若松 英輔(@yomutokaku)さんの人気ツイート(古い順)

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私が、「わたし」であろうとすることが、どうしてこれほど難しいのか。そう感じたところから文学も哲学も、そして現代では心理学も始まった。そして、「わたし」でありながら同時に「わたしたち」である道を探ったのが宗教だ。
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40代の半ばから老眼になり、50代になって、より見えにくくなったが、絵や彫刻にふれる感度は、鋭くではなく、より深くなった。かつては、多くを絵を激しく受容したが、今は、一枚の絵の前から動けなくなり、美術館を本当に去りがたいと感じるようになった。老いるとは悪いことばかりではないらしい。
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私が書いた言葉を あなたの胸の熱で 溶かして下さい 文字の姿が消えて 語り得ない 意味だけが残るように 私が語った言葉を あなたの胸で 抱きしめてください 音の姿が消えて 耳には聞こえない 響きだけが残るように
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懸命になって誰かが作った「定規」に、自分を合わせようとしているうちに人生は、取り返しのつかない所へ運ばれていくのではないか。自分であろうとするのではなく、誰かに評価されようとして生きているのだから、自分を見失って、評価らしきものを得るのだろう。その評価が望んだものとは限らないが。
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「勉強」の世界は、よく理解して、それを何らかの様式で表現できなくてはならない。そして、いつでも採点され、優劣がつく。しかし、「学び」の世界は「ことわり」が違う。人は、言葉にできないことに驚き、感動し、ときに苦悶する。しかし、それはいつも、生きることそのものにつながっている。
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3月31日付で東京工業大学を「卒業」しました。これからは執筆と講演、社会人教育にエネルギーを注ぎます。学びの土壌は、働くことによって、実に豊かに培われることが分かったからです。「勉強」は、何ものかに強いられて行うのでしょうが、「学び」は、真の自己に出会おうとする真摯な営みなのです。
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知的であることは素晴らしい。しかしそれが唯一の在り方ではないだろう。優れて知的でなくても素晴らしい生き方をしている人は無数にいるからだ。だが大学では、知的であることが最初の扉になる。「知」の扉は、「情(感情)」や「意(意志)」の扉の後でもよいのであるまいか。人の痛みが分かる知性。
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大学を辞めようか迷っているとき、伊集院光さんとお話しする機会があった。「若い人に言葉を届けたくて大学の教師になった」と言ったら伊集院さんが「えっ?大学から出た方が言葉は届くかもしれないけどね」と言われ、何か肩の荷が下りたように思いました。これからは若い人の所へ出向いて参ります。
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「これくらいはできて当たり前」「出来ない方がおかしい」。そんな空気が流れている場所は少なくない。だが本当にそうだろうか。あるとき、「こんなこともできなくなる。それが当たり前」。それが私たちの現実なのではあるまいか。「できる人たちだけがここにいる」。そんな空気は耐えがたく感じる。
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人間がそうであるように、本との間にも出会いの「時」がある。それ以前でも、それ以後でもない、まさに出会うべき「時」がある。それは瞬間のこともあれば、数日、あるいは数ヶ月にわたることもある。しかし、その期間に書物と、ある深度の関係をつむげなければ機会は少し遠ざかるかもしれない。
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習慣が人間を作る、とはよく言われることだが、いつの間にか電車でスマホを見ることが習慣になった現代で、電車に乗ったら、数ページでも本を読むことを「新しい」習慣にしてはどうだろう。人生を変えるような言葉は、数ページにわたって出てくるよりも、たった一行、一語の場合が少なくないのだから。
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天才たちは別にして文学、哲学、そして宗教も、それらがその人の中で、かけがえがないものになるには、ある年月が必要なのかもしれない。若い頃はやはり、多く知りたいと思っていた。しかし年齢を重ねてくると、今の自分と本当につながる何かとの出会いを渇望している。知識ではなく叡知との邂逅を。
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真剣に本を見続けたいと考えている人は「何を読むか」よりも先に「読むとは何か」を考えた方がよい。多く読んでいれば「読む」とは何かが分かってくる、そんな意見に惑わされてはいけない。多く本を読んでいると思われる人で「読む」とは何かをほとんど考えてこなかっただろう人に何人も出会ってきた。
