戦いの準備をする姿に感動し高揚することは、殺すこと、殺されることに高揚し、感動することなんだよ。 その錯誤が戦争自体を美しく見せてしまう。とにかく、戦争に「感動」を付与しちゃダメだがオリンピックで国旗降って感動する条件付けがされてるしなあ。 twitter.com/MiraiMangaLabo…
ニュースでウクライナ市民が市内にとどまり市街戦のため銃を持ち皆で火炎瓶を作る様が「美談」として日本でも報じられているが、これは自発的な「玉砕」の準備に等しくこの時代錯誤的な姿が改憲論などの情緒化、感情化に与える影響は大きい。戦争に感動を求めたらダメだよという自制が報道に欲しい。
ウクライナ戦争を機に考えるべきは、軍事でなく食料やエネルギーの自給で、輸入に依存し続けるなら、そうならないための外交がいかに必要かということなんだけどなあ。改めて戦時下リスクがあらわになった原発の再稼働論でもなくね。
今、九条や平和主義について肯定的に呟く言葉を飲み込み口を噤むと、後悔するか、それを心の中で正当化するために「転向のロジック」を捜すことになる。 「確かに平和は大事だが」の「確かに」と「だが」はいらんです。「現実」を口実に平和主義へのマウントを取る人らの「現実」も。
このバリエーションとして「日教組」「戦後教育」が悪い、というのもあった。
僕が保守論壇にいた時、何を書いても結びは戦後民主主義、憲法九条が行けないで締めればいい、と言われた。僕はそれで保守論壇で戦後民主主義を肯定的に語る選択をしたが、この「なんでもいいから戦後民主主義批判」が今のこの国の暗黙のうちの言語空間の基調に確実になっていることは申し添えたい。
「本当の戦争」を回避する外交に各国が奔走する中、世論は憲法九条に「平和ボケ」とマウントを取るのに熱心だが「前文」から読み取るべきは武力でなく外交で国際社会に貢献していくことで、それを放擲してきたから今、出番がなく、そこに気づかず「内政」の改憲論に熱心な方がどれほど「平和ボケ」か。
安倍や岸田の外交力を自賛してきたが、主要国の首脳が最悪の事態回避のための外交に必死の中、日本はゼレンスキーに戦争終わったら金出せやと言われるのみで、要はこの瀬戸際の外交への参与は国際社会から期待されていない、という日本外交へのリアルな評価をもう少し現実のものとして受け止めないと。
日本が「侵略戦争」とロシアを罵りアメリカは民間人殺害を「戦争犯罪」に認定する。新しい戦争はかつての戦争を内省する抑圧からかくも開放するのか。それが同じ愚を繰り返す理由なのだと呟き記憶する。
しかも日本、復興支援お願いな、とトランプ、プーチンだけでなくゼレンスキーからもATM扱い。 まあATMに徹するという安全保障もあるのか。 と、つい説得されかけもする。恐るべし。 twitter.com/MiraiMangaLabo…
ゼレンスキー 、北米では扇動、ドイツでは挑発、日本では「感謝」と「持ち上げ」と政治家のメンタルを計算しきった動員技術に唖然とするが日本人がどれだけ「日本スゴイ」と言われたがっている承認欲求の強さを見抜かれていて、そこはほんと恥ずかしい。 が。宗雄も立憲も志位さんまでもってかれた。
国々で受け手がそう記憶したい歴史認識で戦争を語り、歴史を修正し「みんなの戦争」化する技術はまさに動員の話術で圧倒的。煽るだけじゃないギアチェンジも得意とするところ。抑えた口調は多分左派にも好評のはずで救いは山東昭子の打ち震える声のスピーチで、これで少しひいて醒めた人もいたのでは。
ゼレンスキー演説、ひたすら情緒に訴え、反核に連なる広島長崎でなく「サリン」「原発事故」で戦争の記憶を代替し、日本をロシアの侵略戦争にアジアで最初に抗議した国と持ち上げる。まるで日本を侵略戦争の歴史から解放しアジアのリーダーと持ち上げるようでもあり、実に巧妙。
ゼレンスキー演説の危なかっかしさは外国の大統領とはいえ動員の話術を持つ政治家の本気のプロパガンダ演説が国会で行われテレビ中継されること。そういうガチに慣れていない日本の有権者の持っていかれ方や報道の扇動のされ方は要注意。
日本だと、小泉政権の時、広告代理店の報告に基づきテレビでもワイドショー、紙媒体ならスポーツ新聞と政治的に動員しやすい有権者に特化したメディアに向けたマーケティング的が露骨に始まり、更に自民下野あたりからwebはユーザー特性により細かく対応した動員に寄与している。 twitter.com/hiranok/status…
ロシアの横暴を見ながら「戦前戦時下の日本みたいになるのは嫌だなあ」と思わず「戦前戦時下の日本」にいかにこの社会を近づけようとするのか、あれこれ言い出す、その感覚が僕にはわからない。
ウクライナを見て考えなくてはいけないのは「侵略されたらどうする」と核や改憲を語ることでなく「侵略しない国でいるにはどうする」なんだ、とやはり言うべきだろう。 言う。
ウクライナも木村さんの死もあらゆる悲劇に乗っかって自分らに都合のいい政策に持っていくのがどの政党なのか。人としてダメだろうし、罪とはそう言うことを言う。 lite-ra.com/2022/03/post-6… @litera_webより
この国が核を持つということは、政治のトップにそれを盾にした今のウクライナのようなぎりぎりの交渉の場に私たちの命を預けて核のボタンを持たせ立たせるということも意味し一体、与党の顔ぶれを見て一体誰がその任に耐えられるのか。そこまで含め考えたほうがいい。
今、欧州でも日本でも起きているのは「プーチンによる世界像の書き換え」で、それはウクライナの主権の変更の有無だけでなく、日本が煽られ憲法を改定したり非核三原則を放擲したりすることは「覇権主義のゲーム」が唯一のルールの世界像作りに「貢献」することにもなってしまう。
この戦争に対し無力な私たちができることは、だからこそ戦争を止められるのはその国の主権者だけであることの再確認と、だからそこにはいかなる政治家や政治体制を選ぶか、選択を誤っても政治の暴走を抑止できる法秩序になっているか、そして有権者がいかに理性的に政治選択ができるかということだけ。
他国の戦争に現実に私たちが個人でできるのは自らの国のかつての戦争や今の私たちの戦争観の倫理的な問い直しぐらいで、繰り返すけど他国の戦争にフリーライドした戦時下的高揚を持ってではなく、ウクライナと違い「ここ」は「平時」という冷静で残酷な事実を噛み締めて。
プーチンが核をちらつかせているどさくさで、核共有を世論としようとするさもしい政治を支持することと、だからこそ核を持たない側の代表であるべきだとこの国があたらめて選択し表明することのどちらがたった今ウクライナの人々感じる恐怖を共有することになるのか、考えればわかる選択なのに。
安倍晋三が当時自賛したプーチンとの信頼関係を築き、報道されたように外交で各国の信頼を得ていたなら、皮肉でなくその影響力を行使しすべきだが「核共有」発言という率先して世論を戦時モードに焚きつける様に、あれは虚像だったと自ら認めているようも思える。
朝の番組。「ロシアはウクライナの解放を名目に侵攻し」「侵略されたウクライナの怒りは消えない」といった意味のコメント。今回の当たり前すぎる解説としてなのだろうが侵略の大義と、された側の怒りはいつの時代も変わらない、と自らの歴史を振り返ることぐらいテレビのこちら側の私たちはできる。