葛西伸哉 ラノベ作家(@kasai_sinya)さんの人気ツイート(新しい順)

「加害者の未来のために云々」という話を見ると、「罰」が相手を更生させて適切に社会復帰させるためではなく「加害者を苦しめ、未来を奪うためのもの」という認識が広まってるのを痛感する。
明るくてテンション高めの眼鏡っ娘なんて、90年代には既に「ひとつの定番」だったよな。
『沈黙の艦隊』って連載中にソ連が崩壊しちゃったのも「時代」だけど、実は今さら展開すると厳しいのが「大国・先進国のトップレベルは、それぞれ思惑や価値観は違えど理性と知性に基づいて判断している」というところではないだろうか。
それこそリアルタイムでは顧みられず、あるいは俗悪なものとして批判された表現が、後代に「多くの人の心を動かして高い価値を得た」例だってあるよな。 売れなくて困窮の果てに自殺した画家の作品が、今では人類の至宝扱いとか。
多数派にとって不快な表現によってしか救われない人は救われなくていいのか。多数派と同じにならなければならないのか。自分は救われたいと叫んではいけないのか。 それもまた《魂の殺人》ではないのか。
ビートルズにせよ何にせよ「たくさんの人の心を動かしたから価値がある」論は、結果論から逆算した権威主義の浅ましさだけでなく「じゃあ少数の人間しか救わない、感動しないもの」は踏みにじっていいのかという危険性に無自覚ではないか。
どの犯罪という訳でなく犯罪者の「××に影響された」は『一見納得しやすい理由』ほどしっかり検証しないと「責任逃れのための言い訳」「警察が調書にまとめるための定番の《作文》」として多用されている、故に後続の模倣者が再生産されるという可能性がある。
富野監督の作家性であり魅力というのは「自分が抱えている矛盾をごまかしたり棚上げしたりせず、矛盾として作品に出力する」あたりじゃないかなぁ。 ギレン的な「よし、減らそう」は肯定してはいけないと思いつつ「人間が増えすぎたのが諸悪の根源」だとは考えているとか。
『リコリコ』は一貫して「ディストピアをどう覆すか」じゃなく「ディストピアでどう生きるか」の物語なんだよな。 軸はブレてないし、それはそれでひとつの現代的な切り口ではある。 twitter.com/AkatsukiUNI/st…
このあたり、そもそもロボットアニメが「それ以前のヒーロー」と比較して「人間の科学≒知恵、理性への信頼や希望」が魅力であったというのが見落とされがち。 だからこそ『マジンガー』も『ゲッター』も、敵が過去の遺物由来なのだ。 twitter.com/sho_ho_Yamasan…
そもそも「ロボットもの」は「ある程度安全に肉体損壊描写ができる」ジャンルである、という視点。
「ものがたり」は千人を救うひとりを生み出すのは難しいだろうけど「ひとりを救う千人」は生み出せるし、多分生み出している。
「きっとライダーが来てくれる」と信じたから諦めずに5分10分生き延びた子供と「ライダーのようになりたい」と思って道を選んだ消防士が災害の現場で出会う。 《ライダーのおかげでひとつの命が救われた》事は誰も知らない。当事者同士でさえ。
「万全じゃないから無意味」ではなく「ほんの少しでも何かよい作用があったんだ」を誇り、信じ、喜び、愛せるのは、多分素晴らしい事なんだ。
→ ものがたりには「それしかできない」けど「それならできる」んだ。 現実には「誰ひとり零さず助けるヒーロー」なんていないけど「誰かひとりでも助けたいと頑張る、ヒーローに 憧れた人たち」はいるし、そういう現実の人を生み出せるんじゃないか。
ライダーに、ウルトラに、MCUに憧れててその未知を選んだ消防士や自衛官や警察官や教師やソーシャルワーカーがいて、その延びた5分に間に合って手を伸ばして、諦めずに生き延びた子供を救い出せた例はあるんじゃないだろうか。 →
現実世界では災害で、あるいは日常で、助けが欲しい時に《仮面ライダー》も《ウルトラマン》も《スパイダーマン》も来てくれない。それはどうしようもない。 けど、「きっとヒーローが来てくれる」と信じたから、諦めずに5分生きられた子供はいる。 →
ちょっとズレるけど。「キャラ設定に《逆説の接続詞》が3回以上出てくるようなら再考せよ」というのもあるよな。 twitter.com/ichiro_sakaki/…
毎度の話だけど「地方」と言った時に ・関東、関西圏の外縁 ・道県庁所在地、あるいはそれに次ぐ主要都市 ・大学などがない規模の「市」 ・地元で食料品日用品が買えるレベルの町村 ・限界集落やそれに近い過疎地 なんかが一緒くたにされがちだよなぁ。
「ここに描かれているキャラは、たとえ属性に共通点があっても《あなた》ではない」 「目の前にいるこの個人は、たとえ属性に共通点があっても《キャラ》ではない」 自他を尊重する人権教育が足りてないから、必要もないのに傷ついたり、無神経に傷つけたりする奴が出てくるんじゃないか。
『星矢』で、車田正美の天才性と計算高さを感じるのは「星座モチーフにすれば、読者は全員自分の生まれ星座のキャラに関心や愛着を抱く」というあたりだよなぁ。 その結果、日本各地に涙する蟹座や魚座の読者が現れた訳だが。
「オタク世代論」をする時(それが何故、いつ頃かは、私には同定できないけれど)、80年代の『ファンロード』的な「ジャンル、性別の越境が当たり前だった時代」と現在の「他ジャンル蔑視が当たり前の時代」の変遷というのは考える必要があるんだろうな。
「初期メンバーが9人でスプーン曲げやニューネッシーの怪人が出ます」 「怪盗の戦隊と警察の戦隊が対立してて、クリスマスにシャケを食わせようとする怪人がいます」 「ブラックが指名手配中で、ピンクが罠に填めて警察に売ります」
しかしまあ、パロディ漫画とかでもそうなんだけど「スーパー戦隊のパブリックイメージ」って未だにサンバルカン~ダイナマンあたりなんだよな。 「太陽バックに空中回転」とか「崖の上に並んで爆発背景に名乗りポーズ」とか「怪人のモチーフは動物しばり」とか。 40年前だぜ。
オタクの「第一世代」「第二世代」という話自体が「第一世代を自称する一部の人たちが、自己の権威化のためにひねり出した概念」じゃないかという疑いをずっと持ってる。