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特定の神は信仰していない。特定の宗教とも関係がない。そんな人は多くいるのだろう。しかし、一度も祈ったことがない、という人は少ないのではないか。自分が、大切な人が試練にあるとき人は、何ものかとつながろうとする本能のようなものがあるのではないか。私がいう「祈り」とはそういうものだ。
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本の内容を知るだけでよいなら要約本を読めばよい。しかしそれは噂話で人を理解するようなことになる。知識や情報を得るだけならそれでよい。しかし、人生の「友」を得ようとするなら、それでは不十分だ。直接「会って」、ゆっくり話を聞き、あるいは、聞いてもらうほかに道はない。それが読書だ。
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「できる人」は、どこにでもいる。どの世界にも。しかし、「わたし」はここにしかいない。私しか「わたし」にはなれない。そして、私が生まれてきた意味が「わたし」になることであるなら、どちらが大切かは言うまでない。「できる人」でも自分を知らない人は少なくないように思う。
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できないことがあっていい。むしろ、できないという現場で人は、自分を知り、友に出会う。かつて、できなかったことができるようになる。その過程で人は、できないことと、不慣れなことの違いを知る。できないことがあるのがいい。そこで私たちは、世に言う人生ではなく、自分の人生に出会うのである。
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『はじめての利他学』(NHK出版)が刊行になりました。利他の対義語は、と尋ねると多くの人が「利己」と答えます。日本語としての利他は平安時代空海・最澄によって説かれました。他を救うことです。「利己」は19世紀フランスで「愛他主義」の対義語として生まれました。由来の違う言葉なのです。
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「利他」とは単に自分が「良い」と思う事の実践ではありません。それはしばしば「おせっかい」になります。目の前で成果が表れることをすることでもありません。真の意味で自他を「利する」には、刹那にとらわれない時間感覚が求められます。「利する」とは苦しみを滅することだと空海はいいました。
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早く知らねばならないと思い込むから、時間がないと思うし、焦りもする。だが、何かを味わおうと願うのなら、まず、その焦りを鎮めなくてはならない。大切な人と話をしているときに、明日のことを考え始めてしまったら、いつまでも「今」はやってこない。「今」、それが人生の現場だ。
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何かを愛するとは、ある存在をそのままの姿で受容することだ。ある側面を「好む」ことではない。「好き嫌い」と「愛」との差はここにある。愛読するとは、その作品を高く評価することではない。評価と愛はまったく違う。自己評価などしなくてよい。己れは、真の意味でただ愛するほかない存在なのだ。
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本を読むのは、記述内容を理解することよりも、この世界、あるいは人間のありようを深く感じるためかもしれません。読書は、文字を通じてだけ行われるのでもありません。イメージや感触、直観による認識も意識下では生きています。よく理解できなかった、そんな本からも影響を受けるのはそのためです。
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書物や芸術に多くふれながら、優劣を評価するのに忙しく、愛することを知らない日々が、どれほど貧しいかは、書物や芸術を「己れ」に置き換ればよく分かるだろう。評価の眼はいつも比較して見ているが、愛の眼はそのものを見る。評価の声は、いつも時代的で冷たいが、愛の言葉は古びることがない。
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どんな場所であれ、自分を評価してくれる人を探すのは、ほどほどにした方がよい。評価の眼はいずれ、違う人を見るようになる。「よい人材」が、数年後にはまったく顧みられなくなるのが現代ではないのか。人を愛し、仕事を愛せればそこに、評価とは別な、本当の価値と重み、そして意味を見出すだろう。
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心にある「おもい」はたいてい、自分には大切なことでも、他者には取るに足りないことのように感じられる。不思議なことだが、真剣に「書く」ことによって、その取るに足りないはずのことが、新しい意味を持つようになる。生まれてきた言葉が、自己との関係を強め、他者とのあいだを架橋するのである。