「異性同士で結婚して、子供を産んで、対立相克のない家庭の中で親に従う良い子を育てるのが正しい」という《素朴で自然》な感情が、カルト二世も毒親の子も性的少数者も不妊治療者も非モテも、みんなを苦しめる落とし穴なのだ。
「あんたがこんな絵描いてるのを見たら親御さんはどう思うだろうね」で《上手い事言った》つもりになる人は、例えばその作者が「毒親の支配から脱して表現者の道を勝ち取った」とか「親がいない。一切記憶にない」みたいな《少数者の事情》を想定できていない。
あと、もちろん「親が賛同している。誇りに思っている」ケースだってある。 「世の親というものは、皆わたし(たち)と価値観を共有しているはず」という傲慢な油断。
思春期に美少女漫画の勃興を目撃したワシが既に還暦目前だからね。 ワシ自身は独身子無しだけど80年代オタク草創期の「次世代」が成人してクリエイターになってる例なんてなんぼでもあるだろう。
オタクに親和的でなくても「我が子の、個人としての選択を尊重する」人だっている。 それこそが「人権意識の高さ」なんじゃないか?
厳しい言い方ではあるが、日頃から保守主義の立場に立っている人が「親に顔向け、我が子に恥ずかしくないのか」型の批判をするのは、賛同はしないけど一貫性の点で「信用」はできる。 リベラルだの人権だのを唱える人がこれを主張したら、信頼どころか対話可能性さえ怪しいという評価になる。
「自虐で笑ってわきまえていたオタク」がどこへ消えたのかと問われれば「控えめで男を立てるのが美徳だと思っていた女性」と同じところに行っちゃったんじゃないかなぁ。
オタクの「第一世代」「第二世代」という話自体が「第一世代を自称する一部の人たちが、自己の権威化のためにひねり出した概念」じゃないかという疑いをずっと持ってる。
しかしまあ、パロディ漫画とかでもそうなんだけど「スーパー戦隊のパブリックイメージ」って未だにサンバルカン~ダイナマンあたりなんだよな。 「太陽バックに空中回転」とか「崖の上に並んで爆発背景に名乗りポーズ」とか「怪人のモチーフは動物しばり」とか。 40年前だぜ。
「初期メンバーが9人でスプーン曲げやニューネッシーの怪人が出ます」 「怪盗の戦隊と警察の戦隊が対立してて、クリスマスにシャケを食わせようとする怪人がいます」 「ブラックが指名手配中で、ピンクが罠に填めて警察に売ります」
「オタク世代論」をする時(それが何故、いつ頃かは、私には同定できないけれど)、80年代の『ファンロード』的な「ジャンル、性別の越境が当たり前だった時代」と現在の「他ジャンル蔑視が当たり前の時代」の変遷というのは考える必要があるんだろうな。
『星矢』で、車田正美の天才性と計算高さを感じるのは「星座モチーフにすれば、読者は全員自分の生まれ星座のキャラに関心や愛着を抱く」というあたりだよなぁ。 その結果、日本各地に涙する蟹座や魚座の読者が現れた訳だが。
「ここに描かれているキャラは、たとえ属性に共通点があっても《あなた》ではない」 「目の前にいるこの個人は、たとえ属性に共通点があっても《キャラ》ではない」 自他を尊重する人権教育が足りてないから、必要もないのに傷ついたり、無神経に傷つけたりする奴が出てくるんじゃないか。
毎度の話だけど「地方」と言った時に ・関東、関西圏の外縁 ・道県庁所在地、あるいはそれに次ぐ主要都市 ・大学などがない規模の「市」 ・地元で食料品日用品が買えるレベルの町村 ・限界集落やそれに近い過疎地 なんかが一緒くたにされがちだよなぁ。
ちょっとズレるけど。「キャラ設定に《逆説の接続詞》が3回以上出てくるようなら再考せよ」というのもあるよな。 twitter.com/ichiro_sakaki/…
現実世界では災害で、あるいは日常で、助けが欲しい時に《仮面ライダー》も《ウルトラマン》も《スパイダーマン》も来てくれない。それはどうしようもない。 けど、「きっとヒーローが来てくれる」と信じたから、諦めずに5分生きられた子供はいる。 →
ライダーに、ウルトラに、MCUに憧れててその未知を選んだ消防士や自衛官や警察官や教師やソーシャルワーカーがいて、その延びた5分に間に合って手を伸ばして、諦めずに生き延びた子供を救い出せた例はあるんじゃないだろうか。 →
→ ものがたりには「それしかできない」けど「それならできる」んだ。 現実には「誰ひとり零さず助けるヒーロー」なんていないけど「誰かひとりでも助けたいと頑張る、ヒーローに 憧れた人たち」はいるし、そういう現実の人を生み出せるんじゃないか。
「万全じゃないから無意味」ではなく「ほんの少しでも何かよい作用があったんだ」を誇り、信じ、喜び、愛せるのは、多分素晴らしい事なんだ。
「きっとライダーが来てくれる」と信じたから諦めずに5分10分生き延びた子供と「ライダーのようになりたい」と思って道を選んだ消防士が災害の現場で出会う。 《ライダーのおかげでひとつの命が救われた》事は誰も知らない。当事者同士でさえ。
「ものがたり」は千人を救うひとりを生み出すのは難しいだろうけど「ひとりを救う千人」は生み出せるし、多分生み出している。
そもそも「ロボットもの」は「ある程度安全に肉体損壊描写ができる」ジャンルである、という視点。
このあたり、そもそもロボットアニメが「それ以前のヒーロー」と比較して「人間の科学≒知恵、理性への信頼や希望」が魅力であったというのが見落とされがち。 だからこそ『マジンガー』も『ゲッター』も、敵が過去の遺物由来なのだ。 twitter.com/sho_ho_Yamasan…
『リコリコ』は一貫して「ディストピアをどう覆すか」じゃなく「ディストピアでどう生きるか」の物語なんだよな。 軸はブレてないし、それはそれでひとつの現代的な切り口ではある。 twitter.com/AkatsukiUNI/st…
富野監督の作家性であり魅力というのは「自分が抱えている矛盾をごまかしたり棚上げしたりせず、矛盾として作品に出力する」あたりじゃないかなぁ。 ギレン的な「よし、減らそう」は肯定してはいけないと思いつつ「人間が増えすぎたのが諸悪の根源」だとは考えているとか。