すずもと(@aruto250)さんの人気ツイート(新しい順)

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「カズオ・イシグロ氏の記事にはポリコレが裕福な人間に独占されているなんて書いていない」という人は、「東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回って」という文章から経済状況を読み取る力がなく、また「横の旅行ではなく縦の旅行」の「横」と「縦」が何を意味するかを読み取る力も無いのだろうな。
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上位者に有無を言わさず解決してもらわない場合「強い方が勝つ」「動員できる人数が多い方が勝つ」「失うものが無い方が勝つ」「言い分が通っても人間関係で孤立する」のような、道理とは別の次元で勝負がついてしまうのを嫌がっているのだよな。迷惑な隣人に対する苦情が町内会長に入るのも同じだ。 twitter.com/marxindo/statu…
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「この社会からあいつの居場所を全部奪ってやる。社会的に死ねばいい」という暴力的な衝動を「今回のことを関係各所にお知らせしてしかるべき対応を期待する。どう対応するのかが問われている」などと澄まし顔で表現するのが本当に嫌いだ。しかも期待した対応が取られなければ恫喝するつもりの人間が。
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「謝る」ということを無意味にしてしまった結果がいまの日本政治の「意図的に見当違いの答弁で押し通す」手法の蔓延とそれによる停滞や専横だと思うのだが(考えてみれば本邦の政治は30年前にキャンセルカルチャーが吹き荒れていた)、学問も政治と同じ道を辿ってしまうのかね。
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しかし「謝る」という行為が有効なのも相手がことを収めるつもりがある(どこで手打ちにするか暗黙の了解がある)場合に限った話であって、相手が敵の社会的に抹殺し追放することを目的としているのであれば、謝るという行為には相手を勢い付かせる以外に何の効果も意味もない。
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学者大戦争に「私も遅ればせながら事件を知りました。これはお二人の問題に矮小化してしまってはいけないと思います!」みたいな人が続々と合流していて、「あの人権先進国のアメリカで行われているキャンセルカルチャーによるアカデミアの浄化をやっと日本でもやれるんだ!」と正義に浮き立っている。
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「我々は弱者である・被害者である」と言いながら、世の中の空気の決定権を握っているのは誰なのか。対立相手を即座にパージできる力があるのは誰なのか。また対立相手を見つけてパージすることに積極的なのは誰なのか。「我々は弱者である」というのも、もはや「大本営発表」の類いなんじゃないか。
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「日本アカデミー賞はアニメが日本全国の映画館を救ったのにアニメへの扱いがあまりに軽過ぎる」という話、アニメが日本の映画を救ったことに対してはむしろ「アニメのくせに俺たちに『こいつに救われた』という劣等感を抱かせやがって」と感謝ではなく恨みを募らせるくらいしていると思うんだよな。 twitter.com/takanadu/statu…
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そして旧エヴァでは庵野監督がシンジ君になっていたけれど、今回は完全にゲンドウが監督ですね。自分はこんなダメ人間だったけど理想の伴侶が突然降ってきて幸せになりました、って、そんな監督の幸運な人生を作品に仮託して語られてもどうしたらいいのか。カルト作品の完結編でしていい仕打ちなのか。
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登場人物たちが事前に「いいかみんな、今日でエヴァを終わらせるぞ!」「応!」と示し合わせたかのように息を合わせて風呂敷を畳む畳む。そして出てくる結婚と子供と生活の大事さを伝えるメッセージなのだが、そりゃ監督は結婚できたからいいけど、それがかなわなかったファンは辛いだけでしょこれ…。
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貞本版エヴァでも思ったが、「終わらせるために終わらせた」という印象の作品だった。「(旧エヴァの二の舞にせず)最低限の義理を通すために終わらせた」感があり、シン・ゴジラとかシン・ウルトラマンの路線に移行したい監督がエヴァを清算したかったのかなと思わせる、手切れ金みたいな作品だった。
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映画を観ながら無惨様の「いつまでもエヴァに拘っていないで結婚して子供を育てて暮らせば良いだろう 殆どの人間がそうしている 何故お前たちはそうしない?」「ファンの相手は疲れた いい加減終わりにしたいのは私の方だ」みたいなコラが頭をよぎって仕方なかった。監督はエヴァに飽いている。
