バーゲンは仕方ないが赤松健と一緒の安売り告知は勘弁してください。 twitter.com/comic_checker/…
節電呼びかけから原発再稼働という民意が自然と下から湧いてくるように見えるけれどこれを翼賛用語で「下意上達」といい政治の意思が民意に従う形をとる民主主義によく似たファシズム。左派やリベラル叩きも含め「下意」が自発的に「上意」を実践してくれる社会の構築がファシズム設計の肝なんだよな。
高齢者の年金カットや福祉の縮小というと世代間の問題として支持する若い世代がいるが、現実に困るのは自分の親なり祖父母なりで、本人や親や祖父母に資産が相応にあるならともかく、そうでない場合、介護やその費用に追い詰められ個人的に立ち尽くすのは自分なんだよ。
宮崎事件で事件の関連付けられ強引な報道がなされたのは犯行声明の仮名と偶然同じ名のキャラが出てきたまんが(宮崎は読んでいない)でエロでもなんでもない。彼の部屋にあったのはロリ系でなく人妻系エロ劇画誌が一冊。それも含め裁判でもメディア表現の影響は全く争点になっていない。以上、事実。 twitter.com/t_wak/status/1…
ああディストピアなんだ、今。 杞憂でも比喩でもなく粛々とした事実として。
教団への私怨が動機と仄めかされる事件に対し、犯行が言論の自由や民主主義への挑戦だという論調の作られ方やその語り手の一部を見るにつけ、政治とカルトの不用意な接近や癒着が問われべきなのに事件を教団からミスリードするためのいささか都合のいい大義として使われていないか、と危惧する。
政治家と統一教会のお付き合いは普通のことなんですよ的な産経新聞の有名記者の呟きを目にする。そういう永田町の普通、に染まった報道が何を見えにくくしてきたかもこの件のみならず問われることはあるのだろうか。
かつてワイドショーネタの定番だった統一教会の今回の「報道のされなさ」は、その周辺で指摘されてきた政治との関わりを含めた問題が元首相との関係の検証以前に丸ごとが、正々堂々と不問にされていくとても気持ちの悪い光景を見せつけられている。
こう露骨に「報道しないこと」についてのコンセンサスが作られてくのはなんだか、と思いつつ、それが可能な議席を私たちは与党に与えたばかりなのだから当然か。
元首相が「教団の会員として登録されたことや顧問になったことはない」のに容疑者が「陰謀論鵜呑み」に犯行に及び「団体への恨みから殺害に至るまで距離があって困惑」していていて教団も一種の被害者だが「警察から要請あれば全面的に協力」するまっとうな団体だ、と、いうのが各社協力の落とし所か。
教団は元首相との関係を勘ぐる陰謀論者の流れ弾に巻き込まれた善意の第3者、という絵図か。統一教会に大手の報道がお墨付きを与えた感じで、しかし、これがおかしなことだと微塵も思わない人らが今や報道なのだから何をかいわんや。
今は誰が何を書いても罵倒されるだけだし、世代論に還元しきれるものでもないが、少年A、ネオむぎ茶、加藤、青葉に山上も加えた1980年初頭生まれの同時代の精神史を誰か用意しておいてもいいのでは、と思うが、そんなことを微塵も思わないのが「今」なのか。
「いつも私のことを守ってくれた」 私人であれば美しい夫婦関係だが、公人である元首相が昭恵氏を「守る」ために歪められたり犠牲になったことはなかったかと有権者は記憶の糸を手繰り直す準備だけはしておかないと。 news.yahoo.co.jp/articles/27176…
東スポの「トンデモ」で終わればいいがタカくくっていると、「反アベ」狩り世論一色の世界は一瞬で出来上がる。
かつての戦時下に向かう中での物書きの転向は特高にボコられるのではなく「いや主義主張はおいてこういう仕事あるんだけど」などと先方が肩に手を回してくるケースがとても多いことが当時の資料からいくらでもうかがえるし、結構自発的にあっちに行った人も少なくないのは今も変わらない。
「反アベ」はとこかの粗忽な「左派」を生贄にすればあっという間に「反共」から、どこかで聞いた「勝共」というオチになる。
表現や言論の自由にせよ信教の自由にせよ、「国家権力からの自由」という点で最大限に担保されるのが原則だが、権力を補完し忖度もし、その庇護で自分ら限定の自由を権力に担保していただくことに、これらの「自由」を希求するあり方が根本から変わってしまっている。
元首相の「国葬」は一つ間違えば国民参加の「神格化」になりかねず、他方では電通が「国葬」企画のプレゼンとかリアルに準備してそうで、今進んでいるのは「陰謀」じゃなくそういう「政治」を野放しにして来た果ての光景。
何年か前「感情化する社会」という本を出して、人々の行動原理が理性でもイデオロギーでもなく「感情」とその一体化に傾き過ぎてはいないかという違和を書いたが、別に予感が当たったとも言わないが、ああ、この感じなんだよ、と「今」を思う。
今朝のモーニングショー、予定された旧統一教会と政治の関連のコーナー、ばっさり後日回しになった直後に日本財団が提供の時間帯に入る。同財団の前身、日本船舶振興会初代会長は笹川良一氏が国際勝共連合発足時の名誉会長であるのは無論、全くの偶然で、きっと忖度のない報道を後日やると信じたい。
全国の学校や企業まで同一時刻に黙祷等を半強制でやるとか、「国葬」が憲法改定の流れに都合よく接続されないかとか、「国葬」の名の下に報道も含め誰が動員されるのか、そこに至るこれからの過程も含めて記憶・記録しておくのはそんなに難しいことじゃない。
まるで何かが憑いたように「国葬」、「原発再稼働」と次々と秋冬に向けて「英断」を下していく。 news.yahoo.co.jp/articles/99629…
有田芳生氏が元統一教会について語る姿を見て自明だと思っていたことがこんなに伝わらず断絶していたのかと経済とは別の「失われた30年」がこの件に限らずあったんだよな、と改めて思う。
国家公安委員長の名前までちらつけば、そりゃ、みんな、政治と旧統一教会の関係に沈黙するよなあ、と納得。
この10年で作り出されたのは政治権力と同一化することで「そうでない国民」にマウントすることを愉悦とする「国民」を支持基盤とする政治なんだよな、と思う。