551
ぼくはエリートは嫌いだけれど、やはりいてもらわないと困るとは思う。かつての官僚は一応合理主義者であって、政治家を牽制して政治が非合理に流れることを抑えてきたと思うが、安倍政権で人事を押さえられ、全くその歯止めが利かなくなった。本人が不在となり合理的な政治が復活すればよいのだが。
552
政治家に倫理性を求めるのはないものねだりかもしれないが、せめて合理性だけは強く要求したい。政治から合理が消えれば国に未来がないということは、80年前に経験しているではないか。
553
このまま道理から外れた政治が続けば、事実のレベルで国が破綻することは避けられない。いずれ政府は国民を支えきれなくなり、弱い者から順に深刻な影響を被るだろう。その時には自民党を支持しているからといって救われるわけではない。政治を道理の軌道に戻すこと以外に破綻を逃れる途はない。
554
世界は厳しい競争の上にあり、力がなければ勝ち残れない、力こそ正義だ、というのは間違いではないと思う。ただ、力というと腕力や暴力やがむしゃらな体力しか思い浮かばないならこの競争に勝ち目はない。現代社会においては経済力も軍事力もそれを支えるのは知力なのだから。
555
日本のような後発国家は、社会は常に上から変えるものだったから、人々はそれが当たり前と思い込まされているが、先進国家では、社会は下から変わるものなのだ。まあ、これからもずっと後発国家でいたいならそれでもいいと思うが(その方が楽)、それならそれで先進国のふりはするべきではない。
556
善意や良心のある人はたくさんいる(と思う)のに、こと政治の世界となると善意や良心が消えてしまうのはなぜなんだろう。
557
なるほど確かに日本では善意や良心はもっぱら個人の感覚や感情任せであって、仏教の慈悲、儒教の仁、キリスト教の愛のように言語化され、普遍的な行動規範となることがないから、立場の中で容易にかき消されてしまうのだろう。
558
葬儀そのものはやめさせられなくても、名称を「国葬儀」から普通に「内閣葬」にさせることはできるのではないか。
559
内閣が内閣府設置法に基づいて内閣の意思と予算で行う葬儀を「国葬(儀)」と呼ぶのは詐称だろう。内閣は国ではないし、「国」葬では反対する国民も巻き込むことになる。普通に「内閣葬」あるいは「内閣+自民党葬」とすればいい。
560
個人の生命・生活・人生(英語ではいずれもlife)が第一であり、互いにそれを尊重し助け合おうという社会に変えていかないと民主主義は定着しないし、カルトの蔓延はやまないし、無差別殺人も続くだろうし、差別は消えないし、ひいては経済も衰退し日本の国際的地位は低下していくだろう。
561
安倍不在によって検察が動きやすくなったとするならば、喜ばしいこと。
562
戦後民主主義が可能だったのは戦争の記憶がいまだ鮮明だったからだろう。戦争を止められなかったのは日本の民主主義が未熟だったからだという認識は、よほどの極右を除いては、広く国民に共有されていたと思う。しかし、その世代が消えていくと民主主義の重要性・必要性に対する意識も消えていった。
563
「政府としては行動制限は求めませんから自由に行動してください。罹りたくない人が自分の意志で行動制限するのは自由です。でも各人の自由なのだからもちろん政府が補償する必要はないですね。」
564
野党には経済政策がないというクリシェはよく見るけれど、手厚い教育と福祉政策こそ、最大の経済政策だろうと思う。
565
今の日本の状況は、まさに昏迷、混乱、迷走で、それは政治や社会に無関心な国民と、それゆえ問題解決能力のない政府がもたらした当然の帰結ということになる。この国を救うには強く正しい意思を持った国民が一人でも増えることしかないが、それが難しいというのであれば、もはや何をか言わんやだ。
566
あまりにも科学主義、客観主義への依存が進みすぎると、人間が本能的に持っている「なんかおかしい」という感覚が根拠のないものとして否定されてしまう。カルトの蔓延やトンデモ科学の隆盛の背景には、逆説的だがこの誤った科学主義があると思う。
567
いったいどういう社会が「よりよい社会」なのか、その根本に立ち返ってしっかり議論し直す必要があるのではないか。価値相対主義が定番化する中で、何がよく何が悪いのかを決めることにためらう風潮が生まれてしまった。そうしている間に、悪がどんどんはびこってしまったのだ。
568
今の日本の政治経済社会を横断する様々な問題の多くは、長年政府が問題解決に真剣に取り組まず、ずっと問題の先送りをしてきた結果だろう。あまりにも多くの問題が累積し、複雑に絡み合っているので、もはやこれを解決できる人は、日本人の中に誰もいないのではないか。
569
敢えて言うけれど、この近代社会を作ったのは西欧社会であり、西欧に背を向けて、その歴史をトータルに学ばないのなら、国際社会で渡り合うことは不可能だろう。それは決して西欧に対して卑屈になれということではないが、サッカーのワールドカップに蹴鞠の装束で出るような真似は失笑を買うだけだ。
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中島岳志氏の言う「個人の理性には限界があるから歴史の中で鍛えられた先人たちの集合的理性から学ぶべきである」という「保守」の定義には全面的に同意する。ただその「先人たち」を日本人に限定する必要はないだろう。世界中の「先人」から学べばいい。それを日本に限定するから保守が守旧になる。
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日本を世界標準の自由民主主義国家にすると自民党は政権を手放さなければならなくなる。ただそれだけのために、日本の進歩・発展は阻害されている。
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冷笑系は形式的な制度をもって日本も自由民主主義国家だと言い張るわけだが、自由主義も民主主義もその主体に相応しい国民が存在して初めて自由民主主義と言えるのであって、そういう主体の存在しない日本を世界標準の自由民主主義国家と呼ぶことはできない。
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弁護士の口から「反日」という言葉が出るのも驚きだが、「反与党」にすぎないことを「反日」と呼ぶとはいかがなものか。すべての国民には日本をどのような国にするかの選択の権利が保障されているのであり、それがどんなに厳しく現体制を批判し、根本的に異なる体制を対置したとしても、日本という国を
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趣味とか好き嫌いとかの話ではなく、道理に合わない判断は結局失敗に終わるということで、それは政治においても同じだ。アベノミクスが失敗したのは道理に合っていなかったからであり、モリカケサクラが批判されたのは道理(法理)に反していたからだ。道理に反する政治は多くの人を不幸にするのだ。
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統一教会をはじめ宗教団体は合法非合法を超越した論理で多額の金を動かすことができ、人的資源も豊富なので、票源・資金源として政治家にとってこれほど有用な組織はない。しかしそれは宗教団体が金で政治を買っているということであり、民主主義に対する破壊行為と言わざるを得ない。