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シン・エヴァンゲリオンを観たけれど、この内容なら十年遅い、いや十五年遅いよ!伴侶を見つけて結婚しろ、子供を作れ、現実を大事にしろというメッセージならファンが30歳くらいまでのうちに伝えなきゃ。今頃そんなメッセージをお出しされてもファンは取り返しのつく年齢を過ぎてしまっている。
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牝馬が仰向けに股を開いている写真に対して「青少年も見ているのだから通報した」「馬にも基本的馬権がある」という発言が出るのはすごい。女性であることをキーにした共感(または萌え画嫌悪と同種の男性の性的目線への嫌悪感)は、ヒトという種を超えて少なくとも哺乳類にまで適用されてしまうのだな。
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話がそれた。ともかく夫婦別姓については、どうにも「自分と夫/妻」「自分と子供」「自分と親」という、「いま・ここ」の視点でしか考えていない議論があまりにも多いと感じる。そういう視点の「多様性」は、導入直後の世代の人生こそ華やかにするだろうが、文化の多様性は失われていくだろうと思う。
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こういうことを言うと「排斥を正当化している」とか指摘されてしまうのだろう。だけど、排斥の行き着く先は征服であり併呑なんだよな。むしろ混ざってしまう。とすれば、真に多様性を守る行動というのは、きっと集団の間に立って、互いを混じり合わせることなく対立を調整し続けることなのだろうな。
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だけどそうしたことが、「いま・ここ」にしか関心のない人々には分からないのだ。自分の生きている「いま」・自分の住んでいる「ここ」に、外国人の登場人物が増える、それを「多様化」だと考えてしまう。自分の人生を花束みたいに沢山の種類の人間で飾りたてることが「多様性」だと思ってしまう。
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根無し草の人間には「多様性」なんて作り出せないのですよ。例えば単身アメリカに渡った日本人に、一人で日本文化の全てを担保できるかと言ったらできないわけです。2億人の中の1人ではほとんど何の文化も守れない。ただ東アジア系の人間であること(それは身体に刻まれているから)しか残らない。
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やはり転居の自由というものは、近代において決定的に社会を変えたものの一つなのだろうな。土地ごとに異なっていた多様な文化が分解消滅し、日本という大きな括りでも成立(共有)できるような、ゆるくて曖昧な「日本文化」になってしまった。夫婦別姓の導入で多様性はまた一段と失われるのだろう。
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またしばしば言われる「平民は近代まで姓などなかったのだから伝統などない」みたいな話も、当時は転居というものが少なく(奉公に出ても基本的には戻ってきた)、人間は土地に密着して生きていたということを合わせて考えないといけないと思うのだよな。土地そのものが姓と同等の機能を果たしていた。
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もう先に言われてしまったけど、選択的夫婦別姓で一世代ごとに二世代前と異なる側の姓を選ぶことを繰り返した場合、姓によってほとんど何も遡ることができなくなり、もはやそれは「姓」というものの機能を果たさなくなるのだよな。それは「姓」と呼ぶ意味がない単なる個人名の一部になってしまう。
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批判が多いけど自分はこれに同意する。ただ、自分もそうだが「他人に優しくしなくていい理由」を血眼で探しているのはロスジェネ底辺だけではなくほとんどの人間が同じだろう(「自己責任」「自業自得」なんてそのための言葉だ)。そしてロスジェネはあまりにも「理由」に使えてしまう不遇が多すぎる。 twitter.com/0icco/status/1…
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以前も似たようなことを言ったけど、夫婦別姓を推進する人は、そもそも姓の廃止を目指すべきではないのかな。相手の姓になりたくないのは分かる。だが自分が自分の親の姓になるのはなぜOKなのか。そして自分たちの子供には姓を与えるべきではないはずだが、そこの議論があまり無いのはなぜなのか。
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山形の芋煮会で使われる重機が毎年新品を使用している(芋煮会で使用した後はオーバーホールされ販売され、翌年はまた別の新品を使う)という話は、なにか式年遷宮で新しくなりつづける社殿を思わせるな。やはり芋煮会は神事なのか。 twitter.com/Redpanda76/sta…
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『よつばと!』の新刊を読んだが、読み始めた頃は気が付かなかったこと…つまりこの漫画が都市型リベラルのための作品であるとか、描かれる世界の高文化であるとか、経済的な豊かさであるとか、そういう格差みたいなことばかりが見えるようになってしまい、もう純粋には楽しめなくなってしまったな。