大学も、何なら大学院であっても、人間が勉強することに理由なんていらなくて、「なんとなく」でも全然問題ない。自分も今まで「なんとなく」という以外の理由で勉強しはじめたことなんてほとんどないけど、勉強した後はじめてその意味や使い道に気づくし、概ね世の中そういうもんだと思う。
分析結果報告した際に「私の感覚と違う」みたいなこと言う人しばしばいて、「ご自身の感覚修正する機会になって良かったですね」と自分は思うんだけど、結局「感覚と違うから分析結果は無視する」みたいな方向に進むタイプもいて、マジ何のためにデータや分析に沢山お金払ってるんだかよくわからない。
何かにつけて「賃金を上げると国際競争力が下がる」みたいな物言いする人、要するに「同じものを人海戦術で安く作る競争」の参加者であって、世界の最先端で争われてる「お金かけて新たにすごいもの作る競争」のプレーヤーではないのではないかと気づいた。
なぜかワクチン嫌いな人、謎のサプリとかよくわからない謎の独自治療とかは好きだったりするんですけど、ワクチンって言葉使わずに「免疫力をアップさせる特別な成分が配合された注射です」って言ったら接種してくれたりしないかなって思うし別にそれほど大きなウソはついてない気がする。
偉いおじいちゃんたちが教育に何かもの申す際、現代の学校を目にすることもなく、現代の教育を受けた若者に話を聞くわけでもなく、「大昔の自分の学生時代の経験とイメージ」だけで語ってたりすることがしばしばあるの罪深いなって思う。
けっこう前からずっと言ってるんですけど「どれだけ賢くて何かの分野で偉業を成し遂げた人であれ専門外の発言に関してはポンコツである可能性に注意した方がいい」みたいな意味で、「ニュートンとヒキガエルのゲロ」って表現は警句として世の中にもっと知られていい気がする。 twitter.com/philomyu/statu…
オバマ元大統領やスティーブジョブスが毎回同じような服着てるのも、「意志決定の回数節約する」ってメリットあるんじゃないかって言われてて、彼らですらそうやって気をつけてるくらいなので、みんな色んなものルーチン化して、色んなこと人に任せて、優先度の低い我慢やめた方が良さそうである。
日本のテック業界全般もっと先行研究を学んだ方がいい。疫学も知らずに「医療データを収集して病気の発症を予測します!」とか、リーダーシップ研究も知らずに「人事データを収集して優秀な管理職を探します!」みたいな、そういう車輪の再発明試みる人とそれらをつい評価しちゃう人が多すぎる。
他人に対して平気で「コミュ力低い」とか蔑む人の大半、「自分と同じような人としかコミュニケーションとれない」という点で大したコミュ力ではない。コミュニケーション能力が限界突破すると、仮に相手がコミュ障だろうが互いに気持ちよく意志疎通できるので人のコミュ力など気にする必要がないのだ。
あんまり誰も検索しないけど、意外とオフィス街から歩ける範囲にもちょこちょこマンション建ってたりするし、職場から徒歩圏だと昼食も夕食も自炊や宅飲みしやすくなって深夜タクシー代も不要なのね節約になるし、特に職場コミュニティよりお家が好きな人たちは検討すべき選択肢だと思う。
「自分がやられて嫌なことはやめましょう」って教え方、人間同士の異質さや多様性に対して想像力働いてなさすぎるだろう。この教え方だとお酒好きな人がアルハラすることにも、アレルギー持ちの人にその食材食べさせるのも、異なる宗教の人のルール冒涜することにも何の歯止めにもならないのである。
こないだリクルートが炎上してた「内定辞退確率の予測」てやつ、そもそもそんな予測が必要になる時点で就活市場のメカニズムデザインが、会社側にとっても学生側にとっても上手くいってない状況だとも考えられて、リクルートはこの機会にその筋の経済学者とサービスを再設計した方が良いのでは。
子どもの頃「なんで勉強しないといけないんですか?」て質問してあまり納得いく答えもらえた覚えないんですけど、今の自分なら「自分が唯一自分にコントロールできる人材である『自分』の便利さをあげるためだよ」って答える。自分に全くないスキルが必要な仕事実現するのって結構たいへんなんですよ。
