826
「白河上皇や後白河上皇などが行った政治の特徴は、理念がまったくないという点でした。「日本をこうしたい」とか「ここを変えたい」という発想はまるで見当たりません。一つだけあるとすれば、自分自身が贅沢したい。それだけです」(本郷和人『承久の乱』文春新書)。900年前のデジャヴュ。
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自立し、主体的に生きるということは、言い換えれば自己の内に確固たる規範を持つということである。規範がなければ善悪の判断をすることができない。善悪の判断ができなければ、行為を主体的に選択することができない。その結果人は目の前の欲に流されるだけになる。これ以上は言うまでもない。
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ぼくは今でも日本がウクライナのように大国からいきなり軍事侵攻を受ける可能性は極めて低いと考えるが、備えが不要だとは言わない。ただ、日本が単独で軍事侵攻を受けるより、アメリカの戦争に巻き込まれる可能性の方が遥かに高いはずで、「日本を守る」という意味をよく考える必要があると思う。
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異性を性的な目で見ることは自然なことだし、誰もが行っていることだと思うが、それは公の場、公の関係の下では封印しなければならないという程度の規範がどうして守れないのか。そもそもそういう規範の存在自体があやしいのはいったい何故なのか。
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日本人が立場や空気ではなく、自分の本心をはっきり言うようになったら、今とは全然違う社会になっているだろう。
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ウクライナからの避難民を保護し生活の支援をするべきことは当然だが、一方で日本国内には政府の責任で保護し支援する必要のある人が大勢いるのに、そういう人々には実に冷たい。まるで外面は誰にも愛想のいいDV夫みたいだ。
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朝日新聞は解約した。
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国内でも国際社会でも、現代社会では暴力を振るった方の負けなのだ。確かに暴力はその時その場では圧倒的に力強いが、暴力を振るった者への社会の制裁はそれ以上に強力かつ執拗であり、暴力により得たものは返還させられ、それ以上の賠償を命じられる。端的に暴力は損なのだ。
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戦争は人を狂わす。平和な暮らしの中では起こりえない残虐な行為が戦場では当たり前に行われてしまう。暴力が人間の本能なのかどうかは知らないが、どんな時も暴力を封印できる人間にならなければならないと思う。醜い暴力を解放しないためにも戦争はしてはならない。
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ウクライナ戦争がどういう形で終わるにせよ、その先にプーチンの望むような世界が実現するとは思えない。その結果から今を遡って見るとき、ウクライナ人ロシア人双方の犠牲はいったいどんな意味があるというのか。無理やり奪った人の命の上に理想の世の中など生まれるはずもない。
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日本教育は本当に窮屈で、ともかく成績がすべてになっているから、学ぶ方も教える方もテストで良い点を取り、取らせることしか考えていない。しかし、それではテストの前に知ったことのみが評価され、いくらテストの後で理解しても成績には反映されない。学びと評価は本来無関係なものなのだが。
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教育とは自己教育力を育てることであり、学校はすべてのことを教える場ではないし、だいたいそれは初めから無理なこと。ただ、古文漢文であれ、微積行列であれ、そういう世界があることは学校で触れるべきであって、それがその先に各自が自ら学んでいく道案内となるのだ。
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また古文漢文不要論が現れているけれど、不要だという人にいくら必要だと言っても無意味だと思う。そういう人はこの世界から古文漢文を除いた世界しか知ることができないだけの話。ただ、当人はそれでよいのだが、そういう無知な人が増えた社会がどうなるかは今の日本が実証している。
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ウクライナから必死の思いで脱出しようとする人々の弱みにつけ込んで人身売買組織が暗躍するとは、人間というものはどこまでさもしい存在なのか。
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新自由主義政策というものは国も国民も豊かにしないということがこれだけ実証されているのに、まだ新自由主義にしがみつくのはなぜなんだろう。
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テレビを見ていた頃から思っていたけれど、ウクライナ戦争のような深刻な事態を伝えるメインキャスターが、スポーツコーナーになるといきなり軽薄で上ずった声になることに違和感を感じていた。スポーツニュースをやるなとは言わないが、せめて担当者を変えるとかできないのか。
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民主主義の確立していない国が軍隊を持つことは国民にとっては自殺行為のようなものだ。そういう国の軍隊は国民のための軍隊ではなく、権力者のための軍隊であって、命令されれば国民にも銃口を向けてくる。
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科学や論理ではなく、常に権力者の意向や都合で物事が決まる社会がうまくいくわけがないのだ。
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正解のない問いに対して異なる立場の人と真摯に対話をしながら答えを模索していく、失敗をしながら試行錯誤を重ねていく、矛盾を受け止めた上で矛盾の解消に向かって努力する。こういう「弁証法的手法」というのが日本人は決定的に不得意だ。すぐに正解を求めて矛盾や失敗を許さない。
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要するに、社会というのは個人の集合体なのだから、良い人が増えれば良い社会になるし、悪い人が増えれば悪い社会になるというだけの話だろう。我々にできることはまず自分自身が良い人になるしかないのだと思う。
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もうかれこれ10年ぐらい前になるけれど、ものすごく真面目な生徒から、ものすごく真面目な顔で「シェイクスピアってご存知ですか?」と聞かれたことがあって、社会の共通教養というものがもはやなくなったのだなということを実感した瞬間だった。
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30代の頃法律学を少し齧ったことがあるけれど、道理の全く通用しない日本社会にあって、あくまで論理的・合理的であることが要求される法律の世界に最後の救いを見る思いがあったのだが、司法の現実を見るにつけそれも幻想であったと失望を深める中で、今回の札幌地裁判決は微かな希望を見せてくれた。
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ぼく自身は「9条信者」であるはずもないのだけれど、「9条嫌い」の方がよほど宗教的なにおいがする。
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ゼレンスキー演説は「9条」という言葉こそ使ってはいないが、日本に期待するのは平和国家としての役割ということであり、日本国憲法の理念に沿った内容だった。日本は日本独自の方法でウクライナの平和回復のために、ウクライナ国民の期待に答えていくべきだろう。
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件の早稲田の教授、ついに原爆の被害は大したことではないと言うまでになってしまった。左派・リベラル嫌いが拗れるとここまで行くのか。