰なのかという認識がまるでないのにかえって驚いた。
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最近、再読してもっとも驚いたのがサン=テグジュペリの『星の王子さま』だ。これまでこの本を何度読み、何度語ったか分からない。だが、危機の時代を生きて、この物語が、作者の危機と時代の危機のなかで生まれた意味が実によく分かった。そして、この作品は死者たちへの贈り物でもあるのだ。
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詩は独り言に似てるから、ひっそりと書くのもよい。詩は願いを込めて書くこともあるから、自分以外には分からない言葉で書いてもかまわない。詩は祈りにも似ているから大いなる者の前で、素の自分をさらけ出してよい。詩は言葉にならないものの書く営みだから、書けなかったことを深く味わうのもよい。
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一度も読み通せなかったのに、何度も読もうとしているから、本の背が割れ、紙もくたびれている。こうした一冊との関係には、興奮ともに一夜で読んでしまうような本との間には、比べものにならない深みがある。人は読んだ本からも影響を受ける。だが、読めなかった本とは別種の経験を育むことができる。
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大学にいると、あまりに時代に逆行しているのに、自分たちこそ最先端にいるかのような言動が少なくないのに驚く。事業規模や雇用の問題、グローバル化にしても、である。心ある人たちは、小さくても意味のあることを実現するのに躍起になっている。学びにおいて問われているのは規模ではない。深さだ。
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哲学や思想の文章を読むのには、少しだけ修練が必要だ。だが、いつか、必ず読めるようになる。それはある単語について詳しくなるというよりも、その哲学世界を、あるイマージュで捉えられるようになり、それが自分のなかで非言語的なコトバとなり、言葉になっていく。
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本を読むのは、多くの情報や知識を得るためであるよりも、深く考えられるようになるためだ。知が力であるように見えるのは幻想だ。知識だけではない。どんなものでも、単に多く得たところで仕方がない。それを思慮深く用いることができて、初めて生きた知恵になり、叡智になる。叡智こそが力なのだ。
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人の「いのち」とは何かを、真剣に考えてみなければ、それを重んじているのか、軽んじているのかも分かりはしないだろう。コロナ危機は、さまざまな意味で「いのち」とは何かを見つめ直す契機だったはずだ。しかし、この国は政治や経済だけでなく、さまざまな場面でその機会を見逃したのだと思う。
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コロナ危機になってからずっと怒っているような気がする。私憤に流されまいと、自分を鎮めてきたが、怒りを感じなかった日はなかった。真実とか誠意とか真摯という態度を、片っぱしから愚弄してきたこの国のありように、あるいはその手先になっていることに何の疑問も持たない人々にずっと怒っている。