「若いうちの苦労は買ってでもしろ」っていうことわざをもう少し正確に言うと「質の高い学習と訓練を可能な限り早い時期にこなせ」だと思う。人間の成長って年利○%で雪だるま式に効いてくることがあり、早くから何かに秀でれば秀でるほど、よりその成長を促してくれるような機会に恵まれやすい。
ウサギとカメっていう童話で大事なポイントは、カメが勝負にあたって上手いこと長距離走勝負の合意取り付けた部分だと思う。ウサギはそもそもの生態として日中寝る生き物なので、その時間考慮した場合に勝てるレギュレーションの合意を取ったカメめっちゃ賢い。
「便利なテクノロジー」がこういう便利さ以上の大きな社会的インパクトをもたらすこと、歴史上しばしばあると思うけど、長年冷蔵庫作ったり売ったりされてきた方もあまり意識してないかもしれない。逆に自分が携わる仕事が回り回ってどんなよい意味を持つか常に考えると良いモチベーションになりそう。
日本人はインフルエンザに毎年1000万人ぐらい感染して、間接的なもの含めると1万人ぐらい亡くなってると推計されてるので、この機会にみんなマメに手を洗って、他人のマスク着用に文句つけなくなって、病気の時に人前に出てこなくなるような規範とルールが整備されたらいい。 mhlw.go.jp/bunya/kenkou/k…
一般論として「不快にさせて申し訳ありません」て謝罪があまり好きではない。価値観合わない他人に何の非もないことを「不快だ」って思われたからといって謝らないといけない社会であって欲しくないし、逆に明らかな非のあることを「不快にさせた」って言うのは問題の矮小化というやつではないか。
世の中の人「ふつう」のハードル高過ぎないかとたまに思うことがあって、そのへん「りっぱ」ぐらいに思ってた方が人生楽しめそう。多くの人が言うふつうのごはん、ふつうのキャリア、ふつうの会社、ふつうの異性とか、冷静に考えるとすごい手間暇かけないと成立しない立派なものだったりしないか。
おそらくスポーツに限らず、「同じ努力で成長しやすい」人が何かに成功した際、その人が努力してないわけでもないし、「努力は自分を裏切らなかった」という実感もウソではない。だからと言って自分より成果の劣る他人に対して「努力が足りない」と考えるのは陥りやすい罠だ。
若い頃、「二営業日ほど前までにご連絡頂ければ何とか対処しようがあったのですが…この度はお力になれずたいへん申し訳ありませんでした」と仕事のムチャな要求をお断りした経験あるんですけど、これひょっとしてめちゃくちゃ丁寧に言い換えた「一昨日きやがれ」という表現にならないか。
単純作業が苦にならない勤勉な人間、機械とかITが未発達な時代にはそれだけで価値あったんだろうと思うけど、逆に今だと「めんどくさいから何とか自動化してやれないかって考えてしまう」っていう怠惰さの方が圧倒的に価値生むので、学校の道徳教育とか会社の文化醸成とか転換点に来てるのではないか。
社会保障制度は弱い立場の人が「可哀想だから」ではなく、そういう人が追い詰められて治安脅かすリスクや取り締まるコスト考えたらむしろリーズナブルだから必要って世界中で採用されている。同じ感じで今自粛によって収入激減しそうな人への生活保障とかケチると、後々もっと高くついそう。
星新一の小説で未来人の肩にロボットオウムがいて「言いにくいことを上手く言ってもらう」「ややこしい話を要約してもらう」みたいな機能があるんだけど、オウム抜きだと人間同士は「これ買え」「いらねぇ」「そこを何とか」「帰れ」しか会話してないっていう話があって、未来に対する先見性がヤバい。
なおこのメタファーで言うと、あなた全然専門家とちゃうやんって人が専門家ってうたってメディア出だして、最初からフルスロットルでいいかげんなことばかり話してるケース、どんな分野であれ専門知識積み上げてきた先人に対する敬意欠いた純度100%の「ダークサイド専門家」ってやつだと思う。